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第四章:選択

鋭いチャイムの音が教室に鳴り響き、ひそひそ声や教科書の擦れる音をかき消した。

普段は真面目なアナールが、突然ラミレンの机に身を寄せ、肘が触れそうなほど近づいてきた。


「おい、もうチャイム――」

ラミレンは驚いて眉を上げ、言いかけた。


だがアナールは遮るように、声をひそめて内緒話のように囁いた。


「なあ、ずっと聞きたかったんだけど……そのブレスレットのこと」


ラミレンは自分の手首を見た。

くすんだ光を放つ、古い革のブレスレット。


「これ? 一年生の頃からつけてるけど。どうかした?」

突然の関心に首を傾げる。


「いや……別に……ただ……」

アナールは周囲を見回し、さらに身を乗り出して、ほとんど友の耳に鼻が触れそうな距離まで近づいた。

「それってさ、家族の護符なんだろ?」


「まあ、そう言えなくもないな」

ラミレンはブレスレットをくるりと回す。

「親父の、じいちゃんの、その前もそうだったらしい。普通の家宝だよ。学校に行くときに“お守り代わり”だって渡された」


「ふーん……」

アナールは意味深に伸ばした。

その目に、奇妙で、どこか熱に浮かされたような光が宿る。

「じゃあさ……何か特別な力とか……ないの?」


「特別な力?」

ラミレンは、今にも喋り出しそうな顔でブレスレットを見つめた。

擦れた革、古い留め具。

「漫画の読みすぎじゃないか?」

苦笑する。


「違う、聞いてくれ!」

アナールは抑えきれない興奮で早口になった。

「じいちゃんが言ってたんだ……古い伝承さ。

見た目は普通でも、中に力を宿した物があるって。

指輪、ブレスレット、ペンダント……

忘れられた力を持ってて、代々受け継がれるんだ」


ラミレンは半分しか聞いていなかったが、横目で、アナールが震える手でリュックに手を突っ込むのが見えた。


「親はさ、じいちゃんがボケたって言うけど……

子供向けの昔話だって。

でも、俺は信じてる」

ぶつぶつ言いながら、アナールは続ける。

「ほら……これ。

じいちゃんがくれた本なんだ。誰にも見せるなって言われたけど……お前なら、いい」


革表紙の、使い古された本を取り出し、そっと開く。

挿絵だらけのページに、ラミレンは思わず身を乗り出した。


「『アーティファクト百科』……

ここには、持ち主に能力を与えるって書いてある」

アナールの指が行をなぞる。

「ほら、これは転移用。

で……これ、形がさ……お前のに似てないか?」


「……すげぇ」

ラミレンは自分でも驚くほど、引き込まれていた。

絵は古く、文字も奇妙だったが……妙に惹きつけられる。


「まだ全部読んでないけどさ、全部魔法の話だ!

しかも、具体的なんだ!」

アナールの目は輝いていた。


前の席では、マリアが顎を腕に乗せ、二人の様子を見ていた。

会話は聞こえない。

だが、アナールの熱のこもった表情と、真剣なラミレンの横顔は見えた。

それが、彼女には気に入らなかった。

――自分だけ、そこに入れない秘密。


突然、影が机を覆った。

ラミレンが顔を上げる。


腕を組んだ教師が、アナールの真後ろに立っていた。


「アナール。

方程式じゃなくて、ずいぶん熱心に何を話してるのか、みんなにも教えてくれるか?」


雷が落ちたようだった。


アナールは大きく震え、本を落としそうになる。

反射的にパタンと閉じ、リュックに突っ込んだ。


「ぼ、僕たちは……」

顔が真っ赤になる。

頭が必死に言い訳を探す。

本は見せられない。絶対に。


「……女の子の話です!」

パニックのまま、口から飛び出した。


教室が凍りついた。


ラミレンは固まった。

(はあああ?!)


ゆっくり、悪夢の中のように、マリアの方を見る。


――視線が、殺意レベルだった。

十歳の少女の視線は、ときに地面に沈みたくなるほど鋭い。

そこには、嫌悪と、軽蔑と、

「本気?」という問いが混ざっていた。


「ラミレン、それは本当か?」

教師の視線が突き刺さる。


背中に冷たい汗が流れる。

否定すれば、リュックを調べられる。

本は見つかり、秘密は終わりだ。


選択肢はなかった。


ラミレンは、ゆっくり机に額を落とす。


「……本当です」

死刑宣告を受け入れる者の声だった。

マリアの視線が、後頭部を焼くのを肌で感じる。


アナールは大きく息を吐き、今にも机の下に崩れ落ちそうになった。

助かった。


「まったく……」

教師は目を回す。

「そういう話は休み時間にしろ。

今は四十ページ、問題五だ」


残りの授業は霧の中だった。

ノートを見つめながらも、前の席の気配が刺さる。

――ありがとうな、アナール。

ラミレンは、顔を上げられずに心の中で毒づいた。


マリアは待たなかった。

叫びもしなければ、大人を呼びもしない。


助走をつけ、そのままセナンの膝に思いきり蹴りを入れた。

セナンは悲鳴を上げ、ラミレンを掴んでいた手の力が緩む。

その隙に、マリアは全力で彼の背中を突き飛ばした――まっすぐアヴタンディルの方へ。

二人はもつれ合い、そのまま地面に転がった。


自由になったラミレンは、唇の血を手の甲で拭う。

すでにマリアが彼の手を掴んでいた。


「走って!」

彼女が叫ぶ。


そこへアナールも駆け寄る。

三人は一斉に木から離れ、校庭を横切って走り出した。

アナールは本を胸に抱えたまま、必死に後を追う。


「くそガキどもが!」

ゲオルギーが後ろで怒鳴り、ズボンについた草を払おうとする。


アヴタンディルとセナンはうめきながら立ち上がった。


「女があんなふうに殴るなんて……おかしいだろ……」

脇腹を押さえながら、アヴタンディルがぼやく。


「ツケは払わせる。二人ともだ」

ゲオルギーは低く言い放った。


三人が足を止めたのは、学校の門を出てからだった。


校庭はもう静まり返り、最後の生徒たちが小さな流れのように街へ散っていくところだった。


出口のそばには、運転手付きの高級車が停まっている――マリアの家は時間に正確だ。

少し離れた場所には、アナールの祖父の古いセダンも見えた。


「あ、迎え来てる」

見慣れた車に気づき、マリアは二人に頷く。


「俺もじいちゃんが来てる」

アナールはリュックを肩にかけた。


ふと振り返ると、ラミレンはポケットに手を突っ込み、人の流れの向こうをぼんやり見つめて立っていた。


「ラミ、誰か迎え来てるのか?」


「俺は……」

ラミレンは振り向き、人気の減った通りを見渡す。

そこに、自分を待つ顔はなかった。


一瞬だけ、肩が見えない重みで沈む。

だがすぐに、何事もないように背筋を伸ばした。


「たぶん、歩きだな」


声は平静だった。

だがその奥には、冷たくて、慣れきった寂しさが滲んでいた。


「じゃ、また明日な!」

アナールは笑って祖父の車へ走り出しかけ、ふと立ち止まって振り返る。

「ラミレン! 本の続き、絶対読むからな! 明日な!」


「おう」

ラミレンは笑顔を作る。

礼儀だけでできた、意味のない笑顔。


「じゃあな!」

アナールは叫び、古い車の中へ滑り込んだ。


マリアはまだその場に残っていた。

帰ろうとせず、じっとラミレンの顔を見ている。


「ラミ、送っていこうか? うち、たぶん方向同じだよ」


声は静かだが、本気だった。


「いや……いいよ」

ラミレンは気まずそうに後頭部をかく。視線は逸れたまま。


「ラミは嘘つく時か緊張してる時、そこ触るよね」

マリアは淡々と言った。声色ひとつ変えない。

彼女は彼を、まるで本のように読んでいた。


「そこまでバレてんのか……」

ラミレンは苦笑する。

「ほんとに大丈夫。俺、一人に慣れてるからさ。そっちの方が……楽なんだ」


「そっか」

彼女は無理に勧めなかった。ただ頷く。彼の選択を受け入れた。

「じゃあね。帰るね」


「おう」

ラミレンは手を振った。


マリアは黒く磨かれた車へと走っていく。

ラミレンはその背中を見送った。


作り物の笑顔が、ゆっくりと顔から消えていく。

代わりに、深く、重たい溜息がこぼれた。


「……またな」


車のドアが開き、マリアは後部座席にどさっと座り込んだ。


「えっ、お兄ちゃん来てたの?」

驚いた声を上げる。

運転席にはスーツ姿の若い男が座っていた。疲れは見えるが、どこか嬉しそうだ。


「うちのチビは元気か?」

バックミラー越しに妹を見る。


「いつ帰ってきたの?」


「今朝さ。向こうは仕事が山積みだけど、数日だけ家族のところに戻ってきた」

そう言って微笑み、車を発進させる。


兄の視線がふと窓の外へ流れた。

校門のそばに、まだ一人で立っている少年の姿がある。リュックを背負った小さな背中。


「あれ、誰だ?」

興味深そうに尋ねる。

「友達か?」


マリアもその方向を見る。

ラミレンはもう背を向け、ゆっくり歩き出していた。


「ううん」

きっぱりと言う。

「友達以上の存在」


車がわずかに揺れた。

兄はぎょっとして振り向く。


「はあ?! 彼氏とか言わないよな?! まだ十歳だぞお前!」


「ちがうってば!!」

マリアの顔が一気に赤くなる。

「何言ってるのよ!」


腕を組み、窓の向こうで小さくなっていく背中を見つめたまま、声を落とす。


「ただ……守らなきゃいけない気がするの」


兄は前を向き直り、首をかしげた。

その顔には、“まったく理解不能”と大きく書いてある。


「そっか……」

深く息を吐く。

「俺は何十件も事件解決してきたし、犯罪者も山ほど捕まえたけどな……

妹の考えてることだけは、どうしても分からん」


鼻で笑い、アクセルを踏み込む。


車はスピードを上げ、学校を、そして門の外を歩く小さな背中を後方に残して走り去っていった。

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