神籬の巫女
バクバクと栞の胸に収まった心臓が早鐘を打つかのように鼓動を繰り返す。まるで耳元に心臓が移動したかのような鼓動の高鳴りっぷりだが、当の本人は目の前の事態に付いて行けず混乱の極みに浸かっていた。
(ど、どーいうこと?な、なんで?)
疑問しか浮かばない頭をフル稼働させながら栞は、余計に深い疑問へと沈んでいく。
ちらり、その疑問の原因である人物に、泳がせていた視線を意を決して向ける。
「綺麗な部屋ですね」
「う……ど、どうも」
栞の視線に気付いたのだろう。興味深げに部屋を眺めていた栞の目の前の少女が穏やかに笑う。
(い……一体、何がどうなってるのよ―――――!?)
心中でもう何度目かになるか分からない叫びが噴出する。
栞が驚くのも無理は無い。栞の目の前に居る少女―――神代奏莉―――は日本でも有数の参拝客を誇る神籬神社の巫女であり、栞の遠く離れた本家筋の次期当主なのだ。
そもそも四方家は神代家を本家と呼ぶのも憚れるほどに離れに離れた分家だ。本家、四名家の冠婚葬祭にも基本的には呼ばれない。唯一呼ばれるのが一年に一回行われる神籬神社例大祭位という体たらく。
(と、とりあえず、私の部屋に案内したけど……そ、そう分家の誰かかもしれないもんね。似てるだけの)
現実逃避気味にそんな事を考える栞だったが、目の前の少女が放つ気配は先日の例大祭で感じた畏敬すら覚える程の気配。むしろ、本物以外でこんな気配を放つ者がごろごろいる等と栞は考えたくなかった。
意を決して、口を開く。自身の推測が間違っていない事を確認するために。
「あ、あの奏莉様ですよね……?」
「え?ああ!すっかり忘れてました。まずは自己紹介からですよね。私は神代奏莉です。よろしくお願いします」
「え、あ……私は四方、四方栞です」
あわあわと慌てながら奏莉は深々と頭を下げて自己紹介する。例大祭の見せた神秘的な雰囲気から感じていたイメージよりも普通の人っぽい所作を見て、栞の混乱も少しだが収まった。
「では挨拶もすんだところで、ああ、栞様、私の事は奏莉と呼んで頂いて結構ですので、さっそくではありますが、要件を……」
「ちょ、ちょっと待ってください!?」
「?……分かりました」
冷静になりかけた栞の頭が、様付されたことで再び恐慌状態へと投げ込まれる。
「奏莉様、様付けはちょっと……」
「え?でも栞様も私の事を様付けしてるじゃないですか?」
「それは……身分が違うからで」
切れ長でありながら、ぱっちりとした瞳をぱちくりさせ奏莉は首を傾げた。そこに浮かぶ表情と見る限り、奏莉が何が問題なのか全く理解していないのが見て取れた。
「身分ですか?」
神を祀る神代一族。言うなれば神代本家は最も神に近い、その中で更に巫女を任されている奏莉がどういった立ち位置なのかは言うまでもない。
そんな人物が吸い込まれるような黒目で自身を見つめているのだ。意味も無く栞は正座している足をもぞもぞと動かしてしまう。学校では年の割に落ち着いていて頼りになると評判の彼女らしからぬ行動だ。
「何を仰ってるんですか栞様。民主主義の今のご時世に身分制度なんて無いですよ。ましてや私たちは只の学生ですよ」
白く細い指を口元に当て奏莉は笑みを浮かべる。無邪気とすら呼べるその笑顔から栞は、奏莉が本気でそう思っているのが分かってしまう。
(うう……そうなんだけど、そうじゃないんですよ!!)
日本国民に身分の差など無い。それは憲法でも謳われている間違いない事実だ。だが、貴族と平民等の括りは無いだけで、身分の様なものは依然として存在している。例えば、大規模な財閥の当主とその分家で身分が同じ等と言うことは決して無い。決して口答えできぬ権力と言うものが存在するのもまた事実なのだ。
等と栞は混乱しているが、実のところ神代が経営している会社に関わらせてもらえない程の末端の分家の栞は神代家の権力はそんなに影響しなかったりする。
「なので私の事は奏莉とお呼び下さい。栞様」
「う……うぅ、で、ですからぁ」
狼狽する栞。若干、顔が青褪めているのが可哀想に見えてくる。黒真珠のごとき澄んだ眼が栞を射抜き続けている。
「困りました。このままでは話が進みませんね」
軽く小首を傾げ、癖の無い長い黒髪がさらりと流れる。それを手櫛で整えながら抑揚の少ない声で奏莉は小さく呟く。正直あまり困っている様には見えない。
「では、栞とお呼びします。なので奏莉と呼んで頂けませんか?」
(むむむ……向こうから譲歩されちゃった。し、仕方ない。呼び捨てで呼ぶしかないかな?いや……)
唇が無性にかさかさと乾燥し、舌が思うように動かない中、栞は往生際悪く口を開いた。
「奏……」
「奏莉ですよ。栞?」
「うっ」
予想していたのだろう。栞が自分をさん付けで呼ぼうとすることを、まるで栞の言葉尻を矢で射抜くかのような声が響く。気勢を殺がれた栞は、小さく呻いてしまう。
妙に逆らい難い雰囲気を纏う奏莉に一小市民である栞はそれ以上、抗う術は無かった。
「奏莉……これで良いですか?」
「ええ、構いません。あと敬語も結構ですよ」
「いや……奏、莉も……敬語ですよ」
「えっと、私はそもそも敬語以外では喋らないので、むしろこちらの方が落ち着くのです」
(あ――、もう良いや)
ぐいぐいと突っ込んでくる奏莉に、遂に栞の心の中の何かが崩れた。話が全く通じないという点では奏莉と天音命は妙に似ていた。神とそれを祀る巫女。何某かの力が働いているのかは定かではない。
「あ、うん。分かった。えっと、奏莉はなんで家に来たの?」
腹を括れば、もう怖い物など何もないし、あまり長居されても良い事は無い。というかいい加減、本家の人間がわざわざ、自分の家に来た理由が気になる。
(まさか……天音命様のことじゃないの?あははは……)
「あの天音命様の事で」
「ぶふっ!?」
「だ、大丈夫ですか?」
「ごふっごほごほ!?……あ、ええ、だ、大丈夫ですよ?」
まさに想像していたことを口にされ、傍から見ても明らかな程に栞は狼狽えてしまう。その動揺は一時的に呼吸を阻害してしまう程のものだった。
奏莉は突然、吹き出してしまった栞の背中を細く白い指が並んだ手で優しく撫でる。その様子からは一応、何かに感づいた気配は無い。
「本当ですか?最近、急に寒くなりましたから体には気を付けてくださいね」
「えぇ、ご気付かいありがとうございます」
「いえいえ、あと口調が戻ってますよ。ふふふ」
何が面白いのか奏莉は口元に右手を当てて上品に笑う。
「あ、ごめん」
「別に良いですよ。それより天音命様の事なんですが」
(気付いてんのかなぁ……でも天音命様、最近では自分の姿をきちんと見えている人いないって言ってたよね。うーん)
「天音命様は今、こちらに逗留なされてますか?」
「……」
(はぁああああ!?ば、バレてる?なんで?)
今日で何度目であろう。頭を思いきり殴られたかのような衝撃を栞は再び受ける。あまりの衝撃故か、はたまた、恐れていたことをものの見事に突っ込まれたかなのかは分からないが、表情は微塵も変わっていないのがせめてもの救いだった。
「は?」
「……」
「い、いや居るわけが無いですよ?分家も分家の四方家に天音命様が居る道理が無いですよ」
じーっと奏莉の視線が栞に突き刺さる。ややどもりながらも栞は言い訳を口にする。
(だ、大丈夫。だってこの人、天音命様の事見えてないもん。だから大丈夫)
「はぁ、そうなんですか。貴女の傍ならもしかしたらと思ったのですが……」
しばらく栞を見つめていた奏莉だったが、途中で視線をカーペットに移すと悲しげに溜息を洩らした。
「そうですか、天音命様の存在を感知しているんだから、てっきりここに居るのかもと思ったのですが、当てが外れましたね」
「……え」
「あぁ別に隠さなくても結構ですよ。貴女が四名家の方々すら感知できない天音命様を感知しているというのは分かってますから」
「あ……な、なんで?」
先までの質問とは違い断定した言葉づかい。そのきっぱりとした言葉に栞は隠すことを諦めた。ここで下手に隠せば、それこそなんでそれを隠すのかと疑われてしまう。
「なんでと言われても、バレバレでしたよ。あの場の皆が四名家に視線を送っている最中、貴女だけが天井を凝視していましたからね。私も存在位なら感知が出来るので、天井付近に天音命様がいらっしゃったのは分かっていましたし、とは言えざっと見渡してみましたが、あの状態の天音命様を感知できたのは私と栞の二人くらいでしたね」
「そ、そうなんですか」
天音命が自分が本気になって姿を消した場合、栞しかその姿が見えないと言っていた事が、まさか姿は見えずとも存在を感じ取る事が出来るとは流石本家。
「ええ。しかし、本家と言い、四名家と言い、このままそんな事を続けていたら天音命様に見放されてしまうかもしれません。それならまだしも、ここ一守の土地自体の守護を止めてしまわれたら……どうすれば」
あのののほんと日々を過ごしている天音命がそんな事をする可能性は低いだろうなぁと栞は思うが、あくまでそれは天音命の傍で数週間過ごしているから分かる事だった。
「……今までも何日かお戻りにならないことは有りましたが、ここまで長いのは初めてなんです。何かあったのかもしれません。天音命様を探すのを手伝ってもらえませんか?……他の方々は天音命様を感知できません。話してもきっと信じては貰えません。不躾なお願いであることは承知しています」
「え……あ、あの」
話しているうちに、徐々に感情が高ぶってきたのだろう。巫女として天音命に仕える奏莉には現状は耐え難いことだった。祀るべき神が長らくおらず、それを他の一族は気付いていない。
唯一、自身と同じく天音命を知覚できる栞が、心中を吐露できる相手だった。
「あ、頭を上げてください。私に出来る事なら手伝いますので」
放っておいてたらこのまま泣いてしまいそうな奏莉をそのままにしておくほど、栞は薄情では無かった。自分でも面倒な事になりそうだと思いながら、栞は協力する旨を伝えてしまう。
(現状を伝えれば天音命様も帰ってくれるかもしれないし……多分)
今まで何度も神社に帰って下さい、とお願いしているが帰る気配は一向に無い。今さら、本家の人間うんぬんと言ったところで、変わりは無いだろうが、万が一も有る。
「本当ですか!ありがとうございます。では早速、本家の方に掛け合って臨時の巫女として神籬神社に仕えられるように手配しますね」
「はぁ……ん?……はぁ!?み、巫女っ!?」
早く面倒事が過ぎ去らないかと、曖昧に返事をする栞の耳に途轍もない危険ワードが飛び込んでくる。それまでのキャラを崩壊させる勢いの返事をしてしまう。
「ええ、学校も違いますし、中々会う機会も無いと思いますので、巫女として神社でお勤めが出来るようにしておけば、定期的に会う機会もあるでしょうから」
「あの……結構、私、い、忙しくて……あはは、巫女とかはちょっと……」
ひしひしと伝わってくる面倒事を回避せんと、演劇部とは思えぬ大根演技で誤魔化す栞。
「大丈夫ですよ。臨時の巫女なら二か月に一回くらいしかお勤めはありませんから……あ、やはりご迷惑でしょうか」
「あ、全然、全然。大丈夫、巫女やります」
再び、何処か神秘的な容姿に悲しみを滲ませ始めた奏莉に、栞は自分でも後悔するだろうなぁと思いながら、そう口にしていた。
来月のシフトを見たら連休が……!!
二連休なんて八か月ぶりです。
……あれ?なんでこんなことで喜んでるんだろう?おかしいぃ。