慣れてはいけない
「すみません。抜け毛ある子じゃないんですけど、よく犬達を乗せるんで毛とか匂いとかあるかもです」
と言いながら、運転席に座った浅野は弁当と菓子パンが入った袋を後部座席にそっと置いた。
車内には少しだけ犬の毛が残っているのが見えたが、気にするほどでもなかった。薫は軽く笑いながら、「大丈夫です」と言い助手席に座る。
「みんなで話していたんですよ」
「お話ですか?」
「初めての職場体験でああいうことがあって、東堂さんは落ち込んでいないかって」
「……正直にいうと、少しだけ。佐々木さんに寄り添うことができなくて」
薫は拳を握りしめる。
「もっと、気が利く言葉があったんじゃないかな。先生達は平気そうだったのに、私だけ狼狽えていたなって」
「……別に、平気じゃないですよ。先生も姉さんも長年、この仕事しているから普通よりかは耐性はあると思います。でも、助けられなくて、寿命で、患者さんが亡くなっても、それを見たオーナーが悲しんでも平気でいられるほど、あの人達はロボットではないです」
「あっ、すみません。その、失礼な事言って」
先ほどの発言を思い返した薫はさっと顔を白くさせた。浅野の言う通りだ。あれだけ真摯に仕事に取り組んでいる二人が平気なわけがない。平気だなんて、口が裂けても言ってはいけない言葉だった。
「いや、俺も人のこと言える立場じゃないんで。あの二人の前では言わないでくれればいいです」
それで、と浅野は続ける。
「マロンさんは結局、家で様子を見ることになったんですよ」
佐々木マロンは飼い主との相談の結果、筋肉注射と皮下点滴を打って、自宅で様子を見守ることになったそうだ。
本来ならばマロンのような重体には効果がすぐでる静脈点滴の方が適しているが、その場合は入院してもらう必要がある。それに対して、皮下点滴は皮膚と筋肉の間に点滴の輸液と薬液を入れて、半日から一日かけて、ゆっくりと体内に吸収されるため遅効性だが、持続効果は長く続く。
マロンはいつ亡くなってもおかしくはない状態だ。病院で見守るよりも慣れ親しんだ自宅にいるほうがこの子も安心だと羽賀が説明すると飼い主は悲しそうな顔をしながらも頷いた。
泣き腫らした目に愛犬の姿を映しながら、骨が浮き出た体を優しく撫でながら、佐々木は「もっと早く気付けばよかった」と口にした。
皮下点滴を終えて、会計も終わらせ、退院するまで佐々木はずっと泣き続けてマロンの名を呼び、謝罪を繰り返していたそうだ。
「犬の平均寿命って大型犬と小型犬でだいぶ違うんですけど、マロンさんは小型犬の中でも長生きな方なんです。無理にオーナーから引き離して治療をするよりも、最期を一緒に過ごした方が幸せだったと思います」
「十八年も共に過ごしたって言ってました。佐々木さんが子供の頃に家に来て、ずっと姉妹のように過ごしたって」
じわりと目尻に涙が溜まる。浅野にバレないようにさり気なく袖で拭った。
「イギリスのことわざみたいですね」
「イギリス?」
「俺が専門生の時に教えてもらった話の一つです。佐々木さんが子供の時にはいい遊び相手に、反抗期には味方になって、社会人になったら別れを教えてくれて。……犬ってね、人間よりも生きる時間が短い分、たくさんの思い出をくれるんですよ」
浅野は目を伏せる。
「寿命が短いことなんて飼い主はみんな分かっています。覚悟していても、実際に死が目前に迫ったら覚悟なんてなくなるものなんです」
「……なんていうか、私、軽い気持ちで来たのかもしれません。病院って大変だけど、その、こういうことがあるなんて思わなくて」
「つらいですか?」
「……はい。私のことじゃないのに」
「これから三ヶ月働くなら今回のようなことがまた起きます。心を壊す前に辞めるのも自分を守ることですよ」
「それは……」
「東堂さんに辞めて欲しいから言ったわけじゃないです。動物看護師や獣医として現場に立って、ああ無理だってなる人って多いんですよ。俺の同僚や後輩達も何人か別の職種に転職したし、別に悪いことではないと思ってください」
命に携わるということは、死を見届けることでもある。寿命を全うし、穏やかに息を引き取る子もいれば、病気に苦しみながら旅立つ子もいる。
心がどれほど悲鳴を上げようと、動物病院で働く以上、その現実に直面するだろう。
「それでも、この業界に残る覚悟があるなら、俺達がゼロから教えます」
「……私、アルバイト経験しかなくて、動物も飼ったことがないので、知識もあまりありません。それでも、もう少し頑張ってみたいと思いました。動物看護師のお二人や、獣医師である羽賀先生のように完璧にはできなくても、自分なりに患者さんに寄り添いたいと」
浅野達のように動物に関わる仕事をしたいと思ったことがない。飼育の基礎も分からないためスタートラインはみんなより出遅れている。
それでも、三人のようになりたいと思った。
「一生懸命、勉強します。どうか、よろしくお願いします」
薫が深く頭を下げると、小さく笑う気配がする。おずおずと面を持ち上げると浅野が目元を緩ませていた。
「こちらこそ。あまり無理せず、自分のペースで学んでいきましょう。それじゃあ、明日の朝、八時半にここに来てください」
「あの、それじゃ間に合わないので」
家から動物病院まで片道徒歩で一時間弱かかる。七時半前に家をでなければ遅刻してしまうので無理だと首を左右に振ると、浅野は苦笑いを浮かべた。
「通り道だし、俺が拾っていきます。帰りも送るんで、最後まで残ったらどうですか? 歩いて帰ってもどうせ同じ時間だし」
その声にはどこか気遣いが感じられた。わずかに眉を下げて薫の様子を伺う。
「えっと、ご迷惑では?」
薫は驚きとともに尋ねる。
「迷惑なら提案しないです」
「……あの、次のお休みに自転車を買いにいくので、それまでよろしくお願いします」
薫がそう言うと、浅野は軽くうなずき、優しい笑みを浮かべた。
「話はこれで終わり。家まで送ります」
「あっ、家は本当にすぐ裏なので。一分もかからないから大丈夫です」
「分かりました。それじゃあ、また明日。おやすみなさい」
「おやすみなさい。明日はよろしくお願いします」
助手席から降りた薫はまた深く頭を下げると踵を返して帰路につく。浅野と話したおかげなのか、ほんの少しだけだが、心のモヤが晴れたように感じた。
◇◆◇
イギリスの古い詩
『子供が生まれたら犬を飼いなさい。
子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。
子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。
子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう。
そして子供が青年になった時、
自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう。』
一旦、休載します。




