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第六話:奈落

 奈落より響く名もなき声


まただ――この、引き裂かれるような混濁。


記憶はひとつの流れとして戻ってくることはなかった。

まるで誰かが、見知らぬ人生の断片を無造作に切り刻み、それを無理やり瞳の奥へと流し込んでくるかのように。


映像は次々と明滅し、互いに重なり合い、やがて自分自身の思考と絡みついていく。


――どこまでが“自分”で、どこからが“他人”なのか。


その境界が、分からなくなる。


あれは誰の顔だったのか。

こめかみを打つこの痛みは、いったい誰のものなのか。


あの光景は、忘れてしまった過去なのか。

それとも、最初から存在しないはずの“どこか”なのか。


答えは、どこにもなかった。

そして何より恐ろしいのは――分からないままでいること、そのものだった。


視界の奥を占めていたのは、ほとんどが闇だった。


重く、深く、底のない闇。

だがその漆黒の只中に、ときおり微かな揺らぎが差し込む。


遠く、かすかな光。

果てなき奈落の縁で、消えかけながらも瞬く灯火。


それは、救いの光ではなかった。

ただ――もう戻らない“何か”が確かにあったのだと、思い出させるだけの光。


闇は、ただの無ではない。

それは意志を持つかのように、粘りつく。

重油のように濃く、呼吸すら絡め取る。


ラミレンの前に、いくつもの人影が立っていた。


顔は見えない。

だが分かる。


その存在は重く、強く、

ただ立っているだけで、肩の骨が軋むほどの圧を放っていた。


周囲に広がるのは、崩れ落ちた都市の残骸。

かつて“街”だったもの。

空は膿んだ痣のような色をして、廃墟の上に低く垂れ込めている。


「――全能」


声が落ちてきた。

まるで山肌を砕く落石のように、鈍く、重く。


闇と見分けのつかない黒い装いの男が、一歩前へ出る。


その向かいに立つもうひとつの影は、背が高く、

目元まで黒い布で覆われていた。


だが、布の隙間からこぼれる白い髪だけが、

この死んだ世界の中で異様なほど鮮明に浮かび上がっている。

亡霊の鷹の羽のように、静かに光を宿して。


「全能とは――この世界の仕組みそのものを変えようと望む者が、必ず辿り着く概念だ」


黒の男が告げる。


しばしの沈黙ののち、もうひとつの声が応じた。


「……この不公平な世界を、変える」


怒りではない。


そこにあったのは、疲れきったような静けさと、

それでもなお揺るがぬ決意。


すでに覚悟を終えた者の声だった。

たとえ世界中が敵に回ろうとも、歩みを止めぬ者の。


光景が、歪む。


途切れる。


――息を、吸い込む。


ラミレンははっと目を開いた。


喉元までせり上がる鼓動。

額には冷たい汗。


視界に映ったのは、見慣れた校庭の木陰。

葉擦れの音。午後のやわらかな光。


だが。


何かが、確実に違っていた。


ラミレンはゆっくりと自分の手を見下ろす。


……大きい。


指も、手の甲も。

自分の身体そのものが、前よりも“成長している”感覚。


(また……眠ってたのか?

 一分? それとも……もっと、長く?)


「おはよ、ラミ」


すぐ隣からの声に、肩が跳ねる。


そこにいたのはマリアだった。

いつも通りの、やわらかくて、少しだけからかうような笑顔。


本来なら、それだけで胸の奥が温かくなるはずの笑顔。


けれど今は――


どこか、遠い。


「寝てるときのラミ、ちょっと面白いんだよ? なんかぶつぶつ言っててさ」


くすりと笑う。


「……また、変な夢……見てた」


ラミレンの声はかすれていた。

喉はひどく乾き、耳の奥にはまだ、あの声が残響している。


「どんな夢?」


興味深そうに、マリアが首を傾げる。


黒い男。

白い髪。

崩壊した街。


思い出そうとした瞬間、それらは霧のように形を失った。


「……思い出せない。全部、ぼやけてて」


こめかみを押さえる。


「ラミ……」


マリアの声が、ふいに震えた。


「なんで……泣いてるの?」


ラミレンははっとして、自分の頬に触れた。


濡れている。


指先に伝うのは、熱を持った涙。


とめどなく溢れ、まるで――

大切な誰かを失った直後みたいに。


けれど、誰を失ったのかさえ、分からない。


「おーい! 買ってきたぞー!」


場違いなほど明るい声が割って入る。


アナールが両手に袋を提げて駆けてきた。


「水とスナック、完璧な布陣だろ? ……ってマリア、どうした?」


だがラミレンは聞いていなかった。


彼の視線は、マリアの肩に釘付けになっていた。


小さな、赤い点。


「マリア……そこ」


かすれた声で指差す。


「え?」


「てんとう虫……」


涙の跡を残したまま、ラミレンはかすかに笑った。


「潰しそうになってた。好きだろ、てんとう虫。幸運の印だって、前に言ってた」


マリアの動きが止まる。


目が見開かれる。


アナールも袋を揺らしたまま、ぽかんとラミレンを見る。


「……なんで、それを……?」


一歩、後ずさるマリア。


「え? だって昨日――」


言いかけて、ラミレンは言葉を止めた。


本当に“昨日”だったのか?


風が、ぴたりと止む。


校庭に、奇妙な静寂が落ちた。


風が戻る。

枝を鳴らし、乾いた葉をいくつも宙へ巻き上げながら。


現実は、何事もなかったかのように繕われていった。


だが。


「……ラミレン」


アナールの声は低く、強張っていた。


「マリア、この三日ずっと家にいたんだ。熱出して寝込んでてさ。昨日も一昨日も、その前も。お前に会ってない」


世界が、ぐらりと傾ぐ。


――三日?


ラミレンの胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


確かに覚えている。

あの声を。あの笑い方を。昨日のこととして。


だが、誰もそれを共有していない。


風が吹き抜け、葉が舞い落ちる。

さっきまで歪んでいた景色は、もう“いつもの校庭”に戻っていた。


アナールはわざとらしくスナック菓子を噛み砕き、

マリアはラミレンの隣に腰を下ろす。けれど、視線だけはまだどこか警戒を含んでいた。


遠目には、ごく普通の三人組。

少し背が伸びて、声が低くなっただけの、どこにでもいる高校生たち。


あの事件から三年。

時間は流れた。

それでも、形だけは、あの頃のままだった。


「なあ」


ラミレンは木の幹にもたれ、空を流れる雲を見上げた。

目の下の隈が濃く、まぶたの奥に影を落としている。


「三年も経ったのにさ。……二人、全然変わってないな」


小さく息を吐く。


「……一緒にいられて、よかった」


マリアとアナールは顔を見合わせ、ふっと笑った。

ぎこちなかった空気が、少しだけ和らぐ。


「変わったって言えばさ」

アナールが水をひと口飲んでから、からからと笑う。

「うちの担任、めっちゃ白髪増えたよな。絶対俺らのせいだろ」


「はは、違いない」


ラミレンも笑い返す。

笑いながら、ふと口にしかけた。


「そういえば……白髪で思い出したけど、ガ先生――」


言葉が、喉で止まる。


脳裏に浮かぶ顔。

厳しくて、でも理不尽なことは言わない人だった。

黒板にチョークを走らせる横顔。


(ガ……ガムザト? ガブリエル?)


「……誰のこと?」


アナールの手が止まる。

ぽかんとした顔でラミレンを見る。


「うちの学校に“ガ”から始まる先生なんていないだろ?」


背筋を、冷たいものが這い上がる。


(いる。いた。俺は知ってる。

 授業も、声も、叱られたことも覚えてるのに――)


「……ごめん。なんでもない」


絞り出すように言う。


怖い。

本当に、怖い。


マリアの眉が寄る。

さっきまでの戸惑いは、いつの間にか心配の色に変わっていた。


「ラミ、今日ちょっと変だよ」

やさしい声。

「寝不足なんじゃない? 最近ちゃんと寝てる?」


「ああ……それだ」


ラミレンはその言葉にすがりついた。


「最近あんま寝てなくてさ。たぶんそれ」


作り笑いを浮かべる。

だが胸の奥で、別の声が囁く。


――違う。

お前は“見ている”。


三人は立ち上がり、並んで歩き出す。

ラミレンだけが、少し後ろを歩いた。


友達の背中が、妙に遠い。


(最近、あの木の下で寝るたびに夢を見る。

 まるで……どこかから呼ばれてるみたいな)


「……なあ」


ラミレンは不意に足を止めた。


前を歩いていた二人が振り返る。


「どうした?」


「俺……あの木の下で、どれくらい寝てた?」


声がかすれる。


体感では、永遠だった。

何度も生まれ変わるほどの時間を、あの夢の中で過ごした気さえする。


「十五分くらいじゃない?」

マリアが首をかしげる。

「正直、全然休めた気しないし」


「……そっか」


ラミレンはうなずき、視線を落とす。


また歩き出す二人の後ろを、靴底を引きずるようについていく。


ほんの短い昼寝。

それだけのはずなのに。


胸の奥には、百年眠っていた者のような疲労と違和感。


帰る場所を間違えた旅人のような、場違いな感覚。


こめかみがずきりと痛む。


崩壊した街。

叫び声。

赤黒い霧。


それらは、今歩いている陽光の道よりも、よほど現実味を帯びていた。


(断片だ。

 誰かの記憶。俺の記憶。どっちでもあって、どっちでもない)


内容は思い出せない。


だが感覚だけが残っている。


痛み。

絶望。

舌の奥にこびりつく、恐怖の味。


「……でもさ」


マリアが歩調をゆるめ、ラミレンの隣に並ぶ。


「なんで、あの木の下なのかな」


そっと、彼の顔を覗き込む。


「ラミ、あそこで寝てるとき……なんか、変な感じなんだよ。

 呼ばれてるみたいっていうか……遠くに行っちゃってるみたいで」


その言葉に。


ラミレンの心臓が、どくん、と強く鳴った。

【後書き】


読んでいただきありがとうございます。


物語は三年の月日を越え、新たな局面に入りました。

ラミレンが直視した「存在しないはずの記憶」と、消えた教師の謎。皆さんは、この世界の違和感の正体についてどう思われたでしょうか?


彼が見ているのは未来なのか、それとも書き換えられた過去なのか……。

皆さんの考察や感想をぜひ聞かせてください。


物語の歯車は、ここからさらに加速していきます。

次回の更新も、よろしくお願いします。

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