第67回 / 素顔のままで(ノーフィルター)
「……本当に、これでいいの? 怒られない?」
ロサンゼルスの丘の上に建つ、隠れ家の高級ヴィラ。
その広々としたリビングで、リビーはスマートフォンを前に躊躇していた。
彼女は今、シャワーを浴びたばかりで、髪は濡れたまま。
着ているのは、例のダボダボのグレーのスウェット上下。
顔にはメイクの一欠片もなく、鼻の頭には小さなニキビさえ見える。
それは、昨日までの「国民的ヒロイン」とは似ても似つかない、どこにでもいる十代の少女の姿だった。
「怒る人などいませんわ」
私はルームサービスのワゴンから、湯気の立つピザ(クアトロ・フォルマッジ、蜂蜜添え)を取り分けながら微笑んだ。
「もし怒る人がいたら、ベルナデットが玄関で『物理的な説得』をしてくださいますから」
「物理的……」
リビーは少しだけ笑った。
昨日の広場での号泣事件以来、彼女の表情は劇的に柔らかくなっていた。
「さあ、ボタンを押して。……世界中の友達が、貴女の『おはよう』を待っていますわ」
「……うん」
リビーは深呼吸をして、配信アプリの「LIVE」ボタンをタップした。
◇
『――あ、つながった? ……聞こえる?』
画面の向こう、全米数千万人のフォロワーが一斉に息を呑んだ。
いつもの完璧なスタジオセットではない。
いつものバッチリメイクと「正義のスマイル」ではない。
自宅のソファで、膝を抱えて座る、スッピンの少女。
コメント欄が、滝のように流れる。
『リビー!?』
『マジでスッピン?』
『大丈夫? 昨日の今日で……』
リビーは流れる文字を目で追いながら、照れくさそうに頭をかいた。
「えっと……おはよう、みんな。リバティ・ガール改め……ただのリビーです」
彼女は画面に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「昨日はごめんね。かっこ悪いとこ見せちゃって。
……でも、あれが本当の私なの。
空も飛べないし、ビームも出せないし、お化け屋敷も苦手な、ただの弱虫」
『そんなことない!』
『謝らないで!』
『今のほうが可愛いよ!』
温かい言葉が溢れる。
リビーは少しホッとしたように、テーブルの上のピザを指差した。
「でね、今日はみんなに報告があるの。
……私、ヒーローを辞めます」
衝撃の宣言。
しかし、彼女の声は明るかった。
「これからは、自分のために生きたいの。
朝はアラームなしで起きて、好きなものを食べて、夜はちゃんと寝る。
……『世界を救う』のはお休みして、『私を救う』ことに専念します」
彼女は熱々のピザを一切れ持ち上げた。
チーズが長く、長く伸びる。
「だから、これが私の『引退式』。
……みんなも、一緒に食べてくれる?」
彼女は大きな口を開けて、ピザにかぶりついた。
ガブッ。
モグモグ。
口の端にチーズがついている。
「……んん〜っ! おいしい~!」
彼女は満面の笑みで、カメラに向かってVサインをした。
それは、計算された角度でも、照明効果でもない。
心の底から湧き上がってきた、純度100%の幸福な笑顔だった。
その瞬間。
インターネットという広大な海に、一つの巨大な波紋が広がった。
『#NoFilter』
『#PizzaParty』
『#RestIsBest(休むのが一番)』
コメント欄が、共感の嵐で埋め尽くされていく。
『私も疲れてたんだ。今日は会社サボる!』
『リビーが食べるなら、俺もダイエットやめるわ』
『スッピン最高! 化粧落としてくる!』
画面の向こうで、何百万人もの人々が、同時に肩の荷を下ろした音が聞こえるようだった。
完璧でなければならない。
強くあらねばならない。
そんなアメリカン・ドリームの呪縛が、一枚のピザと一人の少女の笑顔によって、溶かされていく。
「……すごい」
ソフィアちゃんが、タブレットを見ながら目を丸くしている。
「レティ様。……これ、ただのバズりではありませんわ。
『社会現象』です」
ソフィアちゃんが画面をホログラムで投影した。
「NYの化粧品株が暴落し、代わりに『ルームウェア』と『宅配ピザ』の株価が急騰しています。
さらに、SNS上では『自分のダメなところを晒す』のがトレンド入り。
……『弱さ』が新しい『クール』になりつつあります」
「素敵ですわ」
私は紅茶を啜りながら、ピザを頬張るリビーを見守った。
「人は、誰かが『弱くてもいい』と証明してくれるのを、ずっと待っていたのですわ」
◇
ロサンゼルスの街角。
異変はリアルな世界でも起きていた。
「あー、もう無理! 足痛い!」
ビジネス街の真ん中で、キャリアウーマンが突然ハイヒールを脱ぎ捨てた。
彼女は裸足になり、鞄からスニーカーを取り出して履き替えた。
「上司になんて言われようと知ったことか! 私の足は私のものよ!」
それを見ていた周囲の女性たちも、次々とヒールを脱ぎ始めた。
ネクタイを緩めるサラリーマン。
「営業スマイル」をやめて、仏頂面でコーヒーを飲む店員。
「本日、店主の機嫌が悪いので休みます」という貼り紙を出すカフェ。
街全体の空気が、急速に「弛緩」していく。
ピリピリと張り詰めていた緊張の糸が切れ、だらりとした安らぎが充満し始めた。
「……信じられん」
ベルナデットが、ヴィラのバルコニーから街を見下ろして呟く。
「あの好戦的だったアメリカ人が……骨抜きだ。
まるで日曜日の昼下がりの猫のようだぞ」
「いいえ、骨が抜けたのではありませんわ」
私はベルナデットの隣に立った。
「『鎧』を脱いだだけです。
……中身は柔らかくて、温かい。それが本来の人間の姿でしょう?」
「ふん。……まあ、悪くない眺めだ」
女騎士は、少しだけ口元を緩めた。
リビーの配信は続いていた。
今はフォロワーたちと、「どのアイスが一番美味しいか」で激論を交わしている。
世界を救う話よりも、バニラかチョコかの話のほうが、今の彼女にはずっと重要で、平和な話題だった。
「……さて」
私は空を見上げた。西海岸の青空は、どこまでも澄み渡っている。
LA攻略、完了。
虚飾とプレッシャーの街は、素顔と本音の街へと生まれ変わった。
しかし。
光が強くなれば、影もまた濃くなる。
「……レティ様」
マリアが静かに近づいてきた。その表情は硬い。
「ワシントンD.C.より、不穏な動きが確認されました」
「例の大統領?」
「はい。……彼、激怒しているようです」
マリアが端末を操作し、衛星映像を映し出した。
アメリカ東部、首都ワシントン。
その中心にあるホワイトハウスの芝生が、割れていた。
地下からせり上がってくるのは、巨大な発射台。
そして、そこにセットされているのは、核ミサイルではない。
もっと歪で、個人的な執念の塊のような物体。
「……なんだあれは?」
レンが覗き込む。
それは、黄金に輝く巨大な人型兵器だった。
高さ十メートル。
全身に星条旗のペイント。右肩には鷲のエンブレム。
そして左肩には、『MAKE ME STRONG(僕を強くして)』という、悲痛なスローガンが刻まれている。
「……『ゴールデン・イーグル』」
ソフィアちゃんがデータを読み上げる。
「大統領専用・対全肯定決戦兵器。
あらゆる『甘え』を検知し、筋肉増強剤とエナジードリンクを散布しながら、強制的に国民を『努力』させる機能があるようです」
「……バカなの?」
レンが真顔でツッコミを入れる。
「ええ、大バカですわ」
私は扇を開き、その黄金の巨像を見つめた。
「でも、愛すべきバカです。
……自分の弱さを認めるのが怖くて、あんな巨大な殻に閉じこもってしまった」
大統領スティーブ・ストロング。
彼は今、この国でたった一人、「NoFilter」の波に乗れず、取り残された迷子なのだ。
国民みんなが「弱くていいよ」と言い合っている中で、彼だけが「強くあれ!」と叫び続けなければならない孤独。
「行きましょう。……彼が一番、泣きたがっているはずですわ」
私は振り返り、ピザを食べているリビーに声をかけた。
「リビー。……少し遠出をしますけど、ついて来てくれる?」
「え? どこへ?」
「ホワイトハウスへ。
……貴女の『元・上司』に、ピザの美味しさを教えてあげに行かなくては」
リビーはきょとんとしたが、すぐにニカっと笑った。
「うん! あのおじさん、いつも眉間に皺寄せてて怖かったけど……ピザ食べたら笑うかな?」
「ええ。笑わせましょう。……お腹がよじれるくらいにね」
『クイーン・レティーティア号』のエンジンが唸りを上げる。
目指すは東。
アメリカ合衆国の心臓部であり、最後の砦。
そこには、世界最強の軍事力と、世界一脆いメンタルを持つ男が待っている。
甘い革命の最終章。
「筋肉」対「脂肪」。
「努力」対「惰眠」。
仁義なき甘やかしバトルの幕が上がる。
「マリア。……戦艦級のプロテインスイーツの準備を」
「畏まりました。……筋肉ごと溶かして差し上げます」




