愛玩動物看護師
急な打診から翌日。薫は職場体験をするべく、早朝八時半によつば動物病院を訪れていた。今までは表玄関から一患者として訪ねていたが、今日からは裏側にあるスタッフ用の玄関から入るように言われている。
表玄関とは違い、飾り気のない玄関を開けると段ボールの山が薫を出迎えた。二桁はあるであろうその山の向こうには浅野賢司の姿があった。その手には納品書と思われる紙の束があり、足元には開封された段ボール。その中に所狭しと詰め込まれたフードを数え終えた浅野は薫を見ると軽く頭を下げた。
「おはようございます。今日からでしたね。羽賀先生から聞いてますよ」
慌てて薫も頭を下げる。
「おはようございます。遅くなりました」
「出勤は五十分までこればいいから大丈夫ですよ。先生なんて自宅がこの上だから、いつも九時ギリギリですし、気にしないでください」
遅刻することもあるんで、と浅野は呆れたように付け加える。羽賀の遅刻癖に参っているようだ。
浅野とは何度か顔を合わせた事はあるが、会話らしい会話をした事がない。いつも仏頂面だったので怖いイメージを抱いていたから、こうした話もするんだなと驚きつつも薫は頷く。
「先生って自由そうですね」
「あの人、拘束されるの嫌いなんで。自由気ままにしたいってこの病院作ったぐらいですよ」
「すごい行動力ですね」
「確かに。あの行動力は見習いたいものがあります。……あっ、話の前にまずは服を替えないとか」
うーん、と浅野は何やら考え込む。
少しして、思考がまとまったのか納品書を段ボールの上に置くと「こっちです」と手招きした。慣れた足取りで物でごった返している廊下を進んでいく。
物珍しさに薫がきょろきょろと周囲を見渡していると浅野が小さく笑った。
「動物病院の裏っておもしろいですよね。俺もはじめて来た時は色々見て回りましたよ。例えば……」
と言いながら浅野は廊下を進みながら面する部屋を指さした。入り口には『薬品庫』という札が立てかけてある。浅野が扉を開けると設置された棚には箱やボトル、瓶が並んでいた。
「ここは薬置き場。常温で保管してもいい薬はここに、冷蔵保存の薬は他の場所に冷蔵庫あるんで、そこに入れてます」
次に隣にある『フード保管室』の部屋を開ける。薬品庫と同じように棚には様々なフードや缶詰がきちんと並べてある。
「ご飯も色んなメーカー、種類があって、大半がペットショップやネットで買えないものばかりなんです」
「たくさんありますね。ご飯やお薬ってこんなにも種類あるとは……。覚えられるかな……」
「少しずつでいいので慣れてもらえれば。フードも薬も用途によって置き場所を決めてあるんです。ここらへんは心臓の、ここは肝臓って感じで。今は忙しくないので俺達も付きっきりで教えれるんで、ゆっくり慣れていきましょう」
「動物病院って繁盛期とかってあるんですか?」
「ありますね。もう少しで狂犬病接種のシーズンだからわっと来ますよ」
狂犬病というのは発症すれば致死率100%という恐ろしい病気だと記憶している。何年か前に飼い犬が人を噛みついて、問題になった際に「保健所」や「狂犬病」といった単語をアナウンサーが繰り返していた。
実際にどのような病気なのかは知らないので、後で調べようと頭の中にメモをとる。他にも気になったものを次々、メモしていると奥から小さな箱を五個手にした清水冬花が歩いてくるのが見えた。
「おはよう。東堂さん」
「清水さん、おはようございます」
軽い挨拶を終えると清水は浅野を軽く睨めつける。
「賢司、場所の案内よりもまずは着替えでしょう。東堂さんがきたらすぐ教えてって言ったよね?」
「……更衣室の案内する途中だったんだよ」
「それにしてはずっとお喋りしていたようだけど?」
どこか圧を感じさせる笑みに浅野はついっと視線を横にずらした。
その仕草だけでこの二人の上下関係が分かり、薫は唇の端を引き攣らせる。清水はおっとりと優しげな容姿をしているが、けっこう容赦ない性格をしている。羽賀のみに発揮されるとばかり思っていたが、まさか浅野に対してもだとは思わなかった。実の弟だからだろうか。
しかし、これから自分も羽賀や浅野と同じ扱いになるのでは? そう考えただけで冷や汗が流れる。
「じゃあ、交代。私は東堂さんを案内するから、賢司は箱を上に持っていって。混合ワクチンと狂犬病のやつ、入れる場所適当にしないでよ。前、使用期限とかごちゃごちゃで探すの大変だったんだから」
「適当にするのは先生で、俺はちゃんとしてるよ」
「……本当に先生は」
頭痛がするのか清水は眉間を押さえる。深くため息をはくと、ぱっと顔を持ち上げた。
「待たせてごめんね。とりあえず、着替えしなきゃだし、着いてきて」
そう言うと清水は踵を返して、来た道を戻っていった。
*
案内された休憩室は建物とは違い和風な趣きをしていた。畳が敷き詰められた床の上にはドンっと漆塗りの机と座布団が設置されている。
しかし、全てが和式というわけではないようだ。簡易キッチンやテレビは最新式なものが並び、更にはビーズクッション、雑誌がぎゅうぎゅうに詰められた本棚に大きな鏡もある。生活感が漂う部屋を薫が眺めていると、押入れを漁っていた清水が「羽賀先生の趣味なの」と教えてくれた。
「あの人って和風のものが大好きでね。本人はこの休憩室を使わないのに座敷がいい! って作っちゃってね」
「すごいですね。行動力が本当に」
「本当よね。まあ、寝そべったりできるから楽っちゃ楽だけれどね」
目的のものが見つかったのか清水は押入れから戻って来る。その手には透明なカバーで包まれた衣服があった。おそらく、仕事着だ。
「男女兼用だからSかSSだと思うんだけど、試しに着てもらってもいい? 下もSかSSかな……」
清水は悩ましげに眉を寄せると薫にクリーニングカバーで包まれた衣服を数点、手渡してきた。手渡された医療用白衣は落ち着いたネイビー色。ポケットや袖口、襟はアクセントなのかピンク色の線が入っている。全体的にシンプルなデザインだ。普通の服と比べて布地は厚く、丈夫そうな印象をしている。
スクラブを受け取った薫は休憩室の奥——女子更衣室と書かれた小部屋へ移動した。小部屋も和風かと思いきや、ここは普通の部屋だった。
〝東堂さん〟と付箋が貼られたロッカーの前に移動すると、クリーニングカバーを剥がして着ていた服を脱いで、スクラブに腕を通す。女にしては長身なのでSSでは小さいだろうとSを着てみたが予想通り、ぴったりだ。ズボンもSでちょうど良さそう、と更衣室に置かれた鏡の前で全身を確認する。
髪の乱れを整えたら着ていた服とバッグはロッカーへと仕舞い込んだ。
「あっ、メモ帳忘れるところだった」
慌ててバッグから買ったばかりのメモ帳とボールペンを取り出す。職場体験とはいえ、これらは社会人としてのマナーだ。
準備ができたので休憩室に戻ると、清水は今度は靴と睨み合いっこをしていた。
「足のサイズってどれぐらい?」
「確か24.5です」
「ならこれかな。履いてみて」
手渡されたのは白を基調としたナースシューズだ。履いてみると驚くほど足にフィットした。試しに何歩か動いてみるが柔らかな素材は長時間動くために作られようで、違和感はない。
「ちょうど良さそうです」
「もし足に合わなかったら大きめのサイズ出すからいってちょうだい。スクラブも」
「分かりました」
「じゃあ、院内を案内するわね。ついてきて」
清水の後を追って、院内を回る。薬品庫やフード保管室は先程、浅野から説明を受けたので簡単に終わらせ、ランドリールームやトリミング室、ホテル室を見て回り、裏側が終わると次は処置室や手術室、レントゲン室へ。最後に訪れた入院室には薫が保護した三毛猫がぷうぷうと寝息をたてていた。
「あの子、本当に寝るのが大好きなのよね」
「幸せそうですね」
三毛猫を起こさないようにひっそりと会話を終えると次は受付へ。
特に薫がこれから担当するであろう受付の説明は丁寧にされた。広々としたカウンターの上には電話機とパソコンが設置されていて、その下にはいくつもの棚が並び、更にその下の空洞になっている部分には名前の付箋が貼られたフードや薬が置かれている。
「東堂さんにして欲しいのは受付とお会計です。電話もだけど、最初の慣れない内は私と賢司で対応するから、それを聞いたり見たりして、覚えてくれると助かるわ」
次に医局。壁を覆う棚には薬の名前が書かれている。その数、ざっと数えて二百はゆうに超えているだろう。
「すごい数ですね……」
「でしょ。東堂さんが慣れてきたら少なくなった薬の補充をお願いしたいから、なんとなくどこに何があるのかだけ把握してちょうだい。お薬はその用途によって棚を固めているから覚えちゃえば簡単よ」
例えば、と前置きすると清水は左上を指さした。
「ここからここまではノミダニのお薬。その更に下にはフィラリア薬、隣の棚の上は心臓の薬でその下は肝臓……って感じかな。よく使うやつは左にまとめているわ」
「ノミダニってCMで見たりするんですけど、こんなに種類あるんですね」
「おやつタイプがいい子もいれば、警戒心強くてスポットタイプじゃないと無理な子、アレルギーある子用とか色々あるわね。調薬は先生にしかできないから任せられないけど、予防薬はお願いすると思うから覚えておいてね」
覚えれるかな、と不安になる。思ったよりも薬の種類が多すぎる。薫の不安を察してか清水は柔らかく笑う。
「そんなすぐ覚えたら超人よ。私、一年ぐらいかかったもの。ちなみに賢司は二年半!」
「仕方ないだろ。俺は本来トリマーなんだから」
ため息交じりにあらわれた浅野は抱えた段ボールの中から薬を取り出すと机の上に並べ始める。じっとりとした目つきで姉を睨んだ。
「人手不足だから手伝っていることを忘れないで」
「今じゃメインはこっちじゃない」
「あの、動物看護師のお仕事って資格があるって聞いたんですけど、トリマーさんでもなれるんですか?」
薫が疑問を口にすると清水と浅野は視線を交わす。
「なんて言えばいいのかな……」
「私達、専門学校の出身なんだけど、そこはトリマー、トレーナー、看護師の三つのコースがあってね、一年生のうちは全コースを勉強することになっているの。そこで適正を見極めて、二年からは専門コースに行くんだけど、選んでないコースの資格も希望をすればとれるのよ」
「俺はトリマー以外とらなくていいかなって思っていたんだけど、姉さんがうるさくて。一応、とれる資格は全部とってあるんです」
「うるさいってなによ。いいじゃない、選択肢が広がるんだから」
「まさか愛玩動物看護師までとらされるとは思わなかったけど……」
薫は首を傾げた。動物看護師と愛玩動物看護師は同じでは?
「何年か前に国家資格になったんですよ」
今まで動物看護師の資格は民間でしかなかったのだが、令和四年五月一日から愛玩動物看護師法が施行されることとなった。これまで獣医師だけに認められていた医療行為(マイクロチップの挿入、投薬、採血、カテーテルによる採尿)を動物看護師も行うことができるようになった。
「動物看護師は民間資格、愛玩動物看護師は国家資格なんです。長いからみんな、まとめてVTって言ってるけど」
VT(veterinary technician)——動物看護師を指す業界用語の一つだ。AHT(animal health technician)とも言われることがある。
「動物看護師だけでも働けるけど、国家資格取ったほうが仕事の幅が広がるから私達は受けようって決めたのよ」
「姉さんは制定された年に。その時、俺はペットショップからここに転職したばかりだったので受けずに、一昨年にとりました」
「採血とか、今まで獣医師にしかできないことが許可されるから頑張ったわね。羽賀先生の負担軽くできるし」
「勉強はやだったけどね」
「あんたってトリミング関係の勉強は楽しそうにするのに、看護系は嫌がるわよね」
「だから俺の職業はトリマー」
しつこいと言いたいのか浅野は眉を持ち上げると、
「おはよー。朝から元気だねぇ」
のんびりした声が駆け抜けた。医局の入口ではぼさぼさの髪を手櫛で整えながら羽賀が大あくびをしていた。
「おはようございます。寝癖直してきたらどうすっか」
「おはようございます。あくびする時は手で隠してください。見苦しい」
辛辣な姉弟の言葉に、羽賀は苦笑を返すと薫を見る。その表情はどこか少年のようにわくわくしているように見えた。
「おはようございます。今日からお世話になります」
「おはよ。はい、これ」
にこにこと羽賀が拳を突き出してくるので、薫は両手を受け皿の形にした。姉弟の冷めた目線も気にせず、「お守りだよ」と言う。
「これって」
手のひらに置かれた紙切れに薫は目を丸くさせた。




