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第九話:大破局

ラミレンは跳ね起きた。

怒りに突き動かされ、その動きは鋭く、ぎこちなく、完全に制御を失っている。


彼は祖父の車の前方ドアへ駆け寄り、乱暴に引き開けた。

シートベルトに吊られたまま、力なく垂れ下がる老人の体。


しゃくり上げながら、震える手をジャケットのポケットへ突っ込む。


指先に触れたのは、冷たい金属の感触。


折りたたみ式のナイフ。

アナールの祖父が、釣り道具の手入れのためにいつも持ち歩いていたものだった。


カチリ――


刃が開く音は、銃声のように鋭く耳に残った。


ラミレンは振り向いた。

もう医者も警官も視界に入らない。


彼の世界は一点に絞られていた。

満ち足りたような、あの男の顔――すべてを奪った張本人。


走り出す。

友達のもとへでも、救急隊のもとへでもない。


あいつのもとへ。


「お前が殺したんだろ!!」


その叫びは、子供の声ではなかった。

傷ついた獣の咆哮そのものだった。


「なんとも思ってないのかよ!?

許さない!! 俺が殺してやる!!」


前も見ずに走る。

足が壊れたバンパーの破片に引っかかり、体ごとアスファルトへ叩きつけられた。すでに割れている頭を強打する。


視界が白く弾けた。

だが痛みよりも、怒りのほうが遥かに強かった。


それが彼を無理やり立たせる。


ふらつきながら起き上がり、ナイフを握る手に力を込める。指の関節が白く浮き出るほどに。


「殺してやる!!」


警官はちょうど男をパトカーへ連行しようとしていたところだった。

血まみれでナイフを握った少年が突進してくるのを見て、反射的に男を自分の背後へ押しやる。


だが――


男は怯えなかった。


ラミレンを見下ろすその目は、うるさい羽虫を見るような、露骨な嫌悪と無関心に満ちていた。


「…ガキが一人、騒いでやがる」


男は鼻で笑った。


「さっさと乗れ! もたもたするな!」

警官が怒鳴り、男を車内へ押し込む。


「離せええ!! 俺があいつを殺す!!」


ラミレンは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら絶叫した。

突き飛ばしてでも突進し、あの無関心で腐りきった顔面に刃を突き立てたかった。


そのときだった。


男が、にたりと笑った。


閉まりかけたドアのガラス越しに見えたその笑み。

歪んだ、嘲るような、他人の命など塵ほどにも思っていない人間の笑顔。


それが、決定打になった。


「お前がみんなを殺したんだ!! じいちゃんも!! 俺はお前を殺す!!」


叫びすぎて喉が裂ける。それでも止まらない。


だが、体はとっくに限界を迎えていた。

力が抜けていく。失血と痛みが、残酷な現実を突きつける。


「……殺す……」


足元が崩れる感覚。


指の力が抜け、ナイフが乾いた金属音を立ててアスファルトに落ちた。


「殺す……絶対に……みんなの仇を……」


かすれた声。絶望に濁った誓い。

前のめりに倒れ込み、硬い地面に顔を打ちつける――はずだった。


衝撃は来なかった。


誰かの力強い腕が、地面すれすれで彼を受け止めたのだ。


ラミレンは必死に焦点を合わせようとする。

目の前に立っていたのは、ひとりの男。

顔の下半分は黒い布で覆われている。


だが――その目と、髪。


布の隙間からこぼれる、雪のように白い髪。


「友達が……あいつに……奪われた……」


ラミレンは男の腕に体を預けたまま、かすれた声で吐き出す。


「憎しみ……殺意……復讐……」


男の声は低く、どこか悲しげだった。鐘の残響のように胸の奥深くまで響く。


「それは子供が抱えるものじゃない。そして……少年が背負うには、重すぎる」


男の目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

それはラミレンの頬に落ち、彼の血と混ざった。


(この白い髪……この人……)


意識が沈んでいく。だが、記憶が最後に火花を散らした。


(見たことがある……どこで……いつ……?)


闇がすべてを覆う。


(俺は……復讐する……みんなのために……)


それが最後の思考だった。


視界の奥に、光景が浮かぶ。


アナールとマリア。

生きている。笑っている。

二人が手を伸ばしてくる。


「みんな……」


ラミレンも笑った。胸が軽くなる。救われたような気がした。


手を伸ばす――


「……みんな……」


その幻は、霧のように溶けた。


目の前には、ねじ曲がった鉄の塊。

血に濡れたアスファルト。

血に染まった本。

血のついた、動かない顔。


現実は、子供の夢よりもずっと残酷だった。


ラミレンは力なく腕を下ろす。


(もしかして……俺たちの友情だって……特別なんかじゃなかったのか……? だって、それを終わらせたのは――)


思考は、絶望に沈んで途切れた。


疲労と恐怖と痛みに満ちた瞳が、ゆっくりと閉じていく。


目覚め


音。


規則的な電子音。


ピッ……ピッ……ピッ……


ラミレンは深い井戸の底から浮かび上がるように、意識の表層へ戻ってきた。


白いシーツの上に横たわっている。

腕には点滴の針が刺さり、透明な管を通って液体が落ちている。

頭は重く、ぐるぐると鈍く痛む。分厚い包帯がきつく巻かれていた。


体には、消毒液と糊の匂いがする病院のパジャマ。


「……何が……起きた……? ここは……どこだ……?」


肘で体を起こそうとするが、力が入らない。

自分の体が、自分のものじゃないみたいだった。


「ラミレン!!」


涙混じりの聞き慣れた声。


母親が駆け寄り、彼を強く抱きしめた。まるでまた消えてしまうのを恐れるように。


「よかった……本当によかった……目を覚ましたのね……!」


ラミレンは視線を横にずらす。


病室には、ほかにも人がいた。


父と、兄。


「……父さん?」


父は窓際で看護師と静かに話している。

すぐには近寄らない。いつもの距離感。

だが、ここに来ているという事実だけで十分だった。


(父さんが来てる……仕事があるのに……)


ラミレンはかすかに笑った。


「母さん……苦しいって……」


弱く背中を叩くと、母は慌てて離れ、涙を拭った。


その瞬間、記憶が戻る。


衝撃。叫び声。血。


ラミレンの目が見開かれる。心臓が凍りついた。


「……マリアとアナールは……?」


震える声。


空気が鉛のように重く沈んだ。

彼は、判決を待つ罪人のように、答えを待った。


母親は、そっと彼の手を撫でた。


「……あの子たちは生きてるわ、ラミレン。重傷だけど……お医者さんは助かるって言ってる」


(生きてる……)


その言葉は、祝福みたいに胸に落ちた。


「よかった……ほんとに……よかった……」


ラミレンは顔を両手で覆った。肩が震える。

泣いている。けれどそれは絶望の涙じゃない。安堵の涙だった。


あの壊れた車の前で、膝をついて願ったこと。

叶うはずがないと思っていた願いが、奇跡みたいに現実になった。


二週間後


彼は二週間、病院のベッドにいたらしい。

昏睡ではないが、危険な状態が続き、ほとんど眠ったまま体力を回復させていたという。


医師の話では、意識が浮かびかけた時に事故のことや「白い髪の男」のことを口にしていたらしい。

だが今は、その記憶は霧の向こうに消え、輪郭のぼやけた残像しか残っていなかった。


しかし、退院後に待っていたのは別の知らせだった。


苦い知らせ。


アナールの祖父は、亡くなった。


そして事故のあと、アナールは両親に引き取られ、遠い街へ引っ越したという。

学校も転校し、別れの言葉すら交わせなかった――母はそう教えてくれた。


(それきり、俺たちは会ってない。親友は俺の人生から消えて、また心に穴が空いた)


でも、マリアはいる。


(……本当に驚くのは、ここからだった)


学校へ戻る日


教室の扉を開けた瞬間、心臓が強く跳ねた。

久しぶりの空気。懐かしいはずの場所なのに、どこかよそよそしい。


けれど、彼女に会える。

それだけが救いだった。


ラミレンはすぐにマリアを見つけた。

自分の席で、見慣れない女子たちと楽しそうに話している。赤い髪の子と、黒髪の子。


「マリア!」


思わず顔がほころぶ。今まででいちばん素直な笑顔だった。


周囲の視線なんて気にせず、まっすぐ彼女の元へ向かう。


「無事でよかった……! 本当に……生きててくれて……!」


笑いながら言葉がこぼれる。


「なあ、アナールの新しい番号知らないか? 前の番号に何回かけても繋がらなくてさ!」


照れくさそうに頭をかく。話したいことが山ほどあった。


マリアは、ゆっくり振り向いた。


その目にあったのは、喜びでも温かさでもなかった。


冷たい、他人を見る目。


「……誰のこと?」


声は氷みたいに冷えていた。


「それに、なんで私に話しかけてるの?」


笑顔が、崩れ落ちた。


「え……? マリア、何言って……俺だよ、ラミレ――」


「ねえ見て、この人さ」

隣の赤髪の女子がくすっと笑う。

「なんかうちの友達に馴れ馴れしくない?」


教室中の視線が集まる。

でもそこにあるのは心配じゃない。嘲笑だった。


「マリア……冗談だよな……?」


胸が焼ける。事故のガラス片より痛い。


「悪いけど」

マリアは髪をかき上げ、ため息をついた。

「知らない人と話してると、私まで変に見られるんだよね。今、友達いるし」


ラミレンは立ち尽くした。


やっと拾い集めた世界が、また音を立てて崩れていく。


「でも……マリア……」


「おいラミレン、女子に絡んでんのか?」


聞き覚えのある下品な声。ゲオルギーだ。


不良三人組が割って入り、マリアの前に壁のように立つ。


「今度は女の子狙いかよ?」

アフトゥンディルが指を鳴らす。


「マジきもいな」

セナンが吐き捨てる。


ラミレンは助けを求めてマリアを見る。


「マリア……」


だが彼女は窓の方へ顔を向けた。

まるで最初から、そんな名前の少年など存在しないかのように。


(どうして……? なんで……?)


頭の中で記憶が弾ける。

頭を撫でてくれた手。かばってくれた背中。

自分のために悪い点を引き受けた、あの日。


『私が守るから』


その言葉が、刃みたいに胸を抉った。


「……俺、行くよ」


唇が白くなる。

心の奥で、何かが静かに死んだ。


「さっさと消えろよ」

背後から笑い声。


教室の扉が閉まり、ざわめきが遮断される。

ラミレンは数歩歩き、廊下の壁に背中を預けた。


膝が折れ、そのまま冷たい床に座り込む。


「……痛い……」


胸の服を掴む。心臓が肋骨を叩き割りそうだった。

息ができない。吸っても空気が入ってこない。


それが、彼の最初の発作だった。


「苦しい……心臓が……」


体を丸め、顔を膝に埋める。

涙が勝手に溢れた。


「なんで……なんで俺だけ……」


目を閉じると、闇が広がる。

底のない、粘つく闇。すべてを飲み込む深淵。


(いちばん怖いのは孤独じゃない。いちばん怖いのは――忘れられることだ)


後になって、彼は知る。


学校に「アナール」という生徒は最初から存在していなかったこと。

記録も写真も、誰の記憶にも。


マリアとも、彼は友達だったことになっていなかった。

この歪んだ現実では、彼女は生き延びるために、かつて自分をいじめていた側に回った。


友情も、約束も、木の下の誓いも――最初からなかったことに。


(まるで、俺が全部作り話をしてたみたいだ)


ラミレンは一人になった。

教室の中の幽霊。


三年後


季節は巡る。

葉は色づき、落ち、雪の下で腐り、また芽吹く。


秋だった。


金と紅の葉が空を舞い、地面を埋め尽くしている。

あの木の下に、ひとりの青年が座っていた。


ラミレンは幹にもたれ、眠っていた。

痩せた顔。大人びた輪郭。


まぶたが震え、はっと目を開く。


「……っ」


冷たい秋の空気が肺を刺した。


「なんだ……今の……夢……?」


声はかすれている。

記憶は霧のように消え、苦い感覚だけが残った。


「ラミレン?」


上から声。


見上げると、ひとりの少女が立っていた。

整った顔立ち。自信のある立ち姿。


マリア。


「先生が、学級委員の私にあんた探してこいって。授業始まってる」


事務的な声。


「……わかった」


ゆっくり立ち上がり、ズボンの葉を払う。


マリアは立ち去らない。

少しだけ、興味の色が浮かぶ。


「さっき言ってた夢って何?」


「え?」


「近く通ったら聞こえた。変な夢見たって」


ラミレンは目をそらす。


「覚えてない……何も」


嘘だった。


正確には――思い出してはいけない気がした。

【後書き】


読んでいただきありがとうございます。


奇跡的に命を取り留めたラミレン。しかし、目覚めた世界は、彼の知っているものとは決定的に違っていました。

親友の不在、そしてマリアの冷たい視線。

「忘れられる」という、死よりも残酷な現実。


あの日、あの時。白い髪の男は何をしたのか。

そして、ラミレンが「思い出してはいけない」と感じた夢の正体とは。

物語はここから、失われた記憶と運命を取り戻すための孤独な戦いへと繋がっていきます。

皆さんは、豹変してしまったマリアについてどう思われたでしょうか。


次回もよろしくお願いします。

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