第十一話:正常という幻想
“風の街”。
その街は、美しかった。
「炎の塔」と呼ばれる高層ビル群のガラスに太陽が反射し、旧市街の細い路地には、潮と石油の匂いを帯びた風が吹き抜けていく。
まるでパリとドバイを混ぜ合わせ、そのまま石に閉じ込めたような景色だった。
「きれいだな……」
ラミレンはぼそりと呟く。
「まあ、この完璧な街に不良品が一つだけあるけどな。俺っていう欠陥パーツが」
窓ガラスに映った自分へ、皮肉な笑みを向けた。
黒髪は好き放題にはね、茶色の目は疲れ切っている。
物語の主人公はたいてい“どん底から成り上がる”ものだが、ラミレンの場合は――
(俺は今のところ、どん底に別荘建てて定住中って感じだな)
コンコン、とドアが叩かれた。
鋭く、容赦のない音。
「ラミレン! もう着替えたの? 出る時間よ!」
母の声は、まるで法廷の判決文のようだった。
(最悪だ……)
頭の中で呻く。
(母さんだ。また学校。三か月も行ってないのに。あのクラス嫌いなんだよ。あの視線も、全部)
瞬時に作戦が浮かぶ。
情けなくて臆病な、しかし今の彼にできる唯一の抵抗。
ラミレンは袋のようにベッドへ倒れ込み、布団を鼻まで引き上げた。
ドアが勢いよく開く。
「寝てるの? 入るわよ!」
母は両手を腰に当てて部屋に入ってきた。顔に驚きはない。ただ、いつもの呆れがあるだけ。
「またその手?」
「母さ……ゴホッ、ゴホッ……」
ラミレンは人生最高の病人演技を披露する。
「今日ちょっとヤバくてさ……再発かも。クラスのやつらが言ってたんだ、今“第六段階アルジェリア性腸壊死ウイルス”が流行ってるって……」
ぎゅっと目を閉じ、今にも死にそうな顔を作る。
「ほんとは行きたいんだよ? 見て、ちゃんと制服も着てるし。でも体がさ……あと一週間だけ。治したら絶対行く。誓う」
母は無言でベッドへ歩み寄った。
そして次の瞬間――
布団が一瞬で剥ぎ取られ、部屋の隅へ放り投げられる。
「今まで聞いた中で一番ひどい言い訳ね」
氷のような声。
「三か月よ? 三か月! 昨日、校長先生から電話があったわ。このままだと留年するって。起きなさい」
ラミレンは丸くなろうとしたが、母の拳がぎゅっと握られる。
「起きないなら、何か重いもので目を覚まさせるわよ、このバカ息子。三つ数えるわよ!」
薬より効いた。
体が脳より先に反応し、ラミレンはバネのように跳ね起きる。
(今の反応、なんでこんな速かったんだ……?)
一瞬そんな疑問がよぎるが、母の怒りの前では些細すぎた。
「起きる! 起きるって! 暴力反対! ここ家じゃなくて軍事政権だろ!」
リュックを掴み、靴を引っかけ、廊下へ飛び出す。
母は後ろから監視する看守のようについてくる。
玄関の前で、彼女の表情が急に変わった。怒りが消え、やけに甘い笑顔になる。
「学校、頑張ってね。愛してるわよ、ラミレン」
ラミレンは片方の靴を持ったまま固まった。
(さっきまで俺を殴り殺す勢いだったよなこの人……?)
「……行ってくる。あと弟に言っといて。俺の部屋入ったら殺すって」
「はーい」
軽い返事。
(絶対言わないな。でもあのクソガキ、言われなくても分かってる。入ったら終わりだって)
ラミレンは三階から階段を駆け下りた。
二段飛ばし。軽く、正確な動き。
三か月寝ていた人間とは思えないほど、体はよく動いた。
だが本人は気づかない。
外に出てスマホを取り出す。タクシーアプリには「車両を探しています」の表示。
三十分後、日差しが強くなってきた頃、通知が届いた。
『到着しました。どこにいますか?』
ラミレンは歯を食いしばる。
『は? 建物前って指定しましたよね? どこにいるんですか?』
返事は即座に来た。
『ここにいますよ。あなたがいないんです』
地図を開く。
車は――隣の区画にいた。
『地図見てます? 1キロ離れてますけど。そこ動かないでください、今行きます』
スマホをポケットに突っ込み、早足で向かう。
(最高の朝だなほんと。学校強制送還、弟だけガチで病欠、タクシーは方向音痴。俺、今年のラッキーボーイだわ)
十五分後、汗だくになりながら白いセダンのドアを開ける。
「こっちは地区横断してきたんですけど」
座席に倒れ込むように座る。
「どうやったらこんな迷い方できるんです?」
「あなたが座標を間違えたんでしょう」
運転手は振り向きもせず言い返す。
「はいはい、もういいです。出してください」
(こういうのは無敵なんだよな。常に悪いのは客、ナビ、衛星。自分以外)
やがて車は、古びた四階建ての校舎の前に到着した。高いフェンスに囲まれた、見慣れた場所。
ラミレンは座席に金を放り投げるように置いた。
「どうもありがとうな」
毒を含んだ声で吐き捨て、ラミレンはドアを乱暴に閉めた。
遅刻だった。
それも、どうしようもないレベルで。
「くそ……全部あの“自称シューマッハ”のせいだろ。ちゃんと時間通り出たのに。三か月も休んどいて、復帰初日が堂々の遅刻ランウェイとか……担任の顔、想像できるわ……」
ラミレンは校舎の入口へと駆け出した。
入口の警備員は、面倒くさそうに軽く顎をしゃくるだけ。
「おはようございます!」
走りながら投げるように挨拶する。
三階。階段。
ラミレンは段差を飛び越えながら一気に駆け上がった。
心臓は規則正しく鼓動し、呼吸も乱れない。
(あれ……前は二階で息切れしてたよな)
教室のドアの前で足を止める。
一度息を吐き、ドアを押し開けた。
教室は静まり返っていた。
聞こえるのは、教師の声だけ。席はすべて埋まっている。
「おはようございます……遅れてすみません」
小さくそう言うと、担任がゆっくりと顔を向けた。
視線が頭の先から足元までをなめるように動く。
「まあ、ラミレン君? ようやくご尊顔を拝めるとは光栄ですねぇ」
声は皮肉たっぷりだった。
「大変うれしいですが、ご覧の通り席はありません。突っ立っているか、他のクラスで机と椅子を恵んでもらってきてくださいな」
ラミレンの胸の奥で、鈍い怒りが煮えた。
だがそれは教師個人ではなく、この状況すべてに向いていた。
「じゃあ、そうします。ご親切にどうも」
くるりと踵を返し、ドアを強めに閉めて廊下へ出る。
隣の教室をノックして中を覗くと、そこでは白髪の小柄な女性教師が授業をしていた。
「すみません! 空いてる机と椅子、借りてもいいですか?」
「いいよ、持っていきなさい」
にこやかに頷く。
「ありがとうございます!」
教室の後ろにあった古い机へ歩み寄る。
重そうな、昔ながらの木製机。金属フレーム付き。普通は二人がかりだ。
机の端を掴む。
(重いんだよな、これ――)
持ち上げた。
ふわり、と。
(……軽い?)
ラミレンは無意識のまま、机を片手で持ち上げて脇に抱え、もう片方の手で椅子を掴んだ。
重さは感じる。だが腕は震えない。
まるで、自分の体が記憶よりずっと強くなっているみたいだった。
足で教室のドアを押し開ける。
視線が一斉に集まった。
二十人分の目。
教室の一番後ろまで歩き、ドン、と机を床に置く。
「へえ……」
後方から嘲る声。
ゲオルギーだった。金髪に青い目、自信満々のクラスのボス。
「一人で運べたのかよ? マッチ棒みたいに弱いと思ってたのに。たまにはやるじゃん、ラミレン」
ラミレンは額の汗を拭う。
(俺もびっくりだよ、ゲオルギー。ほんとにな)
「同感だな、ゴーシャ。ていうか、よく顔出せたよな。あれだけ消えてたくせに」
黒髪黒目のセナンが鼻で笑う。ゲオルギーの隣だ。
「ほら、黙ってるぞ。久々に目立ちたかったんじゃね?」
前の席でだらけた姿勢のアヴタンディルが面倒くさそうに言う。
ラミレンはゆっくり椅子を置いた。
(バカ三人衆か……よし、言い返すか。“賢い奴は山に登らない、山を迂回する”って言うけど――誰が俺を賢いって言ったよ)
くるりと振り向き、満面の笑みを浮かべる。
「ビバ、ボバと……セナン。何の用だよ、アホ三人組。てかセナン、お前よくそっち側に落ちたな。昔は俺の友達だったろ? まあ……今は大差ないけどな」
三人の笑みが消えた。
目が冷たく尖る。
「授業終わるまで覚悟しとけよ」
ゲオルギーが低く言い、思いきりラミレンの椅子を蹴った。
椅子の脚がギシリと鳴った。
だがラミレンはまったく動じなかった。
何事もなかったかのように腰を下ろし、挑発を完全に無視する。
(反応はしない。怖いわけじゃないけど、どうせ悪者にされるのは俺だ。余計なトラブルはいらない。
安っぽいドラマの主人公みたいだな。しかも宿敵が世界征服を狙う悪の天才じゃなくて、女子人気ゼロの地元ピエロとか終わってる)
そこへ担任が教室に入ってきた。
パン、と手を叩き、ざわめきを止める。
「はい皆さん……それとラミレン君。今日は嬉しいお知らせがあります」
(“皆さん”と“ラミレン君”分けたな、今)
ラミレンは心の中で目を回した。
「今日は授業はありません。貸切バスで校外学習に行きます。行き先は――乙女の塔です!」
教室が一気にどよめいた。
(歴史は好きなんだけどな……よりによってあの人が教えるってだけでテンション下がるんだよ)
後ろの席から声が飛ぶ。
「えっ、何時間もいるんですか? 旧市街も回ります? それとも塔の中だけ?」
「もちろん散策もしますよ」
担任は眼鏡を押し上げた。
「旧市街を歩きます。迷路みたいな路地ですから、私から離れすぎないように!」
「はぁ? あんなとこ百回は行ってるけど。石しかねーじゃん」
ゲオルギーが足を組んで鼻で笑う。
「あなたが百回行ってても、他の人がそうとは限らないでしょ」
静かな少女の声が教室に通る。
マリアだった。
明るい髪に澄んだ青い瞳。背筋を伸ばし、軽くたしなめるようにゲオルギーを見ている。
ゲオルギーはピクリと反応した。
反論しかけて、やめた。ただ睨み返すだけ。
ラミレンは思わず口元をゆるめた。
(よく言った、マリア。あの顔見るだけでスカッとする)
胸の奥がチクリと痛む。
――前にも見た気がする。
彼女が誰かを言葉でかばう場面。奇妙な既視感。
担任は時計を確認し、窓の外を見る。
「準備して! バスが来ました。裏庭から出ますよ!」
生徒たちは一斉に立ち上がり、リュックを掴む。
担任は廊下に出て列を作らせる。
ラミレンは最後尾についた。
だが運悪く、例の“三馬鹿トリオ”がちょうど前。
(ほら、なんかやってみろ צורдум……ここ人多いし、やり返しても言い逃れできないぞ)
しかし意外にも、三人はおとなしかった。
列はそのまま階段を流れ、陽射しに満ちた校庭へと溢れ出る。
バスはすでにドアを開けて待っていた。
「誰と座る?」「窓側!」と小さな騒ぎが起こる。
ラミレンはわざと人の波が落ち着くのを待ち、最後に乗り込んだ。
ほとんど席は埋まっている。
空いていたのは、車内の一番後ろ、隅の席だけ。
(最高だ)
通路をすり抜けて後部へ向かう。
ちょうどそこで人数を数えていた担任が立ち上がり、運転手の方へ移動した。
その瞬間、ラミレンは素早く窓側の席に滑り込む。
ここなら日差しも直撃しない。
世界から隠れるにはちょうどいい場所。
(ここなら絡まれない。あいつらは遠いし、走行中は席立つの禁止だしな)
【後書き】
読んでいただきありがとうございます。
ラミレンの体に起きている異変、皆さんは気づきましたか?
次回、バスの行方をお楽しみに!




