第十二話:喧嘩
バスのドアが開き、そこへマリアが駆け込んできた。
店に寄っていて遅れたらしいが、どうにか間に合ったようだ。
彼女は車内を見回し、空いている席を探す。
視線が列をなぞる。どこも二人組で座り、騒ぎ、笑っている。
空席は――ない。
ただ一つを除いて。
あの“厄介者”の隣。
マリアは一瞬、唇をきゅっと結んだ。
頭の中で座るべきか、やめるべきかを高速で天秤にかける。だが選択肢はなかった。バスはもう動き出している。
彼女は通路を進み、彼の横で立ち止まった。
「……ここ、空いてる?」
できるだけ目を合わせないように、そっけなく言う。
ラミレンはイヤホンを片方外した。
その声の温度を、ちゃんと理解した上で。
「ラッキーだったな。ここは唯一、誰にも絡まれない席だ」
彼は窓側へ体をずらす。
「座れよ。噛みついたりしない」
「そうだといいけど」
冷たい返事とともに、マリアは座った。
そしてリュックを二人の間に置く。まるで小さなバリケード。
ラミレンは鼻で笑い、再びイヤホンをつけたが、音楽は流さなかった。
はいはい。お姫様が仕方なく平民の隣へ、ってか。別にいいけど。絡んでこなきゃそれでいい。
バスは揺れながら進む。旧市街までは約一時間。
静かな車内で、紙の擦れる音がした。
マリアがスケッチブックと鉛筆を取り出したのだ。
ラミレンは横目でちらりと見る。
好奇心が勝った。
彼女の手は速かった。迷いのない線。
白い紙の上に現れたのは風景――森に囲まれた小さな家。
柵もない。人もいない。
ただ自然と静寂だけ。
ラミレンは、気づけば見入っていた。
技術というより、そこにある空気に。
「……何か用?」
マリアが急に顔を上げる。視線に気づいたのだ。
とっさにスケッチを手で隠す。
「え? いや」
ラミレンはすぐ目を逸らした。
「ただ……いいなって思って」
マリアは疑いの目。
「バカにしてる?」
「してない。マジで」
彼は肩をすくめる。
「普通さ、人とか街とか、うるさいもの描くだろ。でもそれ、静かだ。誰からも隠れて、ただ生きていけそうな家って感じ」
彼は窓の外を流れる車列を見たまま言った。
「こういう静けさ、あんまり見ない。特にこの街じゃな」
マリアはゆっくり手をどけた。
驚きを隠さない目で彼を見る。青い瞳の氷が、少しだけひび割れる。
この人、分かってる……。
みんな『かわいい家だね』とか『上手だね』しか言わないのに。意味を見た……変な人だけど、バカじゃない。
「それ気づいたの、あなただけ」
小さな声で言い、また描き始める。今度は隠さない。
「だいたい皆、地味だって言うの」
「じゃあ、そいつらがバカなんだよ」
ラミレンはぼそっと言った。
「静けさが一番高級品だろ」
沈黙が落ちる。
でもさっきまでの気まずさはない。どこか自然な空気。
リュックの“バリケード”はまだあるが、マリアの肩は少しだけ力が抜けていた。
「あなた、噂ほど怖くないね」
彼女は紙から目を離さずに言う。
「そっちこそ、見た目ほど高飛車じゃない」
ラミレンはニヤッとする。
マリアは小さく鼻を鳴らし、口元に笑いを隠した。
ラミレンはスマホを取り出し、曲を変えようとして――心の中で舌打ちした。
スマホの充電、もうほとんど残ってないじゃん……。
やば。母さんから電話来て出られなかったら、家帰った瞬間処刑だな……。
彼は素早く母親にメッセージを送り、スマホをしまった。
単調なバスの振動とエンジン音がじわじわと意識を鈍らせていく。まぶたが重い。
少しだけ目を閉じるだけのつもりだった。
「起きて! 着いたよ!」
誰かが肩を揺さぶっている。
ラミレンはどうにかまぶたをこじ開けた。
マリアはすでに通路に立ち、リュックを肩にかけている。
「ちょっと、死んでたの?」
声には委員長らしい事務的な調子が戻っていたが、前のような棘はなかった。
「バス、もうみんな降りたよ。残ってたの私たちだけ」
「ん……ああ、今行く」
ラミレンは顔をこすり、眠気を追い払おうとする。
二人は冷房の効いた車内から外へ出た。
途端に、むっとする熱気が全身にまとわりつく。
目の前には旧市街を囲む巨大な城壁がそびえ立っていた。
太陽に熱せられた古い石が、重々しい存在感を放っている。
ラミレンは数歩進んでから、はっとして背中を叩いた。
「リュック!」
「え?」
マリアが振り返る。
「バスに置きっぱなし! 眠すぎて脳みそ止まってた!」
マリアは呆れたように目を回した。
「もー、何やってんの。早く行って! 運転手さん出発しちゃうよ」
腕を組みながら続ける。
「ここで待ってるから。迷子になられても困るし。あとで“委員長がクラスメイトを見捨てた”とか言われたくないしね」
ラミレンは踵を返して駆け出した。
バスに飛び乗り、後部座席に置き去りにしていた自分のバッグをひったくる。
そのまま外へ飛び出した。
「はぁ……間に合った。マリア、行こ——」
言葉が途中で止まる。
マリアはさっきと同じ場所、門の前に立っていた。
だが、一人ではない。
三人の男子が彼女を囲み、校舎へ向かう道を塞いでいる。
ゲオルギ、セナン、そしてアヴタンドル。
ゲオルギはマリアのすぐ目の前に立ち、下卑た笑みを浮かべていた。
その手は彼女の肩に置かれている。遠慮もなく、まるで自分の物のように。
「マリア、マリア……」
ゲオルギの声がラミレンの耳に届く。
「なんであんな変人と座ってたんだ? あいつはハブられ者だぞ。頭もおかしいし。そんなゴミと一緒にいたら、お前の評判まで落ちるだろ」
ラミレンの視線は、マリアの肩に置かれたその手に釘付けになった。
汚れた指先が、彼女の白いシャツの布をつかんでいる。
喉の奥に込み上げる吐き気と、凍るような怒り。
耳鳴りがして、血が一気に頭へ上ったように周囲の音が遠のく。
あの手をへし折りたい。
「だよなぁ」
アヴタンドルがニヤつきながら口を挟む。
「そんなクズとつるんでたら、お前まで同類に見られるぜ」
三人は半円を描くようにマリアを囲んだ。
ラミレンの頭の中で、同じ言葉が鐘のように打ち鳴らされていた。
「行け。あいつらを終わらせろ」
胸の奥がきつく締めつけられる。
これは自分の怒りなのか、それとも外から押し込まれている衝動なのか。
だが三人の姿を見た瞬間、そんな分析はどうでもよくなった。
このまま見過ごすなんて、できるはずがない。
それは闇の囁きのせいだけじゃない。
そういう性分だった。
「お前、優等生だろ。マリア。クラスの誇りってやつだ」
中央に立つセナンがにやつく。
黒い目に浮かんでいるのは、胸糞悪い優越感。
「サボり魔なんかのせいで、自分の評判トイレに流す気か?」
マリアは背筋を伸ばし、アヴタンドルの手を払いのけた。
華奢ではない。芯の強さがある。表情を崩さないよう必死に耐えている。
「誰と座るかなんて、あなたたちに関係ないでしょ。放っておいて」
ゲオルギの笑みが消えた。
歯ぎしりの音が聞こえる。
腕が振り上げられる。
平手か、それとも無理やり腕を掴むつもりか。
「だめだ。あいつに触るな」
体が、思考より先に動いた。
ラミレンは一歩で間合いを詰める。
左足が鋭く跳ね上がり、踵がアヴタンドルの腹にめり込んだ。
短く、重い衝撃。
アヴタンドルはくの字に折れ、そのまま横へ吹き飛ぶ。
同時にラミレンの右手が、振り下ろされる寸前のゲオルギの手首を掴んだ。
左手で反対の手首も取る。
強引に引き上げる。
胸元ががら空きになる。
膝が突き上がった。
鈍い音。
サンドバッグを殴ったような響き。
ゲオルギの目が見開かれ、息が詰まる。
足がもつれ、後ろへよろめいた。
「指一本でも触れてみろ」
ラミレンの声は低く、くぐもっていた。
まるで樽の底から響いてくるような音。自分でもぞっとするほどの冷たさ。
セナンはまだ何もできていなかったが、その声だけで一歩後ずさる。
「お前もだ、セナン。俺のことは好きに言え。けど――」
視線が氷のように凍りつく。
「彼女に手を出したら……潰す。全員だ。クズども」
マリアは胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
その目は驚きで大きく見開かれている。まるで、ラミレンという人間を初めて見たかのように。
「逃げると思ってた……それか、何も言わず黙るって。いつも静かな子だったのに。なのに今は……一瞬であいつらを倒した。私のために?」
ラミレンは荒い呼吸を整えながら、倒れた連中を一瞥し、それから立ち尽くすマリアへ視線を向けた。
「行こう」
手を取ることはしなかった。驚かせてしまう気がしたからだ。
ただ、旧市街の門のほうへ顎で示す。
二人はアーチをくぐり、細い路地が入り組んだ迷路のような街へ足を踏み入れた。
背後の喧騒は遠ざかっていく。
ラミレンは立ち止まり、大きく息を吐いた。
アドレナリンが引いていき、代わりに指先の震えが残る。
「ごめん」
彼は彼女を見ないまま、小さく言った。
「全部、俺のせいだ。きっとお前、これから面倒なことに巻き込まれる。あいつら、もう放っておかない」
リュックの肩紐を直し、そのまま離れようとする。
「俺からは距離取ったほうがいい、マリア。俺はトラブルを呼ぶ人間だ。評判まで悪くする必要ない」
「待って」
マリアの声が、彼の足を止めた。
振り向いたラミレンに向けられた視線は、もう“変わり者を見る目”でも“敵を見る目”でもなかった。
そこにあったのは、今までになかった色。
「違うよ。あなたがいなくても、ああいう人たちはどうせ理由を見つける」
彼女は一歩近づく。
「でも今日は……あなたが守ってくれた」
信じられない、というように小さく首を振る。
「私、あなたのこと誤解してた。噂なんて全部ウソ。あなた、臆病でも変でもない。勇気がある人だよ」
「勇気、ね……」
ラミレンは自嘲気味に笑った。
「たださ、嫌なんだ。理不尽に誰かが傷つけられるの見るのが」
「それを勇気って言うの」
マリアははっきり言った。
「ありがとう。噂なんてどうでもいい」
胸の奥に、忘れていた温度がじんわり広がる。
「気にしないって……? こんなことの後で? みんな俺から離れていくのに。なのに彼女は……まだここにいる」
「……そっか」
ラミレンは息を吐いた。
今度の笑みは、疲れてはいたが本物だった。
「それなら、よかった」
「うん、よかった」
マリアも小さく笑い、それからふっと眉を寄せる。
「でもその前に顔洗ってきなよ。ひどい顔してる」
彼女は路地の先を指さした。
「あそこにお店あるから、水買ってきて。私は先に行って先生に言い訳しとく。えっと……あなたが私の荷物探すの手伝ってくれてた、とかで時間稼ぐから」
【後書き】
読んでいただきありがとうございます。
旧市街への遠足。バスの中での静かな対話から一転、城門の前で待ち構えていたのは最悪の再会でした。
マリアを守るために振るった拳。それは正義なのか、それとも彼の中に眠る「何か」の衝動なのか。
ラミレンの勇気と、彼を真っ直ぐに見つめ始めたマリア。
二人の関係が少しずつ変わり始めましたが、背後では不穏な影が動き出そうとしています。
皆さんは、今回のラミレンの行動についてどう思われましたか?
次回もよろしくお願いします。




