第八話:自由
教師は不意に言葉を詰まらせた。
教室に、すっと静寂が落ちる。
彼は眼鏡を外し、レンズを丁寧に拭いてから、もう一度答案へ目を落とした。
それから――ゆっくりとラミレンを見る。
「……“私は行くだろう”?」
教師は片眉を上げた。
「女性形、だね? 言葉の使い方が」
ラミレンの背中を、冷たい汗がつうっと伝う。
(終わった)
(何も分からないけど……とにかく終わった)
ぎこちなく首を横に向ける。
マリアは視線を落としていた。
だが、その口元は――ほんのわずかに、震えるように笑いをこらえている。
(……ああ。やっぱりお前か)
理解が波のように押し寄せた。
「ふむ……」
教師は顎に手を当て、考え込む。
「面白い文学的手法だ。叙情的な語り手をあえて女性に設定したのか? あるいは、愛の前では魂に性別などない、という比喩かな……」
ひとりで納得したように頷く。
「大胆だ。実に大胆な表現だよ」
ラミレンは小さく息を吐いた。
助かった。
教師が勝手に深く解釈してくれた。
「正直、こういう文章はマリアなら書きそうだと思っていたが……ラミレン、君には驚かされたよ」
教師は微笑む。
「それから、もう一つ印象に残った答案がある。アナール、君のだ」
視線が隣の列へ移る。
ぽかんと口を開けていたアナールは、慌てて背筋を伸ばし、襟元を直した。
「自由とは、知を持ち、世界の秘密に近づける者のことだ――か。実に成熟した考えだ。よく書けている」
その瞬間、チャイムが鳴った。
救いの音のように、教室に響き渡る。
教師が席に戻り、生徒たちは一斉にざわめきながら帰り支度を始めた。
ラミレンはマリアの机へ向かう。
彼女は落ち着いた様子で教科書をカバンにしまっていた。
「……俺たちの答案、入れ替えただろ」
直球だった。声は低い。
マリアの手が一瞬止まる。
だがすぐに何事もなかったように動き出した。
「さあ? 何のこと?」
腕を組み、そっぽを向く。
「とぼけるなよ」
ラミレンの声が熱を帯びる。
「先生が読んだの、あれお前の言葉だろ。“私は〜する”って。なんでそんなことしたんだよ」
マリアは小さく息をついた。
そして、まっすぐ彼を見上げる。
澄んだ、大きな瞳だった。
「あなたを悪い点から守るため。それと、先生に怒鳴られないように」
まるで天気の話でもするみたいに、あっさりと言う。
ラミレンは言葉を失った。
クラス一の優等生が、自分のためにわざと悪い評価を受けた――?
「……お前、ほんとに毎日驚かせてくるな」
力が抜け、腕が下がる。
怒りは消え、代わりに胸を締めつけるような感謝と、少しの罪悪感が残った。
「俺……悪い点取るの分かってたんだ」
「じゃあ、どうして書かなかったの?」
マリアは純粋な興味で聞いた。
「ほとんど白紙だったよ」
「それが“自由”だからだよ」
ラミレンは静かに言う。指を組み合わせる。
「自由ってさ、誰にも何も求められないことだと思うんだ。説明する義務すらないこと」
アナールも近づいてきて、黙って聞いている。
「だからあの一文を書いたんだ」
ラミレンは少し寂しそうに笑った。
「“本当の自由は、すべてから解き放たれた時にしか手に入らない”って」
視線が遠くなる。
「期待からも、評価からも、恐れからも……全部」
声に、年齢に似合わない苦味が滲む。
「でもさ……この世界に、本当に自由な人間なんていない。みんな、何かに縛られてる」
勢いで始まった言葉は、最後には重たい溜め息に変わった。
マリアとアナールは顔を見合わせる。
ラミレンは、あまりにも急に変わる。
無邪気な少年から、疲れた哲学者へ。
「……まあ、何の話だっけ」
ラミレンは頭をかき、空気を振り払う。
そして突然、逃げるように立ち上がった。
自分のカバンを掴み、続けざまにアナールの腕から一冊の本をひったくる。
あの、魔法とタリスマンの本。
「アナール! 捕まえられるなら捕まえてみろー!」
少年みたいな声で叫び、教室を飛び出した。
「おいコラ! ずるいぞ、それ俺のだろ!」
アナールが慌てて追いかける。
マリアも笑いながら後を追った。
三人は校庭を駆け抜け、通りを渡り、あの場所へ向かう。
彼らの隠れ家――友情の木のもとへ。
最初に着いたのはラミレン。
次がマリア。
最後に、息も絶え絶えのアナールが辿り着いた。
「はぁ……俺、ほんと運動向いてない……」
彼は幹にもたれ、そのまま芝生にずるずる座り込む。
ラミレンとマリアも、肩で息をしながら隣に倒れ込んだ。
夕日が葉を金色に染めている。
「ほら、スポーツマン」
ラミレンは笑って本を差し出す。
アナールはそれを大事そうに抱きしめ、座り直した。
中央に座ったラミレンは、友達の顔、茜色の空を見上げる。
胸が、じんわりと熱くなる。
「なあ……」
遠くを見るように言う。
「この世界がどれだけ壁とルールだらけでもさ……」
言葉に力がこもる。まるで誓いみたいに。
「俺は思うんだ。俺たちの友情より自由なものなんて、ないって」
マリアとアナールは笑った。
「うん!」
「だな!」
声が重なる。
それは、子供みたいにまっすぐな笑顔だった。
自分たちに永遠があると、本気で信じている人間の笑顔だった。
――あのとき、俺は本気でそう思っていた。
友情は何よりも強くて、どんなものだって乗り越えられるって。
それこそが、俺たちの“自由”なんだって。
ラミレンはあの瞬間を、胸に焼きつけるように噛みしめていた。
三人は立ち上がり、服の土を払い、リュックを肩にかけると木から離れて歩き出した。
夕暮れが、ゆっくりと世界を包み込み始めていた。
(あの頃の俺は……本気でそう信じてたんだ)
胸の奥で、過去の自分の声が響く。
(でも、あの日……全部が変わった。永遠に)
閃光。
闇。
そして、痛み。
視界が音もなく砕け散る。
陽の光も、葉擦れの音も消えた。
代わりにあったのは、刺すような冷気と、焦げた匂い。
口の中に広がる、鉄の味。
ラミレンはアスファルトの上に倒れていた。
重たいまぶたを、どうにかこじ開ける。
世界が揺れ、にじみ、二重にぶれて見えた。
「ぁ……なにが……起きた……?」
かすれた声が喉から漏れる。
動こうとした瞬間、全身に鋭い痛みが走った。
視線を落とす。
自分の手が、赤く濡れていた。粘ついている。
(血……? 俺の手……これ……)
息がうまく吸えない。
最初は喉の奥で潰れた音しか出なかった。
だが次の瞬間、肺が痙攣するように収縮し――
ラミレンの口から漏れたのは叫びではなかった。
それは、獣の遠吠えだった。
細く、かすれ、途切れない。
なぜ痛いのかも分からないまま泣き叫ぶ、傷ついた生き物の声。
視界が暗くなるまで、喉が焼けるまで、彼はそのまま叫び続けた。
やがて、衝撃が遅れて頭を打ち抜く。
「……っ、あ……」
左手で右腕を掴み、震えを抑えようとする。
「頭……痛い……」
額が切れていた。
流れた血が目に入り、視界を赤く染めている。
彼は道路の真ん中にいた。
周囲には、砕けたガラスとプラスチックの破片が散乱している。
ふらつきながら、ラミレンは無理やり立ち上がった。
足が言うことをきかない。
その先にあったのは、横転した車。
アナールの祖父が乗っていた、あの古いセダン。
屋根は押し潰され、紙のように歪んでいた。
運転席側――
首が不自然な角度に折れ曲がった老人が、シートベルトに吊られるようにして動かずにいた。
頭部は割れ、閉じられた目の上から血が黒く流れ落ちている。
呼吸は、なかった。
(アナールのおじいちゃん……)
恐怖で喉が引きつる。
足を引きずるように、ラミレンは車の後部へと回った。
自分たちが座っていた場所。
そこで、彼は立ち尽くした。
後部座席は、衝撃で原形を留めないほど押し潰されていた。
歪んだ鉄の塊の下に――
アナール。
マリア。
二人の体が、挟まれていた。
目を閉じたまま。
まるで眠っているみたいに静かで――
けれど、あまりにも多すぎる血と、ありえない体の角度が、現実を突きつけていた。
顔が崩れる。
それは、純粋な絶望の形だった。
涙が溢れ出し、頬の血を洗い流していく。
理解してしまった。
耐えきれない事実を。
生き残ったのは――
自分だけ。
肺に空気が荒々しく流れ込む。
ラミレンは叫んだ。
声帯が裂けるほどに、
喉が血の味に染まるほどに。
悲しみも、怒りも、悔しさも、
すべてが混ざった絶叫。
彼はその場に崩れ落ちた。
砕けた車の前で膝をつき、拳でアスファルトを叩き続ける。
皮膚が裂けても構わず、
ただ、叫び続けた。
動かなくなった――
かけがえのない、二人の前で。
嘲笑うかのように、鮮やかな記憶が次々と頭の中を駆け巡った。
明るくて、色に満ちていて、生きていた記憶 。
マリアが彼の頭を優しく撫でている光景。
アナールとくだらないことで言い合いをしている場面。
笑い声。楽しそうにアイスを食べていた時間。あの木の下で過ごしたひととき。
不良たちからお互いをかばい合った日のこと。
そして――ほんの数時間前、あの木の下で交わした最後の会話。
「なあ……」
笑いながらラミレンが言う。
「もしかしたらさ、俺たち誰も自由なんかじゃないのかもしれない。でも――俺たちの友情以上に自由なものなんて、ないよな」
その記憶は、肉体の痛みよりもはるかに強く彼を打ちのめした。
「いやだああああ!! いやだああああ!!」
ラミレンは涙にむせびながら、ひとり、無人の道路の真ん中で叫び続けた。すぐそばには、ねじ曲がった鉄の塊と化した車。
「信じない……」
震える声が、かすれながら漏れる。理性が現実を拒絶し、目の前の光景を認めまいと必死に抗っていた。
「こんなの……あるわけない……」
首を激しく振り、額から流れる血が飛び散る。
「俺たちがこんな目に遭うなんて……夢だ……悪い夢だ……」
ふと、アナールの手が視界に入った。
固く、もう二度とほどけない握り方で、胸に抱きしめられている一冊の本。あの魔法百科事典。
かつて鮮やかだった表紙は血を吸い、どす黒く変色していた。
「いやだ……なんで……なんであいつらなんだよ……」
後ずさった足がもつれ、ラミレンは再び膝から崩れ落ちた。ガラス片が膝に食い込む。
「お願いだ……起きてくれ……」
震える手でマリアの冷たい肩に触れる。
「なあ……ふざけるのやめろよ……起きろよ……!」
返事はない。
聞こえるのは、冷えていくエンジンのパチパチという音と、遠くから近づいてくるサイレンの響きだけ。
「死ぬなよ……」
涙で視界が滲み、世界がぼやけていく。
「生きろよ……頼むから……生きてくれよ……!」
懇願はやがて、絶望に満ちた叫びへと変わった。
「死なないでくれ!! お願いだ!! 頼むから!!」
赤と青の光が周囲を照らし始める。パトカー、救急車。
制服姿の人間たちが走り回り、無線で怒鳴り合っている。だがラミレンには、すべてが遠い影のようにしか見えなかった。
ゆっくりと、彼は顔を上げる。
事故の原因となったもう一台の車から、警官たちがひとりの男を引きずり出していた。
服は乱れているが、無傷。完全に無事で、そして――まるで他人事のような顔。
「俺は悪くないぞ! 何するんだ! 手を離せ!」
男は高そうなスーツの埃を払いながら怒鳴る。
「俺が誰だか分かってるのか? 見ろよ、俺の車! バンパーが壊れてるじゃないか! 誰が弁償するんだ!」
その声には、後悔の色は一欠片もなかった。
子供たちが閉じ込められたあの潰れた車を一瞥することすらなく、ただ自分の“傷物になった車”に腹を立てているだけだった。
ラミレンの動きが止まる。
頬を伝う涙が、冷たくなっていく。
(あいつ……)
衝突直前の光景が、フラッシュバックのように蘇る。
(アナールのおじいちゃんはクラクションを鳴らしてた……ずっと……。ガードレールがあって避けられなかった。でもあいつは……あのクズは……聞こえてたはずだ。見えてたはずだ。俺は見たんだ、あいつの顔を)
氷のような理解が、傷の痛みよりも鋭く脳を貫いた。
(あいつはハンドルを切らなかった。ブレーキも踏まなかった。どうでもよかったんだ)
少年の目が見開かれる。
恐怖はやがて、別の何かへと形を変えた。重く、濁った感情。
(あいつが殺した。なのに、平然としてやがる)
ラミレンは立ち上がった。
怒りに突き動かされ、動きはぎこちなく、荒々しい。
彼は祖父の車の前方ドアへ駆け寄り、それを乱暴に開け放つ。
シートベルトに吊られたままの老人の体。
ラミレンはすすり泣きながら、震える手をそのジャケットのポケットへ突っ込んだ。
【後書き】
読んでいただきありがとうございます。
一瞬の衝撃が、彼らの日常を塗り替えてしまいました。
崩れ落ちた車と、残されたラミレン。
この結末について、皆さんはどう感じられたでしょうか。
次回もよろしくお願いします。




