君の後ろ姿
菫の花言葉 : 小さな幸せ
いつもの時間。いつもの場所。
「そろそろかな…」
キーキーと鳴く自転車の音が近付いてきたのに気付き、ハンカチを右側にさり気なく落とした。
膝を折りハンカチを拾う。
そのとき目の前の車道を自転車がゆっくりと通り過ぎて行った。
一瞬、目が合ったような気がする。
「おはよう」
小さな声で呟いた。
街路樹が続く、閑静な住宅街の道路。
その左側の歩道を私は歩いていた。
通学路にしているこの道でいつも逢う彼。
私は徒歩で、彼は自転車。
だから必然的に彼が私を後ろから追い越すかたちになる。
黒い自転車を漕ぐ、広い背中の学ラン姿を今日も見送る。
彼の存在を意識したのは、高校に入学して間もない頃だった。
いつもの時間に登校していると、道路に面して植えられている街路樹の傍に仔猫がいた。花壇には菫の花が咲いている。
その日は快晴で心地のよい陽気だったから、日向ぼっこをしていたのかもしれない。
警戒心があまりないようで近付いて撫でてあげると、気持ち良さそうに喉を鳴らし顎を出してきた。
少しの間撫でてからまた歩き出す。
そこに轟くバイクの音。
あまりに煩いので気になって振り向くと、少し離れた所にバイクが見えた。
フラフラと蛇行しながらゆっくり走るバイクは、傍から見ても居眠りか飲酒運転だと分かった。
しかもあの音。どこか故障しているのではないだろうか。閑静な住宅街に不釣り合いなけたたましい音が鳴っていた。
朝から不快だと思いながら眺めていると、あの仔猫が目に入った。
さきほどとは違い、歩道ではなく車道でゴロゴロとしていた。
思わず目を見張る。
あのままだと轢かれる…
考える間も無く、走り出していた。
もしかしたら間に合わないかもしれない。でも助けたい。
全力で走っているために揺れる視界で、僅かに見えるバイクの横を追い越す自転車が見えた。
ダメだ、この距離だと間に合わない。
誰かあの仔を助けて。
仔猫まで、あと数メートルという距離にバイクが近づいたとき、自転車でバイクを追い越した人物が歩道に自転車を放り投げ、その反動で車道に走り仔猫を抱き上げた。その数秒後に子猫が居た場所を通り過ぎるバイク。
自分の目の前を通り過ぎた人影に驚き、バイクは急ブレーキをかけた。
「どこ見て走ってんだよ‼︎」
自転車に乗っていた人物が、バイクに向かって怒号を放っていた。
そのときに初めて自分が蛇行運転をしていたと気づいたであろうバイクの運転手は、何も言わずに急いでバイクに乗り走り去っていった。
その光景を呆然と見つめながら、乱れる息のままその人物に近づく。
倒れている自転車を起こして、息を吸い直し呼吸を整えた。
その人は仔猫を右手だけで抱えながら、左手で自転車のハンドルを握った。
「自転車、ありがとう」
短く整った黒髪は、ワックスか何かで少し立たせている。目は切れ長で今は細く少し垂れ下がっている。鼻は高く、何より印象的なのは大きな口だった。
仔猫は自分が轢かれそうになっていたとは知らない様子で、ゴロゴロと喉を鳴らしながら手の中で甘えていた。
「仔猫、よかった…」
「君の猫?」
「違うけど、 さっきまで撫でてて」
「そっか。確かに人懐っこいなこいつ。可愛い」
右手で猫をじゃらしながらこちらを向いた。口角を上げた大きな口元と、そして目尻にも皺を寄せた笑顔は眩しく、とても無邪気に笑う人だった。
私も釣られて笑ってしまう。
「助けてくれてありがとう」
「…………わぃぃ」
「何か言いました?」
「もう行かないと遅刻するから。この猫頼む」
黒の自転車に跨り、彼は颯爽と走って行った。さっきまで聞こえなかったキーキーと言う音が辺りに響くのは、自転車を投げ出したときのものだろうか。それでも問題なく走れている様子だった。
あの学ランは近くの高校のものかな。せめて襟元の校章さえ見えれば、どこの高校か分かるのに。
少し寂しい気持ちを抱えつつ、仔猫を安全な場所に下ろし、一撫でしてから学校に向かった。
もう逢えないのかな。
また逢えるといいのに。
そんなことを考えていたら、彼とは毎日逢えた。
私と彼は同じ通学路だった。
それが分かったのは、自転車のあのキーキーと言う音。
いつも同じくらいの時間に同じ場所で彼は私の横を通り過ぎて行く。
もしかしたら、今までも何度か通り過ぎていたのかもしれない。そう思うと自然と心が舞い上がった。
近づてくることは分かっていても、振り返ることが出来ない。
それにあのことを彼は覚えていないのかもしれない。突然話しかけられても迷惑になるだけだ。それが怖くて話しかけられない。
本当はあの笑顔がまた見たかった。
それが無理だと分かっていたから、せめて顔だけでも見たいと思って実行したのがこのハンカチ落としだ。すごく古典的な発想だけど他に思いつかなかった。
でもあの時、一瞬目が合った気がする。
それだけで十分だった。
あの日からずっと続く、通り過ぎて行く彼の後ろ姿を見送る私の"小さな幸せ"。
そんな生活を続けていたある日。
いつもの時間、いつもの場所を歩いていても彼の自転車は通らなかった。
暫く歩いてもあの音は聴こえない。
今日は体調不良で休みなのだろうかと、心配になりながら通学路を歩く。
自分の学校が見えてきた。もうすぐ着いてしまう。
小さな溜息をつき校門の近くまで来ると、キーキーと言うあの音が聞こえた。
まさかと思いながらも振り返る。
「おはよう!」
目の前を黒い自転車が通り過ぎていく。その速度はいつもよりも早い。
"おはよう"
確かにそう聴こえた気がする。でもそれは耳を掠めるくらいの声だった。もしかしたら、自分と同じ学校の生徒の声が遠くから聴こえたのかもしれない。
でももしかしたら、彼が私に言ってくれたのかもしれない。
それだけで胸がいっぱいになった。
彼を見送る日々はあっと言う間に過ぎて行く。
一年後、彼の後ろ姿を見ることはなくなった。
きっと三年生だったのだろう。
卒業した彼はこの通学路を通らなくなった。
自転車が横を通る度、彼はもう通らないと分かっていても思わず振り向いて溜息をつく自分がいた。
そんな日々が二ヶ月続いた。
いい加減に諦めなければと分かっているが、なかなか踏ん切りがつかない。
ふと足を止める。
そこはあの仔猫を助けた場所だった。
彼にはもう逢うことはないのかな。
逢えない。
逢いたい。
彼に逢いたい。
「ねぇ」
あの時のことを思い出し、物思いに耽っていると声をかけられた。
白いマウンテンバイクを手で押しながら近付いてくる、皺を寄せて口角を上げ笑う顔が印象的な私服姿の男性。
彼だった。
「俺のこと覚えてるかな? 一年前ぐらいにここで猫を助けたんだけど。俺の名前は…」
その時、歩道の花壇に咲いていた紫や碧の菫の花が、笑っているように風に吹かれて揺れた。
・・・
やばい、今日は遅刻だ。
怒鳴る母親の声を右から左に流しながら、朝食もそこそこに慌てて家を飛び出し自転車に跨る。
臀部をサドルから離し、立ち漕ぎで走り抜ける。
いつもの場所までは十五分ぐらいで着くが、今日は寝過ごしている。
いつもの時間まであと五分しかないから、着くのは無理だろう。
そうすると彼女に今日は会えない。
左側の歩道を歩く、セーラー服を着た華奢な後ろ姿を今日も追いかける。
彼女の存在を意識したのは、高校三年生の四月。
いつもの道を眠い目を擦りながら通っていると、前を走るバイクが目に入った。
かなり遅い速度で、自転車よりも鈍い。そしてフラフラと蛇行運転で走っているからかなり危ない。
この道はあまり車通りが激しくないからいいが、他の道路であの運転だったら大事故に繋がりかねない。
自分も巻き込まれないうちに追い越そうとスピードをあげようとしたとき、そのバイクの前方に道路で呑気にゴロゴロと寝転がっている仔猫が目に入る。
仔猫がどける様子はない。バイクの運転手も気がついていないようで相変わらずの蛇行運転。
このままだと轢かれてしまう。
そう思ったと同時に全速力で自転車を漕いでいた。
バイクの横をぶつからないギリギリのところを通り抜ける。
その速度のまま、自転車を投げ捨て仔猫を抱き上げて反対車線に走った。
「どこ見て走ってんだよ‼︎」
思わず声を荒げると俺が飛び出したことに驚いてバイクを止めた運転手は、また慌ててバイクに乗り逃げるように走っていった。
今度は蛇行運転ではないようだ。
人身事故ではないが、朝から動物が轢かれる姿など見たくない。間に合ってよかった。
仔猫を右手で抱き上げ、左手で制服についた砂などを払っていると自分が投げ捨てた自転車を起こしている人物が目に入った。
肩まである艶のある黒髪は下ろされていて風に靡いている。目は二重で大きい。鼻は小さいが整っていて、同じくらいに小さい口から漏れる呼吸は少し乱れていた。
黒のセーラー服に赤のスカーフ。あれは近くの高校のものだ。
「自転車、ありがとう」
左手で自転車を受け取る。
「仔猫、よかった…」
「君の猫?」
「違うけど、 さっきまで撫でてて」
「そっか。確かに人懐っこいなこいつ。可愛い」
右手に抱えていた仔猫が指を甘噛みしながらじゃれついてきたので、笑顔になってしまう。
「助けてくれてありがとう」
そう言った彼女はとても綺麗に笑った。
「…………わぃぃ」
「何か言いました?」
「もう行かないと遅刻するから。この猫頼む」
"かわいい"
あの笑顔を見て、思わず本音が出ていた。猫じゃなくて君がと言いそうな勢いだった。上気する顔を彼女に見られないように急いで自転車を漕いだ。
また会えるかな、会えるといいな。
そうしたら話しかけてみよう。
次の日、ドキドキしながらあの道を走ると同じ時間、同じ場所で彼女の姿を見かけた。
後ろ姿だけだが間違いないだろう。
きっと彼女だ。
彼女との距離が近づくと少しスピードを緩める。
そして彼女の横を通り過ぎる。
あの日から始まった俺の"小さな幸せ"。
ちなみに仔猫を助けた日から自転車から変な音が聴こえるが、乗るぶんには何の問題もないので放って置いた。猫を助けた勲章みたいなもんだと思うことにした。
彼女に声をかけようと思って意気込んでいた気持ちは、いつの間にか何処かに消えていた。
猫を助けたときに君と出会って惹かれただなんて、そんなのただのナンパだ。
しかも何かキザっぽいし、仔猫をダシに使っているようでイヤだった。
でも笑顔が見たいんだよ、あの笑顔。
だったらさり気なく顔を盗み見るくらいなら彼女も気が付かないはず。
近づく彼女との距離。
そのとき、ハンカチが掌から落ちた。ハンカチを拾う為に彼女が屈んだ姿を目で追ってしまう。
そのまま彼女の横を通り過ぎようとした一瞬、目が合った。
「おはよう」
そのあとすぐに聴こえた、風に消え入りそうな朝の挨拶。
確かに彼女の声だった。
あの場には彼女と俺しかいない。
だとしたら、彼女は俺に言ってくれたのかもしれない。
その日は一日中テンションが高くて、友人には変人扱いされた。
そんなことを思い出しながら今日も自転車を漕いでいた。
やっぱり少し遅い時間だった為か、あの場所に彼女は居なかった。
でももしかしたらまだ学校に着いていないかもしれないと、そのスピードのまま彼女の学校に向かう。
ここまでするつもりなんて本当になかった。ヘタしたらストーカーだ。
でも今日だけ、今日だけだ。
一目でいい、彼女が見たい。
彼女の高校の近くまで来たとき、その後ろ姿を見つけた。
他にも生徒がいるので、スピードは緩めない。
「おはよう!」
その代わりに彼女に聴こえるくらいの声でそう呟いた。
届いてなくてもいい。ただ言いたかっただけだ。
セーラー服を来た華奢な後ろ姿を追い越してから、いつもの毎日が始まるんだ。
それが俺の"小さな幸せ"だ。
そんなこんなで、あっと言う間に一年間が過ぎ、俺は高校を卒業した。
結局、彼女に話しかけることはできなかった。
大学に進学した俺は一つ隣の駅の大学に通っている。
自宅から駅までは歩き、そして電車通学だ。
彼女の高校は逆方向だった。
彼女は下級生だと思うから、まだあの道を通っているかもしれない。でも俺はもうあそこを通らない。
会うことはない。
会わない。
会いたい。
彼女に会いたい。
会いたいなら会いにいけばいい。
休日に単発のアルバイトをして金を稼ぎ、新品の白いマウンテンバイクを購入した。
それに跨り、あの時間より少し早めにあの場所へ向かい彼女を待つ。
一年前より長くなった黒髪を風に靡かせながら向かってくる彼女を見て笑顔が零れる。
「ねぇ、俺のこと覚えてるかな? 一年前ぐらいにここで…」
それから毎日、白い自転車を漕ぐ。
あの場所に近づくと彼女の姿が見えた。
でも今は後ろ姿を追い越すのではなく、隣を並んで歩く。
「おはよ」
「おはよう」
俺が近づいたとき、自転車の風圧で花壇に咲いていた菫の花が揺れた。




