婚約破棄はできません――暴君の第一王子は婚約者の名前も知りませんでした
「おい、お前。今日限りで婚約は終わりだ」
王城の一室、玉座のごとき豪奢な椅子にふんぞり返った第一王子ファル・ライト・ダイレクトは、開口一番そう言い放った。
燃えるような赤髪、逆立った眉、怒鳴ることでしか会話ができないのではと噂される声量。国民からは陰で「暴君殿下」と呼ばれ、家臣は彼を「常に御機嫌斜めの姿を癇癪持ちの子供」と称し胃を痛めている、あの悪名高きファルである。
呼び出された令嬢は、ソファに腰掛けたまま小首を傾げた。
「はあ、そうですか」
まったく動じない。それどころか、テーブルに置かれた焼き菓子をひとつつまみ、もぐもぐと咀嚼している。
「はあ、そうですか、だと? お前、婚約破棄されるんだぞ。もっとこう……泣くとか叫ぶとか、あるだろうが」
「別に。もともと殿下とは会話も三回くらいしかしたことがありませんし」
「三回もあったか」
「今ので四回目ですね」
令嬢は涼しい顔で焼き菓子の欠片を払い落とした。この浮世離れした態度こそ、社交界で「変わり者令嬢」と評される所以である。本人はいたって普通のつもりらしいが、誰もそうは思っていない。婚約を結ぶ事になった理由が「互いに引き取り手がいなかったから」である事を知らないのはこの二人だけだった。
「まあいい。とにかく話は決まった。そこの書類にサインをしろ。この面倒くさい関係もそれで終わりだ」
侍従が恭しく差し出した婚約破棄の書類。ファルは羽根ペンを手に取り、堂々とした仕草でサイン欄に己の名を書き込んだ。
――そして、令嬢の名を書く欄で、ぴたりと止まった。
「……おい」
「はい」
「お前、名は」
令嬢は瞬きを二回した。
「そんな事も知らないのですか」
「うるさい、早く言え」
「言いません」
「は?」
「殿下がご自分でお調べになったらいかがです? 婚約破棄というのは、それなりに重い行為でしょう。相手の名前も知らずに済ませられては、こちらとしても格好がつきません」
ファルは羽根ペンを握ったまま固まった。よく考えれば――いや、よく考えるまでもなく、彼はこの婚約が決まった日から一度もこの令嬢の名を尋ねたことがなかった。そもそも婚約自体を望んでいなかったのだ。政略の駒として押し付けられた相手の名前など、知る価値もないと切り捨ててきた。呼ぶときはいつも「おい」か「お前」で事足りていた。
事足りて、いなかった。
「……くそ。誰か、こいつの名を」
「殿下」侍従が耳打ちする。「ご自身でお調べいただかないと、正式な破棄状として認められません。第三者からの伝聞では公文書偽造の疑いをかけられますので」
「面倒な国だな、ここは」
「殿下がお生まれになる前からある法です」
かくして、暴君第一王子ファルの、令嬢の名前を突き止めるための珍騒動が幕を開けた。
まず彼が取った行動は「威圧」であった。
「おい、お前。名を言え。今すぐにだ」
「言いません」
令嬢は変わらず優雅に紅茶を啜っている。脅しがまったく効かない相手というのは、暴君にとって未知の生物であった。
次に取った行動は「買収」である。
「俺の気に入りの菓子を分けてやる。名を言え」
「いただきます。名は言いません」
菓子だけ奪われた。
三度目、彼はついに搦め手に出た。夜会に忍び込み、令嬢の交友関係を洗い出そうという作戦である。しかしプライドの高い男だ。
人前に立つと途端に「おい、あの令嬢の名は」としか聞けず、周囲の貴族たちは「殿下、まさかご自分の婚約者のお名前も……」と青ざめるばかりで、誰も答えてはくれなかった。彼のプライドが、素直に「教えてくれ」と頭を下げることを許さなかったのである。
四度目、彼は令嬢の私室の前で偶然を装って侍女たちの噂話に聞き耳を立てた。
「――様は今日もお変わりなく」
「静かに! 誰か来る!」
肝心の部分だけ扉が閉まる音にかき消された。
五度目、彼はついに公文書庫に潜入し、婚約に関する原本を漁った。しかし彼の政略婚約は父王が独断で決めたものであり、書類上には「エルダイン第一王子及び某伯爵令嬢」としか記載されていなかった。
「某とはなんだ、 某とは! これがあいつの名前なのか!?」
「それは名前ではございません。殿下がご興味を示されなかったので、当時の書記官もそれ以上調べなかったのでしょう」
己の無関心が、今になって自分の首を絞めていた。
◇
令嬢は、彼の空回りばかりの奮闘を毎回どこかから眺めていた。
「殿下って、思ったより諦めが悪いんですね」
「うるさい。婚約破棄すると決めたら最後までやり遂げるのが俺の流儀だ」
「その流儀、もっと早く発揮していれば良かったのに」
ファルは言葉に詰まった。何かおかしい。言い返せない自分に苛立つ。
令嬢は不思議ちゃんらしく、彼をからかうでも突き放すでもなく、ただ興味深そうに見守っていた。「この人、自分の手で私の名前にたどり着けるのかしら」というくらいの、実験めいた好奇心である。
「ヒントくらいくれてもいいだろう」
「駄目です。私の名前は、殿下が誰かに聞いて得るものじゃなくて、殿下が私を見て気づくものであるべきだと思うので」
「詩人か、お前は」
「ふふ、褒め言葉ですね」
一週間が経ち、ファルはついに手段を尽くした。残る手段はただひとつ――令嬢本人と、まともに向き合って話すことだった。彼にとって、これが一番難しい手段であった。
「……なあ」
珍しく声を張らないファルに、令嬢は少し驚いた顔をした。
「趣味はなんだ」
「唐突ですね。刺繍と、あとは庭の薬草観察でしょうか」
「好きな食い物は」
「蜂蜜をかけた焼き菓子です。さっき殿下に取り上げられたやつです」
「悪かったな……。何が好きなんだ、他には」
「静かな午後と、あとは――誰かが自分をちゃんと見てくれること、でしょうか」
令嬢はそう言って、初めて少しだけ照れたように視線を外した。それを見たファルは、なぜか胸の奥がざわついた。
気づけば、彼は毎日のように彼女の部屋を訪れ、刺繍の腕前をけなされ、薬草の名前を教えられ、焼き菓子を奪っては叱られる日々を送るようになっていた。
「……お前、名は」
「まだ聞くんですか」
「破棄状を出さなきゃならんのだ、仕方ないだろ」
「もう、破棄する気あるんですか、それ」
ファルは黙った。図星だった。
そして、ある夕暮れ。彼女がいつものように庭で薬草を眺めているとき、ファルは意を決して口を開いた。
「――アーティ」
令嬢が振り向く。
「侍女があの日、途中まで名を呼んでいた。『〇〇様』の部分、アーティって聞こえた。合ってるか」
「……正式には、アーティリアです。半分正解、というところですね」
「くそ、惜しい」
「でも」令嬢――アーティリアは笑った。
「ちゃんとご自分の力で辿り着いたじゃないですか。合格です」
ファルは腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。しかしその頬はほんのりと赤い。
「……で、破棄状はどうするんです? もう名前、書けますよ」
羽根ペンを差し出され、ファルはそれを一瞥した。それから、ぽつりと呟いた。
「……また今度でいい」
「あら。暴君殿下、諦めが悪いのは書類仕事だけじゃなかったんですね」
「うるさい」
夕陽の差す庭で、暴君は初めて婚約者の名を正しく呼び、婚約者はそれに笑って応えた。
婚約破棄は、結局その日も、その後も、行われなかった。
――了――




