第五話:背後の影
『授けられし力の神話百科』
古代の文献には、民間で「力のタリスマン」と呼ばれる品々についての記述が数多く見られる。
伝承によれば、それらこそが“支配する者”と“従う者”との間に明確な一線を引いた存在だという。
それらを巡って、幾世紀にもわたり静かでありながら凄惨な争奪が繰り広げられてきた。
ひとつの遺物は、ある家系にとってはこの上ない恩恵となり、また別の家系にとっては血筋そのものを滅ぼす呪いともなり得たからである。
これらの聖遺物は、血を守り、力を継承するため、父から子へと密かに受け継がれてきた。
動乱の時代にその多くが失われたと一般には考えられているが、別の噂も絶えない。すなわち――今なお秘密結社がそれらの行方を追い続けている、というものだ。
そして最も興味深いのは、遺物は決まった姿を持たないという点である。
気高き聖剣の姿を取ることもあれば、ただの指輪、古びた首飾り、あるいは使い古された革のブレスレットの形をしていることもある。
その莫大な力は、ぼろ布の仮面の下に、静かに眠っているのだ。夕暮れが濃くなっていった。
街灯はまだ灯らず、通りは灰色の靄に沈んでいる。
ラミレンは一人で歩いていた。
いつもは軽いはずのリュックが、今日は肩を地面へ引きずり下ろすように重い。
周囲には人も車も、いつもの生活の音もある。
それなのに彼は、まるで無人島に取り残されたみたいに感じていた。
(父さん……仕事のほうが大事なのかよ。たった五分、息子を迎えに来る時間もなかったのか…)
苦い思いが胸を刺す。
「おい、ラミレン!」
背後から声。
聞き慣れた、毒の混じったセナンの声だった。
ラミレンが振り向きかける。
「また何の用だ――」
言い終わる前に、鈍い衝撃が後頭部を打った。
棒だった。
視界に火花が散り、そのまま暗くなる。
膝が折れ、彼はアスファルトに崩れ落ち、手のひらを擦りむいた。
「押さえろ!」
影から出てきたゲオルギーが命じる。
誰かの手が上着を掴み、引きずる。
アスファルトが、路地裏の汚れた石畳に変わる。
行き止まり。人目のない場所。
壁際に放り投げられた。
ラミレンは頭を振り、耳鳴りを追い払おうとする。
目の前には三人。
もう笑ってはいない。目には制裁への期待が浮かんでいた。
「さてと……」
ゲオルギーが指を鳴らし、口元を歪める。
「さっきの借り、利子付きで返してもらおうか」
最初の拳が腹にめり込み、空気が全部押し出された。
ラミレンは折れ曲がり、空気を求めて口を開く。
「ぐっ……」
「生意気の分だ!」
頬に一発。頭が振られる。
「身の程を知れ!」
反対側からもう一発。
ラミレンは横倒しになり、頭を腕でかばう。
だが押さえつけられ、拳と蹴りが容赦なく降る。
口の中に鉄の味。
切れた唇、噛んだ舌。
(なんでだよ……こんなの……)
その思考だけが、暗闇の中で反響していた。
「覚えとけ、ラミレン」
ゲオルギーがしゃがみ込み、鼻を拭う。
「この世界にお前の望む正義なんてねえ。負け犬は一生負け犬だ。これが運命だ」
思いきり脇腹を蹴る。
痙攣し、ラミレンは血の混じった唾を吐いた。
「行くぞ」
ゲオルギーが背を向ける。
「これで分かっただろ、誰が上か」
セナンだけが残った。
しゃがみ込み、息の荒いラミレンの顔を覗き込む。
「なあ、本気の一対一なら、お前が勝ってたかもな。二年前みたいにさ」
にやりと笑う。
「でも意味ねえだろ? 俺には仲間がいる。お前は泥の中。違い分かるか?」
ラミレンは片目を開けた。
恐怖はなかった。ただ、濃く煮詰めた憎しみだけ。
口の中の血と唾を溜め、
セナンの顔に吐きかける。
「てめえ!!」
セナンが悲鳴を上げる。
「このクソが!」
見えないまま顔面を蹴り飛ばす。
ラミレンの頭が壁にぶつかり、意識が完全に揺らいだ。
「じゃあな、ヒーロー」
笑い声を残し、三人は角の向こうへ消えた。
路地裏は静まり返る。
数分後、ラミレンは歯を食いしばり、起き上がろうとした。
肋骨も顔も、動くたびに痛む。
リュックに手を伸ばすが、指が滑る。力が入らない。
「どうしてだよ……」
片手でようやく肩紐を掴み、よろめきながら路地を出る。
「逃げたのか……卑怯者……」
割れた唇で呟く。
「俺が……やり返してやる……」
世界が白黒に見えた。
(この世界は不公平だ。暴力と残酷さばかりだ。強い奴が弱い奴を食う。
耐えて殴られるだけか……それとも世界そのものに逆らうか)
アナールの本を思い出す。護符の絵。
(あの力があれば……あの不思議な力があれば……この世界を変えてやる。こんな不公平、燃やしてやる)
アパートの階段は山みたいに高く感じた。
血の滴がコンクリートに落ちる。
(ずっと考えてた。でも今は違う。もう我慢しない。変えてやる)
ドアの前に立つ。
いつも明るいはずの目が、暗く沈んでいる。
なぜ自分がこんな目に遭うのか、分からないまま。
震える手でノックする。
ドアが開く。
エプロン姿の母が立っていた。
顔を見た瞬間、彼女は青ざめ、口を押さえた。
「待って……!」
廊下に飛び出し、膝をつきそうになりながら彼の顔を包む。
パンと夕飯の匂いが残る手が震えている。
「誰にやられたの……? ラミレン、こっち見て。誰?」
胸に抱きしめられ、母の心臓の激しい鼓動が伝わる。
涙が首元に落ちる。傷よりも熱い。
(母さんが……泣いてる)
台所ではやかんが鳴り、好物のパンケーキが食卓にある。
なのに世界は崩れていた。
(あいつらは俺だけじゃなく、母さんまで傷つけた)
その思いが胸を締めつける。
彼はそっと、しかしはっきりと母を離し、目を見る。
乾いた目。
「大丈夫だよ、母さん。転んだだけ」
無理に笑う。唇が痛む。
「それとゲオルギーと少し揉めただけ。心配いらない」
嘘だった。重く、粘つく嘘。
「俺もやり返した」
声をひそめる。
「向こうのほうが逃げるの早かったよ。男同士の約束だ。親は出さないってさ……消毒、くれる?」
母は分かっていた。全部。
その夜、彼女は影のようにそばにいた。
傷の手当てをする手はずっと震えていた。
夜、ベッドの中。
隣の部屋から母の泣き声混じりの電話の声が聞こえる。
(涙の分だけ)
彼は誓った。
(必ず償わせる)
数日後。
荒れ地を三人が歩いていた。
彼らは知らない。
見ているのが、もう以前のラミレンではないことを。
手には、節だらけの重い棒。
正々堂々?
そんなもの、卑劣な相手に意味はない。
草むらから飛び出す。
最初の一撃がゲオルギーの膝に入る。
乾いた音。崩れ落ちる。
次々に振り下ろす。
母の涙の分。
割れた唇の分。
校門前の絶望の分。
「やめろ!」
泣き叫ぶセナン。かつて嘲笑っていた顔が、恐怖で歪む。
腕が痺れるまで振り続け、ようやく止まった。
一週間の入院。打撲と脳震盪。
校長室で泣き叫ぶ母親たち。
「怪物」と呼ばれる犯人。
廊下で聞きながら、ラミレンは思った。
安らぎは来なかった。
代わりに、心のどこかが壊れた感覚だけが残った。
(これで帳消しだ……同じことをしただけだ)
だが友の目は違った。
「ラミレン……本当なの?」
マリアが震える声で聞く。
彼は笑った。勝者のように。
「俺が勝ったんだ」
二人は一歩引いた。
ヒーローになりたかった。
だが彼は、恐れられる存在になっていた。
関係は続いた。
でも前と同じではなかった。
「一緒にいた、それが一番大事だった」
現在のラミレンの声が震える。
自分の手のひらを見つめる。
「でも……三年後……全部変わった。永遠に」
【後書き】
読んでいただきありがとうございます。
今回は書いていて胸が締め付けられるような展開でした……。暴力を暴力で返したラミレン。復讐を果たした彼に残ったのは、達成感ではなく、何か大切なものが「壊れた」感覚。母の涙、そして友人たちの怯えた目を見て、彼は何を感じたのか。
そして、物語はいよいよ大きな転換点を迎えます。
「三年後、すべてが変わった」
成長した彼らを待ち受ける運命とは?
次回、物語が大きく動き出します。お楽しみに!




