ありったけのありふれたとびきりを君に 【3か月②】
ケータイのバイブ音で目が覚める、午前6時。
布団の上で震えるそれを止めようとするが、どうしたものか、出しかけた右手が何かに引かれ前に出ない。
「…ん?」
怪訝に思い、右腕の先を手繰り見て納得。
それと同時に、つい赤面してしまった。
隣で寝る嫁の左手が、わたしの右手をしかと握ったまま離さないでいる。
いつもはわたしより早くに起きて朝食の準備まで済ませている嫁だが、今日は起きられなかったのだろう。
一人布団の上で頭を掻き、嫁を起こさぬよう細心の注意を払いつつ、そっと握られた手を逃してゆく。
そうして、途中までは順調に指を引き抜いていったのだが、ふと気付くことがあって思わず手を止めた。
「…熱い」
嫁が起きてしまうことも構わず手を引き抜き、その額に掌を当ててみる。
…やけに熱い。風邪でも引いているのだろうか?
残業が続くわたしの帰りをずっと寝ずに待っていた嫁のこと。ときには薄着一枚、椅子の上で半寝になっていたこともある。
なるほど、昨夜嫁が早々に寝ていたのは体調が悪かったせいなのか。
わたしは、立ちあがって寝室のカーテンを開ける。
どんより厚い雲が、空一面を覆っていた。
灰色の重苦しいそれは、罪悪感を抱える今のわたしの心境にぴったりだ。雨水をいっぱいに蓄えた雨雲はコットンのように膨張し、土砂降りのタイミングを今か今かと見計らっている。
昨日新聞を見て知ったのだが、大型台風が近づいているらしい。今日の午後には、この地域一円が台風の中心部となるようだ。
本日は火曜日。あと数十分もすれば通勤ラッシュが始まるだろう。
雨風が強くなる前に家を出ておかなければ、いつ電車が運休になるかも分からない。
ひとたび電車が止まれば渋滞になり、車での通勤は困難を極めると目に見えている。
「…どうするかなぁ」
呟いて、一先ず寝室を後にし、キッチンへ。
壁掛け時計を確認すると、出勤予定時刻まで残り1時間と半だった。
取り敢えず朝食を作ろうと決心し、まな板と包丁を取り出す。冷蔵庫を探ると、野菜室から南瓜が、冷凍室から保存用の油揚げと豆腐が出てきた。
それらを目の前に並べ、少し考えてから頷く。
…南瓜の煮物と味噌汁でもしよう。
いよいよ天候が激しくなってきた。風のうねりが玄関のドアをびゅうびゅう打ちつけ騒々しい。階下の駐輪場では自転車が将棋倒しになっているのか、鉄の打ち合う音に鈍いベルの音が重なる。
窓ガラスから外を覗けば歩道の街路樹は倒木せんばかりにしなり、ザァザァ引っ切り無しに降りしきる雨は、地面の至る所に細い水路をつくっていた。土と混ざり合ってできた黄色い濁流は、あらゆるものを飲みこむスピードで用水路を急流し、その内を溢れさせている。
わたしは窓ガラスにかかるカーテンを閉め、踵を返して寝室に歩を進める。両開きの襖をそっと引いた。一歩、中に入る。
薄暗闇の中、嫁は依然、左手を外に放りだす恰好のまま寝入っていた。
熱の加減が気になるわたしは嫁の前にしゃがみ、額にかかる髪を手で掬って、その掌を当てようとする。
伸ばした右手の指の隙間から、嫁の瞼が覗いたときだった。瞬時にしてパチリと両目を開いた嫁が、布団から飛び起きる。
「えっ、え…??」
まばたきの間も忙しなく辺りをきょろきょろ見回し、腕を伸ばすわたしの姿に気付くいなや、更にあたふたと取り乱し始める。
「ちょっと待っ…、あ、朝ごはんとお弁当っ…!え、それとも夕食?!」
引っ込めるに引っ込められない右手を宙に浮かせながら、苦笑した。
「落ち着いて。今日は火曜で、今は朝の9時だよ」
「火曜…」
「そう。今ちょうど台風来てるらしいな。外、すごい雨だ」
「台風?」
「暴風域に入ったって。9時のニュースで」
「……9時?」
「あぁ、9時」
途端、物凄い勢いで両肩を掴まれる。
重心がぐらりと後に傾いたことを認知したとき、既に背は布団とくっついていた。
咄嗟に頭を浮かせたまでは良かったが、背をしたたかにうってしまったらしい。
「ぁ、痛い…」
などと呑気なことを呟くその真上には、うろたえる嫁の表情があった。本来ならば顔を真っ青にしているのだろうが、熱があるためかその頬はいつにも増して紅潮している。
「かっ、会社は?仕事はっ?!」
「有給取った」
「ゆう…、」
捲し立てたり黙ったりして大変だなぁと、苦笑しつつも淡々と続ける。
「電車は止まってるし、渋滞で動けないし。この分じゃ店開けても客来ないだろ」
「でも有給って、急に…!」
なおうろたえる嫁を落ち着かせるため、腕を伸ばし、手を頭に置いた。
嫁は痛むような苦しむような顔をしたが、結局唇を噛んで黙りこむ。
…わたしが生業とするディーラーには大抵「売上ノルマ」なるものがあって、それは販売店自体にも、無論個人個人にも掛かってくる。
特に中間決算月にあたる9月は、毎年目の回るような忙しさだった。
だがその忙しさを誇りだと感じていた頃がある。身を粉にして働くのが、美徳だと考えていた昔もある。
しかし、今は―――。
「たしと、……」
「え?」
嫁が何かを言った気がして、問い返す。
その顔を仰ぎ見て、ぎょっとした。
泣いていた。
分厚い泪の膜が眦に溜まったかと思えば、一気にそれが決壊し、ぼろぼろ大粒の泪をこぼし始めた。
その表情は怒っていた。しかし、眉を上げるにも目を三角にするにも失敗した嫁の怒りは、全部を中途半端に合い混ぜした、威圧感の無い怒りだった。
そのことは嫁自身が一番理解していたのか、振り切るようにわたしの胸倉を突然つかみ、叫ぶ。
「あたしと仕事、一体どっちが大事なの?!!」
「えぇ?」
思い切り驚いてしまった後で、今度は口に出さず自問する。
ちょっと待て。ちょっと待て。
普通、逆じゃないのか?!
台風が来るから、嫁が熱を出しているから仕事に行かず家にいようと思ったのに、なのに怒られているこの状況って、一体何だ。
つまりだ。
つまり、お前より仕事を優先させろと!
「…だから店長に一通り文句は言われたけど、」
ひとたび口を開けばつい笑いそうになって、腹筋が震えた。
一方の嫁は至って大真面目なため、笑い出すことができない。
その震えを押し殺すため、嫁を静かに押し返し、上半身を起こす。
対面になったところで、また慎重に口を開いた。
「熱があるなら看病しないと」
嫁の両目が大きく見開かれたのはほんの束の間で、後はわたしの言葉から逃げるように目を床に伏せると、罰が悪そうに両手をへその前でぎゅっと結ぶ。
身体を緊張させる嫁を前に、わたしはできるだけ威嚇的にならぬよう、意識して問うた。
「いつから熱があったんだ?」
嫁の目線は2,3度床を彷徨った。
こういうときは急かさぬ方がよいと知っているわたしは、何も言わず嫁の返答を待つ。
たっぷりの沈黙の後、呟かれた言葉は、非常に簡潔で素直なものだった。
「昨日のお昼」
「熱、測ったか?」
「うん」
「何度だった?」
「…8度7分」
「そうか」
了承したわたしは、心の中で溜息をつく。
そして、もう一度問うた。
「朝飯食べるか?」
「…うん」
とても意外そうな顔をした嫁に、「怒らないよ」とやっと少し笑って、「じゃあ行こう」。嫁の左手を右手で取って、立ち上がる。
熱は今どのくらいあるのか、立ちあがった瞬間嫁がふらりとよろめいたので、手を取りキッチンまで連れてゆく。
廊下の途中で嫁が後ろからわたしを覗き込み、訊いた。
「朝ごはん、なに作ったの?」
「南瓜の煮物」
ぱぁっと表情を明るくさせる嫁。南瓜は好物らしいのだ。
スキップの真似事をした拍子、また転びそうになる嫁を少々強めに窘めてやってから椅子に座らせる。
「いただきます」
「はいどうぞ」
黄金色した南瓜の煮物を旨そうに頬張る嫁を眺めつつ、明日は上司の視線と小言がさぞ痛いだろうなと考える。
外は轟々風が吹き荒れ、ざんざん雨が飛んでいた。
ガタガタびしゃびしゃ窓を打ち鳴らす雨風に耳を傾け、目を瞑り、もう一度目を開いて、小さく笑った。
胃の痛む明日も、雨風に身を強張らせる今日も、こうして嫁が目の前で満足そうにしている姿を見ていると、全く不思議だ。
全て、大丈夫のような気がしてくるのだ。
そういった安心感は、私にとってとても心地よく、何よりも幸せなことだと思う。何せ私は、嫁にとても救われているのだと理解しているから。
そしてそれを、嫁と共有できたらよいと願う。
私が感じている安心を、ほんの少しでもお返しできたら、嬉しい。
「…だから、今日は家にいるよ」
「んぇ?」
「安心させたいから」
それはきっと、彼女を手放したくないがため。




