日曜日の観覧車
星屑による星屑のような童話。よろしければ、お読みくださるとうれしいです。
地下鉄の改札を抜け、階段をかけのぼる。背中のデイパックが、しきりと揺れた。中の荷物が、あばれているんだろう。
ぱふぱふ、はずむように口から勝手に飛び出していく白い息。その先には、外からのまぶしい光がもれている、地上への出口がある。
えいっ、とそこに、勢いよく飛び込んだ、ボク。その瞬間、ボクの視界は「まばゆい」光に包まれて、真っ白になった。
目の前を自動車の通り過ぎる音とともに、ゆっくりと戻ってきた、冬の始まりの色。そして、次の瞬間にボクの目の前に現れたのは、「父さん」だった。
いや、正確には、父さん「だった」人。
ボクと今一緒に暮らしている母さんと、三カ月前に離婚したから。
うす汚れた白いシャツに、灰色のよれよれズボン。何日も剃っていないせいか、口の周りの無精ひげが、妙に目立つ。
父さんは、左手であごをジョリジョリさすりながら、ぼそっと声を出した。
「やあ、トモキ。元気だったか?」
「ああ……まあ」
「おっ、父さんが買ってあげたデイパック、まだ使ってくれてるんだ。うれしいねえ」
「……うるっさいな。余計なお世話だよ」
憎まれ口が、勝手に口から出る。
けど、無理もないだろ? この三ヶ月というもの、ずっとこの人を憎んできたんだから。
「――で? どこ行くのさ?」
もちろん、すごく面白いところだよね? 期待しちゃうよ。だって数日前に、わざわざ電話で「日曜日に会わないか、二人で」なんて連絡してきたくらいなんだもの!
父さんは、にこっと笑い、道路のななめ向かい側にあるビルの、屋上を指さした。
「あそこだよ」
――観覧車?
父さんの指の先――そこにあったのは、丸くて赤い箱が、ゆっくりと輪になって回っている巨大な円だった。
確かに、ビルの屋上に観覧車があるって話は聞いてたよ。けど、十二歳にもなって、しかも男同士で観覧車に乗れって? それが面白いことなの?
あきれた――
と、ボクの口から、その言葉が出かかったときだった。父さんは、ボクの右手を、ぎゅっとつかみ、
「じゃ、行こうか」
と言って、まるで少年のような笑顔を見せたんだ。そんな父さんの表情、初めて見た気がする。
――父さんに引っぱられながら地下街を歩き、目当てのビルに向かう。入り口を抜けると、突き当りのところに、エレベーターのドアが見えた。
「一度、乗ってみたかったんだよ」
ほとんど音もなく屋上へと昇るエレベータの中で、ソワソワニヤニヤした父さんが、ボクに耳打ちした。
(はあ? 自分が行きたかったワケ?)
ボクのため息が、ふう、と鼻からもれる。ちょうどそのとき、目の前のドアが、すっと左右に開いた。
受付のお姉さんが、今日の空のように青くすみきった声を、はりあげる。
「いらっしゃいませえ」
父さんは、お姉さんの案内で、大人と子ども、二枚のチケットを自販機で買うと、おどおどしながら、お姉さんにさし出した。
父さんに引きずられ、観覧車の乗車口へと進む。と、その手前で、別のお姉さんがボクらの行く手をさえぎるようにして、現れた。
「はい、チーズ!」
ウムもいわさず、いきなりカメラのシャッターを切る、お姉さん。ボクは不覚にも、そう不覚にも、父さんに寄りそい、にっかりと笑ってしまったのだ。
「楽しい思い出の写真はいかがですか? 観覧車が一周する間に出来上がりますので、よろしければお買い求めくださいね」
ものすごく魅力的なお姉さんの笑顔がさく裂したけれど、今のボクには、素直に喜べなかった。
(そんな写真なんか、いるもんか。第一、全然楽しくない)
笑顔を振りまき去っていくお姉さんをにらみつけ、ボクは冷たい鉄のカタマリのようなゴンドラに乗りこんだ。
ゴンドラの扉が、すーっと閉まる。二人乗りの席の真ん中に座り、父さんと向き合う。
「トモキが小さい頃、遊園地に行って、よく観覧車に乗ったよなあ。覚えてるか?」
「さあね。全然、覚えてない」
ボクは、何日か前に降った初雪が残る、窓からの景色を、横目で眺めた。
ゴンドラが、ずっしり重たい空気をのせながら、ゆっくりと上っていく。
窓からの景色が、一面のおもちゃのような街並みに変わり始める。そのとたん、子どものように、はしゃぎ始めた、父さん。
それで、さっきまでのゴンドラの重苦しい空気は、どこかに吹き飛んでしまった。
「あ、動物園見えるぞ。お前、あそこのオオカミが好きだったっけ……お、川べりの公園だ! よくキャッチボールしたよな……街中の観覧車でも、けっこう見えるもんだ」
バンッ
ボクが、てのひらで勢い良く席をたたく。
「いい加減にしてよ! 話があるなら、サッサといってくれない?」
しん……と静まった、ゴンドラの中。
観覧車は、なおもゆっくりと回り続ける。
「すまなかった……」
しゅん、となった父さんは、じっとボクを見つめながら、言葉を続けた。
「ここに来たのは、二人っきりで話したかったからだよ……お父さんとお母さんが離婚した、本当の理由をお前に教えたい」
いきなり、そんな重い話?
そういえば、母さんからはそのことについて、何も聞いてなかったな。ボクも、詳しいこと知りたくなかったからなんだけど……
少しの沈黙の後、ボクは声をしぼり出して、こう言った。
「本当の理由? どうせ女の人か、何かだろ」
「それは、ちがう」
即座に返ってきた、答え。
なつかしい、あの、強くて低い声だ。ボクの心臓が、ドキン、と鳴った。
観覧車のゴンドラは、今まさに頂上。今度は、ゆっくりゆっくり、と下がり始める。
「父さんは、来月から外国に行く」
外国? 意味がわからない。
「……アフリカに行って、貧しい人たちの手助けをするんだ。三年くらいかな」
「それが、離婚と関係あるの?」
父さんは小さくうなづくと、遠い目をして外の景色を見つめた。
「父さんなあ、貧しい国に行って、人の手助けするのが、昔からの夢だったんだ。だけど、ずっと決心がつかなかった」
「……。それで?」
「でも、やっと決心がついた。それで、母さんに相談した。会社をやめて、しばらく一人で外国に行きたい、てな。そしたら、母さんが――」
ごくり、と息を飲む、父さん。
「『そんなこと、ゆるさない。けど、離婚するならいいわ』って、言ったんだ」
「そんなの当たり前だろ!」
ボクは、父さんの目の前で立ち上がり、そのままの姿勢で固まった。右手のこぶしが、プルプルとふるえている。
「貧しい人を助ける前に、自分の家のこと心配する方が、先に決まってるじゃん!」
父さんは、がっくりとうなだれた。
「……。確かに、お前のいうとおりかもしれない。けど――」
きらりと光る瞳をのぞかせて、その顔をゆっくりと上げていく、父さん。
「どうしても夢をかなえたい。そして、夢をかなえたとき、父さんは本当の夫、そして、本当の父親になれる――そんな気がするんだよ」
「本当の夫? 本当の父親?」
よくわからない……ボクは、たおれるようにして、席にすわり戻した。
「そうだ。だから日本に帰ってきたら、また母さんにプロポーズをする。いいといってくれるまで、十回でも、百回でも、千回でも」
「…………」
ゴンドラは、だいぶ低くまで下がってきていた。もう、街の景色は見えない。
「わかった、たぶん……」
父さんの表情が、ぱっと明るくなる。
「だからな、トモキ――」
父さんが、何かを言いかける。
けれどそのとき、ガタンという音とともにゴンドラの扉が開いて、父さんはその続きが言えなかったんだ。
「いい感じのお写真ですよ。どうですか?」
ボクらがゴンドラを出るのを待ちかまえていた、お姉さん。父さんは、写真をチラリと見たあと、サイフからごそごそとお金を取り出して、それを買った。
「これ、トモキにやるよ」
ちょっと引きつった顔の父さんの横で、写真の中のボクは、よりそって笑っていた。
「……。じゃあこれは、写真のお礼」
ボクは、背中のデイバッグを降ろし、中から木製の「写真立て」を取り出した。
「ボクと母さんの写真だよ。大事にしろよ」
「トモキ――」
父さんはボクを抱きしめようとしたけれど、それだけは遠慮させてもらった。だって、まだ「他人」の男同士でひっつくのは、どうかと思ったから。
ちょっとショックを受けた感じの、父さん。でもすぐに気を取り直し、写真立てを大事そうに抱えながら、こう言った。
「それから、さっき言いかけたことなんだけど――」
「『母さんのこと、しばらく頼む』だろ? そんなことぐらい、わかってるよ」
「……」
父さんの両目から、とめどもなくあふれていく、涙。
「トモキ……観覧車が一回転する間に……ずいぶんと……大人になったんじゃないか?」
(そうかもな――)
ボクが、右手をすっと差し出す。父さんはそれを、右手でがっちりとつかんだ。
「母さんを、頼んだぞ」
ボクは、黙って一度だけ、力強くうなずいた。
おわり