第十話:壊れた人生
『授けられし力の神話百科事典 ――「見えざる戦争」』
「歴史がスポットライトに照らされた舞台だとするならば、真の権力闘争は常に闇に包まれた舞台裏で行われている。
一般の人々は、タリスマンはとうの昔に失われたと信じている。だが真実を知る者たちは、確かに存在する。古代の年代記は囁いている――秘密結社の存在を。"蒐集者"、"守護者"、そして"狩人"。
彼らの目的はそれぞれ異なる。ある者は世界の理を自らの望む形に作り変えるため、アーティファクトを集めようとし、またある者は人類を不浄なる混沌から守るべく、危険な遺物を隔離しようとする。
これらの組織は、いかなる国家の法律にも縛られない。彼らのエージェントはまるで亡霊のような存在だ。タリスマンの力が目覚める場所に現れては、すべてが終わると同時に跡形もなく姿を消す。
そして彼らには、恐るべき“浄化”の力があると噂されている。禁じられた力に触れた者の痕跡を、この世から完全に消し去ることができるのだ。
彼らにとって、人の命などただの駒に過ぎない。神にも等しい力を巡る、終わりなき戦いの盤上に置かれた、取るに足らぬ代償なのだから。」意識の奥底から、ぼんやりとした影が浮かび上がる。
三人の子ども。
自分と同じ黒髪の少年。
マリアのような明るい髪の少女。
そして、もう一人――
子どもたちの笑い声。
降り注ぐ太陽の光。
この木の下で遊ぶ姿。
まぶしすぎるほどの幸福。目が焼けるような光。
けれど、顔だけが霧に隠れて見えない。
自分がそこにいることは分かる。確かに、あの輪の中にいる。
なのに――
(あの子たちは誰だ?
どうして、こんなに温かいのに……胸が裂けそうになるんだ?)
「全部……霧の中みたいだ……」
ラミレンは自分の手のひらを見つめながら、かすれた声で呟いた。
「まあ……私には関係ないけど」
マリアは鼻で笑い、背を向けて歩き出しかける。
だが、ふと足を止めた。
もう一度彼の方を見る。眉がわずかに上がる。
「顔、どうにかしなよ」
「え?」
「びしょびしょ。泣きながら寝てたの? 早く来なよ、授業始まってる」
ラミレンは頬に触れた。
指先が濡れる。
「……え?」
自分の手についた涙を、信じられないものを見るように見つめた。
悲しいわけじゃない。
ここ数年、強い感情なんてほとんど感じていなかった。
けれど――体が覚えている。
心が忘れた喪失を、体だけが泣いている。
霧の奥の光景がまた揺れる。
笑い声が悲鳴に変わり、
太陽が血の色に染まり、
幸福が恐怖に塗りつぶされる。
(どこから来るんだ、これ……
なんで俺が見る?
覚えてないのに、どうしてこんなに痛いんだ)
「どうして……俺……泣いてるんだ……?」
戸惑いの声が、風に溶ける。
数秒そのまま立ち尽くし、風に涙を乾かさせたあと、
彼は乱暴に袖で顔を拭った。木の根元に置いていたリュックを拾い、マリアの後を追う。
(最近ずっと、この夢を見る……誰かの記憶のかけらみたいなやつ)
前を歩く彼女の背中を見つめる。
ただの学級委員のはずなのに、なぜか胸の奥がざわつく。
(あの光景には光がある。笑顔がある。
なのに、必ずその後に影が落ちる)
思い出していないはずの悪夢が、体の奥にこびりついている。
(いつの出来事なんだ……過去? 未来?
それとも最初から存在しない時間?)
考えは霧の中を泳ぐみたいに鈍い。
細部は何一つ掴めない。ただ感覚だけが残る。
(眠っている間に、別の人生を生きたみたいだ)
ラミレンはうつむいたまま歩く。
(あの中には、確かに幸せがあった。
温かくて、まっすぐな友情があった)
でもそれは、自分のものじゃない。
物心ついた頃から、彼はいつも一人だった。
ずっと、教室の端の影だった。
(じゃあ、あの幸せは誰のだ?
少なくとも、俺のじゃない)
風が吹き、雨の匂いを運んでくる。
(それなのに……どうして俺は、何度もここへ戻ってくるんだ)
振り返ると、あの大きな木が校庭の端に立っている。
枝を広げ、静かに揺れていた。
(家は息が詰まる。壁が迫ってくる。
静かすぎて、心臓の音がうるさい。眠りも浅い)
でもこの木の下では違う。
葉のざわめきを聞いていると、意識がすぐに落ちる。
まるで、ここだけが許された場所みたいに。
(この木が俺を待ってるみたいだ。
ここだけが……俺の居場所みたいだ)
二人は校門を抜ける。
マリアはまっすぐ前を歩く。背筋を伸ばし、この世界にちゃんと属している人間の歩き方。
ラミレンは数メートル後ろを、ゆっくりついていく。
体はここにあっても、心はまだ夢の残骸をさまよっていた。
彼は、彼だけの道を歩いている。
(最近、この夢を見る回数が増えてる……)
遠ざかる彼女の背中を見る。
かつて大切だった気がする誰かの面影が、なぜか重なる。
(全部、あの場所に繋がってる)
深く息を吸い込み、吐く。
(あの木。
あの幻の中では、何かの象徴みたいだった)
けれど今は違う。
(今の俺にとっては……ただの孤独の象徴だ)
それでも。
(あそこにいると、少しだけ落ち着ける。
たぶん……あれが今の俺の、唯一の“友達”なんだ)
暗い布に身を包んだ男が、息を切らしながら走っていた。
周囲には濃密な霧がまとわりつき、音も思考も粘つく靄の中に沈んでいく。
やがて前方、灰色の霞の向こうに、打ち捨てられた小屋の影が浮かび上がった。
男は転がり込むように中へ飛び込み、勢いのまま壁へ向かって駆け寄る。そこには、ひび割れた鏡が掛かっていた。
鏡を覗き込む――だが、何も映らない。
そこにあるはずの顔の代わりに、揺らめく空虚な闇だけが広がっていた。
「まだ……見つからないのかよ……クソッ!」
短く振りかぶり、叩きつけるような一撃。
鏡は甲高い音を立てて砕け散り、飛び散った破片が拳に突き刺さった。
ラミレンはベッドの上で跳ね起きた。
心臓が肋骨を打ち破りそうなほど激しく脈打ち、喉はからからに乾いている。
数秒間、彼はぼんやりと自分の手を見つめた。切り裂かれたはずの拳に血が滲んでいる気がして。
だが指先は無傷だった。
「夢か……」
掠れた声が、静かな部屋に溶ける。
「ずっと見てなかったのに……夢なんて。目を閉じたときに“何かが見える”感覚、もう忘れてたのに」
ラミレンは気だるげに目をこすり、こびりついた眠気を追い払った。
ベッドから抜け出し、慣れた動作で制服のズボンに足を通し、シャツを肩に羽織る。
開け放たれた窓の前に立ち、朝の澄んだ空気を吸い込みながら、ゆっくりとボタンを留めていった。




