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第七話:未知

マリアは、少し考えるように目を細めたあと、ぽつりと言った。


「……うん。変」


「変って何だよ」


ラミレンが眉をひそめると、彼女は言葉を探すように視線を泳がせる。


「なんていうか……すごく幸せそうな顔するの。小さい子が、ずっと欲しかった夢をようやく手に入れたみたいに」


そこでいったん言葉を切り、声のトーンを落とす。


「でも次の瞬間には……世界のすべてを失ったような顔になる。笑ったと思ったら、すぐ泣きそうになってて……正直、ちょっと怖いくらい」


頬に熱が集まるのが分かった。穴があったら入りたいとは、まさにこのことだ。


「ちょ、お前……寝てるとこずっと見てたのかよ!?」


思わず口元を押さえて叫ぶ。


「えっ」


アナールも足を止め、面白がるような目でマリアを見る。


「……見てたけど?」


彼女はまったく悪びれず、腰に手を当てて胸を張った。


「ラミ、無防備すぎるんだもん。虫が顔に乗るかもしれないし、リスにどんぐりを落とされるかもしれないでしょ。見張ってただけ!」


「保護者かよ……」


ラミレンはぶつぶつ言いながら、スナック菓子の袋に手を突っ込む。がりがりとやけ食いする音を立て、気まずさを誤魔化した。


「ちょっと待って」


不意に、マリアが袖をつかんだ。


「んぐ?」


「口の横、粉ついてる。きたない。拭くから」


ポケットからハンカチを取り出す。ラミレンは慌てて飛び退いた。


「いいって! 自分でやる!」


その様子を見ていたアナールの眉がぴくりと動く。一歩前に出ると、ひょいと横からハンカチを奪い取った。


「マリア、貸して」


にやりと意地の悪い笑みを浮かべる。


「俺が拭いてやるよ。ほらラミ、“ほっぺ”出せって」


「はあ???」


ラミレンは本気の恐怖に目を見開いた。


「お前ら頭おかしくなった!?」


アナールが吹き出し、マリアも堪えきれず声を上げて笑う。つられてラミレンも笑ってしまった。最初は引きつった笑いだったのに、気づけば腹の底から声が出ていた。


通りの真ん中で三人、子どもみたいに笑い転げる。


その瞬間だけは、悪夢も違和感も、どこかへ遠のいていた。


翌朝。校門へ向かう坂道にて。


「で、今日は“異世界旅行”はなしか?」


アナールが肘でつつきながらニヤつく。


「家で寝たら何も見ないんだよな」


ラミレンは肩をすくめた。


「あの木の下だけ、なんか違うんだよ。空気が特別とか?」


本当のことは言わない。言えるわけがない。


前を歩いていたマリアが、ふいに足を止めた。


「……二人とも」


嫌な予感しかしない声音だった。


「ちゃんと準備した?」


笑顔が凍りつく。


「……何の?」


アナールの声が裏返った。


「テスト。今日、学年のまとめのやつがあるでしょ」


男二人は、同時にうなだれた。


「……忘れてた」


「どうやったら忘れられるの!?」


マリアが信じられないものを見る目をする。ラミレンは観念して口を開いた。


「昨日さ……アナールの本の話をしてて」


「はあ!?」


アナールが飛び上がる。


「お前がナポレオンがどうとか一晩中語ってたんだろ! 自分ならもっと上手くやれるとか豪語して!」


「言ってねえよ!」


「言ってた! 軍の動かし方がどうとか!」


マリアの目が点になる。ラミレンは慌ててアナールの口をふさいだ。


「黙れって!」


「むごっ」


「ラミレン」


低い声。振り向くと、マリアがじっと彼を見据えていた。


「そういう壮大な話、アナールとだけして……私にはしないんだ?」


「「え?」」


声が重なる。ラミレンは手のひらの湿り気に気づき、顔をしかめた。


「うわ、よだれついた……」


ためらわずアナールのシャツで拭う。


「おい! それ新品!」


怒鳴り声のあと、また笑いが弾けた。


授業は、夏の飴のようにだらだらと伸びた。


ラミレンは窓際で頬杖をつき、青い空を眺めている。


(この三年で、ずいぶん読んだな……)


本。物語。伝承。


そして、アナールが持っていたあの一冊。


(あれは作り話みたいなのに、どうしても本当であってほしいって思ってしまう)


空を横切る鳥。境界も檻もなく、自由そのものの姿。


(もし本当にあの力があるなら)


胸の奥が熱を帯びる。


(縛られてるもの、全部壊せるのに)


意識がゆっくりと沈んでいく。気づかぬうちに、ラミレンは微笑んだまま眠りに落ちていた。


テスト用紙を配っていたマリアは、彼を起こさなかった。


そっと机に紙を置き、通りすがりに彼の頭を軽く撫でる。猫を愛でるように。


その微かな感触で、ラミレンははっと目を開けた。


机の上の紙。


『テーマ:自由』


教師が眼鏡を押し上げる。


「自由とは何か。君たち自身の言葉で書きなさい」


ラミレンの眠気は吹き飛んだ。


ペンが走る。止まらない。


テスト終了後。


ラミレンは早々に答案を提出し、椅子にもたれて目を閉じていた。


後ろから、聞き慣れた嫌な声がする。


「見ろよあいつ。ずっとニヤニヤしてやがる。気味わりぃ」


ゲオルギーだ。


「セナン、なんか投げてやれよ」


「おう」


紙が丸められる音がした。投げられた物体は、しかしラミレンに届く前に宙で止まった。


マリアが片手で受け止めていたのだ。


彼女は紙を開く。


『プレゼントだ、バカ』


無言のまま、彼女はラミレンの筆箱から金属の小さな鉛筆削りを取り出すと、その紙に包み直した。


そして、振り向きもせずに背後へ投げ返した。


鈍い音。


「いっ……!?」


セナンが椅子ごとひっくり返る。床に落ちた紙の包みから、金属の削り器が転がり出た。


広げられたシワだらけの紙には、自分の書いた文字が踊っている。


『プレゼントだ、バカ』


「誰だよ!!」


顔を真っ赤にしてセナンが怒鳴る。


「誰がやった!?」


彼は教室中を血走った目で見回した。


「誰だよ、これ投げたの!? しかもこの紙で! 俺のことバカって書いたやつ誰だ!!」


自分の字で書かれた悪口を握りしめ、心の底から憤慨している。あまりに滑稽な光景だ。


マリアは何事もなかった顔で答案用紙をきれいに揃えていた。それから、ついさっき見事な投球でクラスメイトを沈めた人物とは思えないほど自然な動きで、ラミレンの方へ振り向く。


そっと手を伸ばし、彼のくしゃくしゃの髪に触れた。


「……ん……母さん……あと五分……」


ラミレンは目を閉じたまま寝言をこぼす。夢と現実の境界が、まだ曖昧なまま。


マリアはくすりと微笑み、そのまま指先で髪を整え続けた。けれど不意に、机の上の答案用紙に目が止まり――笑みが消える。


(……え?)


紙には、ほとんど何も書かれていなかった。


たった数語。それも、ミミズが這ったような走り書きの断片だけ。


(さっきまで、あんなに書いてたのに……)


ペンが止まる気配などなかった。クラスで一番早く、熱に浮かされたみたいに書き続けていたのを、確かに見ていたはずなのに。


現実の紙面は、空白に近い。


(……全部、夢の中だったの?)


唇を噛む。


終了のベルまで、あとわずか。


マリアは一瞬だけ教師を見る。次に、自分の答案を見た。びっしりと文字で埋まったそれを。


迷いは――一秒。


彼女はラミレンの筆箱からペンを抜き取った。


素早く自分の答案の名前を消し、そこに「ラミレン」と書き直す。そして彼のほとんど白い用紙に、自分の名前を書いた。筆跡が似すぎないよう、少し崩して。


何食わぬ顔で答案を重ね、山の中ほどへ紛れ込ませる。提出。


「……ん」


ラミレンがゆっくり目を開けた。まるで遠い場所から戻ってきた人間の顔をしている。


「……あれ、テスト……?」


机の上は空だ。


「俺の答案は……? てか、削り器どこいった」


足元を見る。


通路に転がる金属の削り器。その向こうで、額を赤くしたセナンをアフトゥンディルが助け起こしている。


ラミレンは小さく笑った。


(なるほどな)


拾い上げた削り器を、ポケットに滑り込ませる。


胸の奥に、冷たい考えが落ちる。


(“自由”ってのは……自分の何かを手放すことも含まれるのかもな)


(敵を排除するためなら)


翌日。


教室は妙に静まり返っていた。


教師が答案の束を机に揃える。


「昨日のテストの結果を返す」


どこか腑に落ちない顔つきだった。教師の視線が、ラミレンで止まる。


「……意外なことに、ラミレンが最高点だ」


教室がざわついた。


「正直、途中まで寝ていたように見えたんだがな……内容は非常によく書けていた」


ラミレンは口の端を上げた。


「ま、そんなもんでしょ」


軽く言い放つ。胸の奥に広がるのは誇らしさではない。


静かで、暗い満足感。――運命を、ひとつねじ曲げた感触。


彼の隣で、マリアは小さく息をついた。そして誰にも気づかれないように、そっと目を伏せた。


ラミレンは椅子にもたれ、両手を頭の後ろで組んだ。顔には得意げな笑みが浮かんでいる。だが胸の奥では、理解できない何かに締めつけられるような違和感が渦巻いていた。


「だが……もう一人の生徒の結果には、正直深く失望した」


教師の声色が変わる。乾いた、重たい響き。


その視線が、教室の最前列へとゆっくり向けられた。


「マリア」


名を呼ばれた少女は、背筋を伸ばしたまま前を見つめていた。まばたきひとつせず、微動だにしない。


「君には期待していた。だが今回は、基準の七十語すら満たしていない。ほとんど白紙だ」


教師は首を振る。


「クラスで一番の優等生だったはずだが……何があったのか分からない。次は、せめてもう少し努力してくれ」


「はぁっ?!」


ラミレンが勢いよく立ち上がった。椅子がガタンと大きな音を立てて後ろへ滑る。


アナールも目を見開き、信じられないという顔でマリアを見た。


「ありえない!」


ラミレンの声は震えていた。怒りが込み上げてくる。


「マリアが失敗するわけないだろ! 何かの間違いです!」


「ラミレン……君は座りなさい」


教師が静かに手で制する。


ラミレンの体が強ばった。心臓が嫌な音を立てる。


(バレたのか……? 筆跡が違うとか、盗んだとか……言われるのか……?)


だが――


教師は微笑んだ。柔らかく、どこか寂しげな笑みだった。


「君の文章は……心を打ったよ、ラミレン」


ラミレンはゆっくりと椅子に腰を下ろす。目を瞬かせた。


「君にとっての“本当の自由”が、愛する人と人生を共にすることだという考え……実に素晴らしかった。ここ数年で読んだ中でも、あれほど胸を打つ内容はなかった」


教室が静まり返る。


「他の生徒は、授業がないことやお金のことばかり書いていた。だが君は違った。感情をあそこまで丁寧に描いた文章には、正直驚かされたよ」


(……は?)


ラミレンの思考が止まる。


(愛する人? 俺が……?)


「このテーマに対する君の向き合い方には、本当に感心した」


教師は続ける。


「まさかこの年齢で、ここまで深く考えられるとは思わなかった」


そして手元の答案に目を落とし、読み上げ始めた。


「特にこの一文――

『私は大切な人のためなら、何だってする』」


教師の声が不意に止まった。


教室に沈黙が落ちる。


彼は眼鏡を外し、ゆっくりと拭き、もう一度答案を見た。

それから、ゆっくりと顔を上げ――ラミレンを見つめた。

【後書き】


読んでいただきありがとうございます。


テストの答案の入れ替え。優等生のマリアが取った行動は、あまりにも意外で、重いものでした。

一方で、ラミレンが夢中で書き殴っていたはずの言葉はどこへ消えてしまったのか……。


「大切な人のためなら、何だってする」


この言葉と、マリアの決断についてどう思われましたか?

皆さんの感想をぜひ聞かせてください。


次回もよろしくお願いします。

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