第66回 / ヒーローだって泣きたい
「――緊急指令! 緊急指令! リバティ・ガールは直ちに出動せよ!」
ロサンゼルスの上空、けたたましいサイレンと共に、黒塗りの軍用ヘリが数機、低空飛行で旋回していた。
ワイドショーでの騒動から数日。
リビーは少しずつ心を取り戻し始めていたが、国家という巨大なシステムは、一度噛み付いた獲物をそう簡単には逃がさなかった。
ダウンタウンの広場。
そこには、急造された「戦闘セット」が組まれていた。
燃え上がる炎(ガスバーナーによる演出)、逃げ惑う市民、そして中央で暴れる巨大な怪人(着ぐるみ)。
「さあ、行けリビー! 大統領命令だ!」
「支持率が下がっている! 派手な勝利で国民を安心させろ!」
政府の役人たちが、リビーの背中を無理やり押す。
彼女は再び、あの窮屈な赤と青のコスチュームを着せられていた。
しかし、その表情は以前のような「作り笑い」ですらない。死刑台に向かう囚人のように蒼白で、震えていた。
「……嫌……。もう、戦いたくない……」
「甘えるな! 契約書を忘れたか? 君は合衆国の所有物だ! 戦わなければ国家反逆罪だぞ!」
役人の怒声が飛ぶ。
広場の周囲には、カメラクルーと野次馬が集まっている。彼らは期待と不安が入り混じった目で、英雄の到着を待っていた。
「……酷い見世物ですわね」
ビルの影から、私はその光景を見つめていた。
手には扇、隣には剣呑な空気を纏うベルナデット。
「あの怪人……中に入っているのは、ただの失業者だぞ」
ベルナデットが看破する。
「動きが素人だ。それに、腰を庇っている。……金のために汚れ役を引き受けたのだろう。弱者同士を戦わせて、それをショーとして消費する……腐りきっているな」
「ええ。……終わらせましょう。この茶番劇を」
◇
リビーはふらつく足取りで広場の中央へ進み出た。
怪人役の男が、台本通りに唸り声を上げ、棒きれを振り回す。
「グオォォ! 正義の味方め、叩き潰してやる!」
男の声も震えている。
彼はリビーを傷つけたくないのだ。ただ、演出のために殴るフリをしなければならない。
「……戦え! 何をしている、レーザーを出せ!」
役人の指示がインカムから響く。
「……できない……」
リビーはその場に膝をついた。
「……ごめんなさい……。私……もう……」
彼女は顔を覆って泣き出した。
ヒーローが、敵の前で戦意喪失して泣く。
それは、アメリカという国において、最もあってはならない「敗北」の姿だった。
「カット! カットだ!」
役人が激昂して走り寄ってくる。
「ふざけるな! この役立たずめ! 全米生中継だぞ! 立って戦え!」
役人がリビーの腕を掴み、無理やり立たせようとする。
さらに、怪人役の男に向かって怒鳴る。
「おい、お前もだ! 本気で殴れ! 危機感を煽るんだよ!」
「で、でも……こんな女の子を……」
「やれと言ったらやれ! ギャラが欲しくないのか!」
非情な命令。
怪人役の男が、苦渋の表情で棒を振り上げた。
リビーは抵抗もせず、ただギュッと目を閉じて、痛みを待った。
その時。
ガキィィン!!
重い金属音が広場に響き渡った。
振り下ろされた棒は、リビーに届く前に、閃光のように割って入った一本の「剣」によって受け止められていた。
「……え?」
リビーが目を開ける。
目の前に立っていたのは、漆黒のドレスに身を包んだ、鋼鉄の騎士――ベルナデットだった。
「……弱い者いじめは、私の騎士道に反するのでな」
ベルナデットは手首を軽く返し、怪人の棒を弾き飛ばした。
そして、役人を睨みつけた。
「ひっ……! な、何だ貴様は!」
役人が腰を抜かす。
「通りすがりの保護者だ」
ベルナデットはリビーを背に庇い、広場の中心で仁王立ちになった。
その圧倒的な武圧に、SPたちも動けない。
そこへ、優雅な拍手の音が降ってきた。
「素晴らしい防御でしたわ、ベルナデット」
空から舞い降りたのは、私と、ジェットパックを背負ったレン、そしてソフィアちゃん。
私はリビーの隣に降り立ち、彼女の涙を指先で拭った。
「……レティさん……」
「ごきげんよう、リビー。……また、悪い大人たちに捕まってしまったのね」
私は役人たちに向き直った。
「合衆国政府の皆様。……彼女は故障中ですわ。
無理やり動かせば、二度と使い物にならなくなりますよ?」
「だ、黙れ! これは国家の威信がかかっているんだ!
彼女は象徴だ! 強くなければ意味がない!」
「象徴? ……いいえ、ただの『拘束具』ですわ」
私はリビーのコスチュームに手を触れた。
テカテカしたラバー素材。身体のラインを強調し、関節の動きを制限する、見世物のための衣装。
首元のチョーカーには、GPSとバイタルセンサーが埋め込まれている。
「リビー。……これ、苦しいでしょう?」
「……うん……。息ができないの……。
……私が泣くと、チョーカーが赤く光って……本部が怒るの……」
「かわいそうに。……呼吸さえ管理されていたのね」
私は扇を閉じた。
その先端には、レンが開発した小型の魔導カッターが仕込まれている。
「脱ぎなさい。……今ここで」
「え……? で、でも……これを脱いだら、私はただの……」
「ただのリビーになれるわ」
私は彼女の背中に回り、ファスナーに手をかけた。
「世界を守るのは、もう十分よ。
……これからは、自分自身を守りなさい」
ジジジッ……。
硬いファスナーが下りる音。
それは、彼女を縛り続けてきた鎖が解ける音だった。
「……っ……!」
リビーが大きく息を吸い込んだ。
肺いっぱいに空気が入ってくる。
センサーの警告音が鳴り響くが、私は構わずにチョーカーを引きちぎった。
パチン!
赤い点滅が消え、センサーが地面に転がる。
リビーはコスチュームを肩から脱ぎ捨てた。
下に着ていたのは、先日私がプレゼントした、何の変哲もないコットンのキャミソールと、スウェットパンツ。
「……あ……」
彼女は自分の身体を抱きしめた。
柔らかい布の感触。
締め付けのない、自由な肉体。
「……軽い……。体が……軽いよ……」
「ええ。……それが、貴女の本当の重さよ」
私はマリアから、大きめのカーディガンを受け取り、彼女の肩に掛けてあげた。
リビーはそれを羽織り、深く、深く安堵のため息をついた。
その姿は、全国中継のカメラによって、アメリカ全土に配信されていた。
最強のヒーローが、装備を捨て、ジャージ姿で泣きじゃくる姿。
それは「敗北」ではなく、「解放」の瞬間として映し出された。
「……ふざけるな!」
役人が絶叫する。
「契約不履行だ! 賠償金を払え! 君はもう終わりだ!
ただの一般人に戻って、誰が君を愛すると思っているんだ!」
「愛しますわよ」
私が即答する。
「私が愛します。……そして、ここにいる皆さんも」
私は周囲の野次馬や、怪人役のエキストラたちを見渡した。
彼らは、失望していなかった。
むしろ、ホッとしたような、優しい顔でリビーを見ていた。
「……お嬢ちゃん。……よく頑張ったな」
怪人役の男が、着ぐるみの頭を外して言った。
汗だくの、疲れたおじさんの顔だった。
「俺も……本当は殴りたくなかったんだ。……痛かったろ、ごめんな」
「……ううん。……おじさんも……お疲れ様……」
リビーが笑った。
その笑顔は、かつての「作り込まれた営業スマイル」ではなく、涙でぐしゃぐしゃになった、不細工で、とびきり人間らしい笑顔だった。
その瞬間。
広場のあちこちから、拍手が起こった。
パチ、パチ、パチ……。
それは次第に大きくなり、やがて大歓声へと変わった。
「リビー! ゆっくり休め!」
「そのジャージ、可愛いぞ!」
「俺たちも疲れた! 今日はもう解散だ!」
カメラの向こうの視聴者たちも、同じ気持ちだったはずだ。
完璧な超人よりも、泣いて、弱音を吐いて、ジャージで笑う彼女の方に、自分たちの姿を重ねたのだ。
「……な、なんだこれは……」
役人が呆然とする。
「国民は……強いアメリカを求めているはずじゃ……」
「国民が求めているのは、『強がり』ではありませんわ」
ソフィアちゃんが、役人の目の前に視聴率データを突きつけた。
「見てください。……リビーさんが脱いだ瞬間、支持率が爆上がりしています。
……『弱さの開示』こそが、最強の共感コンテンツなのです」
「……バカな……」
役人は膝から崩れ落ちた。
彼の信じてきた「力こそ正義」という神話が、一人の少女の涙の前に敗北したのだ。
「さあ、リビー。……帰りましょうか」
私は彼女の手を引いた。
「今日の夕食は、貴女のリクエストにお応えして、ジャンクフードのフルコースですわよ」
「……うん! ピザがいい! Lサイズの、チーズたっぷりのやつ!」
「ふふ。……胃薬も用意しておきますわ」
私たちは、歓声と拍手に送られながら、広場を後にした。
地面には、脱ぎ捨てられた赤と青のコスチュームが、抜け殻のように残されていた。
それは、アメリカが背負ってきた「過剰な正義」の残骸のようにも見えた。
リムジンの中。
リビーはカーディガンにくるまり、窓の外を流れるLAの街並みを眺めていた。
もう、彼女を縛るものはない。
看板の中のリビーは笑っているが、ここのリビーは、あくびをしている。
そのあくび顔こそが、彼女が勝ち取った最大のトロフィーだった。
しかし。
平和な時間は長くは続かない。
『――緊急入電』
マリアの持つ端末が、不穏な赤色に点滅した。
「……レティ様。ホワイトハウスより、最高レベルの警戒警報です」
「……何が起きたの?」
「ストロング大統領が……『ヒーローの消滅』を受けて、暴走を開始しました。
……彼自身が開発した対・全肯定決戦兵器『ゴールデン・イーグル』を装着し、自らこちらへ向かってきているそうです」
「あらあら」
私はため息をつきつつ、少しだけ口元を緩めた。
「ついに、親玉のお出ましですわね」
リビーがいなくなったことで、大統領の孤独と恐怖は頂点に達したのだろう。
「誰も守ってくれないなら、俺がやるしかない」という、悲しい暴走。
「迎え撃ちましょう。……いいえ、迎え入れましょう」
私はリムジンの行き先を変更させた。
向かうは、決戦の地となるであろう、砂漠のど真ん中。
そこで、世界一強がりな迷子を、全力で甘やかし倒すために。
「マリア。……史上最大級のコタツの準備を」
「畏まりました。……核シェルター並みの耐久性を持つ特注品を展開します」




