小さな誘惑に負けて
外に出ると、部屋で温もった身体にまだひんやりとした風が吹きつけた。
パーカーのジッパーを半分ほど引き上げた俺の手を、茜が力任せに引っ張りながら、早く早くと急かす。
「あんまり急ぐと転ぶぞ」
親父が営むラーメン屋『笑幸』を含む商店街は、いつも賑わっている。向かいの甘味処では、女将が馴染みの客と世間話に忙しい。
二軒先の駄菓子屋からは、小学生の一団が飛び出してきた。
親に叱られたのか、小さな子供の泣き声が広がって、ずるずると遠のいてゆく。
茜の引力に逆らって、ゆっくり歩いていると、商店街の入口にある八百屋の前で、ふいに茜がしゃがみこんだ。つられて前のめりになった俺の視界で、茜は薄いピンクの花びらを拾っている。その姿に、寝そべっていた看板犬のコロが、むくりと起き上がった。
「茜、その花びら貸してみな」
「えー、なんで?」せっかく集めたのにやだー。と不満そうな顔。
「面白いもん見せてやるから」茜が渋々よこした桜の花びらを、コロの頭上から落としてみた。
「あー!コロが花びら追いかけてる!」風にのって、大きく揺れるピンクの花びらを捕まえようと、コロは必死で右へ左へ飛び跳ねる。鉄杭に鎖の絡まる騒々しい音で、奥に引っ込んでいたおっちゃんが気づいたらしい。影がゆらりと動いた。ヤベー!あの人強面のくせに、かなりの愛犬家だから……。
「逃げるぞ!」ポカンとしている茜を抱き上げて、八百屋の角を曲がった俺の背中に
「こらーッ!うちのコロに何やっとんじゃー!」おっちゃんのダミ声がとんでくる。あー、恐い。
追いかけてくる気配がないことに安堵しながら、俺は脱力した。
商店街の通路は、緩やかな坂道の広い道路に直結していて、入口にある八百屋の角を左に曲がると、上り坂の突き当たりに、赤い鳥居の大きな神社が見えてくる。茜のお目当ては、その神社の隣にある小さな公園だ。弛んだ俺の腕をすり抜けて、茜は坂道を走っていく。神社と坂道を隔てる、二車線の道路の手前に差し掛かった時、公園の道なりに歩く、男女が目についた。女の子の長くて青い髪が、陽に透けて透明な海の色をしている。
へぇ、珍しい。綺麗だな。
ぼーっと目を奪われていた俺は、信号が見えてなかった。
「渉兄ちゃん!苺だから渡っちゃいけないんだよー!」ギョッとして足をとめた向こう側で、女の子が笑っている。そんなに力んで大声出すなよ。俺はこみあげてくる羞恥を、茜の頭を軽く小突くことで紛らわせた。
「苺がメロンになったよ!オッケー!」焦れったそうに、両手をグーパーグーパーさせていた茜が、青信号を見るなり、パッと駆けていく。
苺の脅しが効いてるな。
さっきもらった赤い飴玉を舐めながら、俺は初めて茜の頬を叩いた時のことを思い出した。
茜はどうして叩かれたのか…?