また、あした
「仲川」
突然の声に少女の小さな肩がはねた。強張りを保ちつつゆっくりと振り返った視線の先には、少年が立っていた。走って来たのか、肩を上下させる少年を見る少女の目は頼りなげに揺れ、戸惑ってもいるようだった。
少女以外誰もいない教室はひんやりとしていて、外の陽気を蓄えた少年の身体から汗が引き出される。最後の授業が終わってからすでに数時間がたっていた。
鞄の持ち手を握り帰るところだったのだろう少女は、すっかり固まっていて席から動けない。いじっていない黒髪は少女の性格そのままに素直に流れ、二つ行儀よく丁寧に三つ編みがされている。身長や身体つき、成績に至るまで折目正しく人並みな中で唯一、平均よりもはるか上をいく人見知りとアガリ性が、可愛いらしい顔をうつむかせた。
だから気づかない。うつむいた少女を見て、少年が一瞬悲しそうな顔をしたことに。
あがった息を手の甲で落ち着かせながら少年は窓際へと進んだ。同じく窓際の最前列の席に座る少女から距離をとるように一番後ろへ。踵を潰した上履きが床を打った後、肩から下ろしたスポーツバックが重そうな音をたてた。開いたバックからは無造作に押し込まれたジャージやタオルに混じり、外国のプロサッカー選手が表紙を飾った雑誌が見える。
「あっちぃ」
まだ湿気を含まない五月の風が、短いながらも柔らかそうな髪を揺らした。出来上がりきっていない薄い身体も、少し大きめな目を持つ甘さの残った顔も、身長と同じでまだまだ発展途上といったところ。窓にかけた手はよく焼けていた。
三階のこの教室からはグラウンドがよく見渡せ、部活の片付けに奔走する下級生の姿がよくわかる。
「部活?」
少年の声に、ずっとうつむいたままだった少女が弾かれたように振り返った。一瞬合った視線をすぐ下げてから、少女は首を振って否定した。
「文化部、隔日だもんな」
逸らされたことを気にする風もなく、少年は軽い調子で話続けた。
「フルート」
二人の目が合う。今度は少年が先に視線をゆっくりと外してから、窓を背にするように机の上に座りこんだ。
「仲川、フルートだろ? あんなぶ厚い楽譜、やっぱ全部覚えんの?」
「……ちゃんと覚えるのは、自分のパートだけ、だから」
少年の言葉に驚きから困惑、照れへと、目まぐるしく少女は表情を変えていく。つっかかりながらも言葉を返そうと必死な様子に、やっと少年は頬を緩めた。
「それでも、すげえよ」
「…………あ、んなに、ボール扱える、ほうが、すごいと思う」
手放せないのか鞄を握りしめながらやはり必死に褒められて、少年は首のタオルを頭に移動させた。汗を拭うふりをしながら赤くなった頬の隠匿を図るために。
「ボタン」
はっきりと放たれた声に、少年は驚いてタオルを取り去った。さっきまでとは打って変わり少女はじっと少年を見つめている。
「……ずれてる。ボタン」
少年は聞き返した。伝わっていない様子に、少女は一旦鞄を机に置いて少年に向かって指を差した。少年は首を傾げながら、差された先――自分の胸元を見下ろした。
真っ白な長袖シャツのボタンが、上から下まで見事に全部ずれて留まってしまっている。
「うあっ」
情けない声を晒しながら、焦った手元ははた目にもおぼつかない。格闘しているさまを少女はちょっとだけ笑った。少年はそれを聞き逃さなかったらしく、口許を尖らせた。
「仲川、エッチ」
「エッ! なっ!!」
一気に耳まで赤くなった少女は声を上げるが、残念ながら言葉にならない。
「期待させて悪いけど、中はTシャツなんだよね」
シャツの全開。見ようによってはきわどいポーズを、少女はらしからぬ素早さで回避する。少年の言うようにTシャツを着ているのだからなんら問題はないのに、動揺した少女はそのことに気が回らない。とうとう少年は吹き出した。
じわじわと赤くなる少女を置いてきぼりにしながら、少年は笑い続ける。文字通りに笑い転げられ、少女はしばし唖然となり、次いで呆れ、やがてはつられるようにそっと笑った。
まだ沈む様子のない夕日が廊下の窓から教室へ入りこむ。部活動中は掛け声などで賑やかだった校内も、今は遠くでわずかに生徒の声が聞こえるだけ。あともうしばらくすれば、ここは完全な静寂に包まれる。
時折強めに吹く風が少年のシャツを膨らませ、少女の前髪をさらう。小さく、小さく笑う姿に少年は少し前から見とれていた。
「仲川、さぁ」
動揺させられたり笑ったりで緊張が抜けたのか、少女にしては珍しく真っ直ぐ少年と目を合わせた。そのことに少女自身、気づいていないだけかもしれない。合わさった視線に怯んだのは少年の方だった。
「ど、土曜に南中と試合なんだけど、出れそうなんだ、俺。 ……すぐ交代させられっかもだけど」
「すごい」
内側の動揺をごまかすような笑いは少女の声で止んだ。
「良かったね、藤村君!」
驚きはすぐさま喜びにとって変わり、満面の笑みとなった。本人に自覚がない、直球の賛辞を真正面から受けて頬を染めた少年が視線をそらすのと、自分の興奮に気づいたらしい少女が気まずげにうつむいたのは、ほぼ同時だった。
流れる沈黙の中、小さな手が鞄へ伸ばされた。
「ここってグランドがよく見渡せるけど、向こうからも結構見えんだよね」
止まった手とは対照的に、その目は揺れた。
「仲川、今日みたいに吹奏楽休みでも、よく残ってグランド見てるよな」
少年も少女も、お互いを見ない。風は変わらず二人のそばを過ぎて廊下へ抜けていく。
「……すごい、なぁって」
「なにが?」
「……わたし、運動ダメだから。ふ、藤村君もだけど、サッカーとか、野球とか、早く走ったり、動いたり出来るってすごいなぁって。見てるだけで楽しくて。 ……ダメなのは運動だけじゃないけど」
最後のほうは不器用な笑みとともにこぼされた。
「字が綺麗に書ける。係の仕事とか、掃除も手を抜かない。人のこと悪く言わない。なにげに皆勤賞。これは俺もだから確か」
指折り数えながら、少年はひとつひとつ上げていく。
「それから、フルート吹いてる時の仲川は、凛々しい」
ぱちぱちと鳴りそうな瞬きを繰り返す少女を、少年は笑った。
「……凛々しいって、男の人に使う……」
「うん。でもそれが一番しっくりくんだよな」
「……その前のも、出来て当たり前って、いうか、掃除は止め時がわからなくなって、だし……」
「人が面倒くさがることちゃんと出来るって、すげぇと思うけど? 同じだよ、仲川が運動出来るヤツすげぇって思うのと」
「そう、かなぁ……」
照れもせず、けろっと言い切る少年に少女は困ったようになんとも複雑げに眉を下げた。敵わないと思ったのか、長引かせるほど自らに返ってきそうだと思ったのかは、わからない。
クラシックが小さく聞こえだした。はっとした少女が教室の掛け時計を仰ぐ。
「グランドから見上げるたんび、気になって」
振り返った少女からは少年の横顔しか見えない。真っ直ぐ前を向く横顔だけしか。
「なに見てんのかな。誰、見てんのかな……とか」
教室の端と端。寄せられただけのカーテンの裾が風によって舞い上がる。いつの間にか夕日はだいぶ傾いていた。
「俺だったらな、って――」
椅子をひく鋭い音と、下校を促す一斉放送とが被った。二回目のアナウンスが始まったところで少女が動いた。
「か、帰る」
柔らかいクラシックにもかかわらず、追い立てられるように少女は鞄を抱えドアへと急いだ。プリーツのきいたスカートがさらりと流れる。三つ編みの隙間から覗くのは隅々までの、今日一番の、赤――。
何も出来ずにただ目だけで追っていた少年は、少女が廊下に消えそうになった辺りで慌てて立ち上がった。
「仲川っ ――また、明日っ」
ドアの磨りガラスの影で、少女が足を止めたことがわかる。
「……また、明日」
そっと口にするのがやっとなのか、声は小さく震えていた。少年の耳に届いたのかどうかは微妙だろう。じっと少女が消えたドアを見つめていた少年は、廊下を駆ける音が遠くなってから長い息を吐いた。
「……くうう〜」
そのままヘナヘナと床にしゃがんで頭を抱えたかと思うと、怪しいばかりに悶絶し始めた。
「また明日って、ショボっ」
情けないほどの、眩しい笑顔とともに。
階段を駆け降り下駄箱までたどり着いた少女は、かくんとその場に屈みこんだ。はやる呼吸は鎮まる様子がなく、もはや顔を上げることもままならない。少女は震える手で震える膝を抱きしめ続けた。
たまたま通り掛かった教師が心配して声をかけるまで。
二人がいた教室からグランドは良く見渡せる。それは向こうからも。
自分で言ったにもかかわらず少年は気づいていなかった。少女と話がしたいがために後片付けをサボった姿を、きっちり後輩、同級生、数人の先輩達にいたるまでグランドから目撃されていたことに。更にそのギャラリーの中に、顧問の教師も含まれていたことに。
少年は知らない。
翌日の部活は少年にだけ特別メニューという名の制裁が課せられ、その日の後片付けを少年一人でこなすことになることも。少女とのことをやっかんだ部員達から、やいのやいのと野次られている様子を「慕われてるんだなぁ」と、部活終わりの少女に激しく勘違いされることも。ひそかに少女が土曜の試合を応援に行こうと、小さな胸の中で誓っていたことも。
その後、三つ編みのあの子が応援に来ると勝つ。そんな噂が冗談のように、でもまことしやかに部員達の間で囁かれ、少年と少女には内緒にされたまま、「勝利の女神」と呼ばれるようになることも。
教室で、今だ絶賛幸せ満喫中の少年も。
暮れていくグランドを吹き抜けた風で、赤い頬を冷ましながら帰る少女も。
恥ずかしくて愛おしい、そんな賑やかな日々がすぐ目の前まで来ていることを、二人は、まだ知らない。
――完――