第22話 膝枕という名の断頭台
玉座の間を照らすのは、天井の大穴から降り注ぐ蒼白い月光だけだった。
かつて「鉄の女」「氷の王妃」と恐れられた王国の支配者、ヒルデガルド様は今、私の太腿の上で、生まれたての仔猫のように丸くなって眠っている。
「……すー……すー……」
規則正しい寝息。
彼女の頬には涙の跡が残り、乱れたプラチナブロンドが私のドレスのシルクに散らばっている。
私はその髪を、一本一本指で梳きながら、静寂の味を噛み締めていた。
嵐の後の空気は、どこか洗い立てのシーツのような、清潔で少し湿った匂いがする。
「……レティ様」
瓦礫の陰から、ソフィアちゃんがおずおずと歩み寄ってくる。
その後ろには、剣を下げたベルと、目を丸くしたレン、そして祈るように手を組んだエレナ。
彼女たちは、目の前の光景――「王妃が仇敵(だと思っていた相手)に膝枕されている図」を、どう処理すべきか戸惑っているようだ。
「しーっ」
私は人差し指を唇に当てた。
「起こさないであげて。……今、やっと『女の子』に戻ったところなのだから」
「……信じられませんわ」
ソフィアちゃんが声を震わせる。
「あのお母様が……こんなに無防備な顔で……。わたくし、生まれて初めて見ました」
「そうでしょうね。彼女はずっと、鎧を着て寝ていたようなものだもの」
私はヒルデガルド様の額に、そっと手を当てた。
熱はない。魔力暴走による熱暴走は収まり、今は心地よい疲労感だけが彼女を支配している。
「……ん……ぅ……」
私の指の冷たさに反応したのか、ヒルデガルド様の瞼が微かに震えた。
長い睫毛が揺れ、氷色の瞳がゆっくりと開かれる。
焦点が合わない瞳が、虚空を彷徨い、やがて私の顔を捉えた。
「……てん、ごく……?」
「いいえ。ここは『断頭台』の上よ」
私は微笑んで告げる。
「断頭台……?」
彼女の意識が急速に覚醒する。
背中の感触。頭の下にある柔らかさと温もり。そして、至近距離にある私の顔。
彼女は状況を理解し――ガバッと跳ね起きようとした。
「なっ、き、貴女……ッ! 無礼な! 私の頭を、あろうことか太腿になど……!」
「動かないで」
私は彼女の肩を、優しく、しかし絶対的な力で押し戻した。
今の彼女に抵抗する体力はない。彼女は再び、私の膝の上へと沈み込む。
「離しなさい! 王妃である私が、こんな恥ずかしい……!」
「刑の執行中よ」
「は……?」
「貴女には罰が必要です。……一人で頑張りすぎた罪。誰にも頼らず、自分を粗末にした罪。……その罪を償うまで、この『膝枕』という断頭台から降りることは許されません」
元・天才令嬢の屁理屈。
「王妃としてのプライド」を傷つけずに甘えさせるには、「罰」という名目を与えるのが一番効果的だ。
罰なら仕方がない。不可抗力だもの。
「……罰、だと……?」
「ええ。刑期は、貴女の心拍数が平常値に戻り、マリアのホットミルクを飲み干すまで。……それまでは、私が貴女の頭(思考)を切り落とします。余計なことは何も考えず、ただ撫でられていなさい」
私は再び、彼女の髪に指を通した。
頭皮をマッサージするように、優しく、リズミカルに。
そこには数多くのツボがあり、刺激することで強制的に副交感神経を優位にさせる。
「あっ……んぅ……」
ヒルデガルド様の口から、甘い声が漏れる。
抗議しようとした唇が、快楽に負けて緩む。
彼女の体から、力が抜けていく。
「……卑怯よ、貴女は……」
「最高の褒め言葉ですわ」
彼女は観念したように目を閉じた。
その目尻から、また一筋の涙がこぼれ落ちる。
それは、敗北の涙ではない。重すぎる王冠を下ろした、安堵の涙だ。
◇
「……お母様」
ソフィアちゃんが、一歩前に出た。
ヒルデガルド様が目を開け、娘を見る。
いつもなら「勉強は終わったのですか」「背筋を伸ばしなさい」と叱責が飛ぶ場面だ。娘の体が一瞬、条件反射で強張る。
けれど、今のヒルデガルド様は、膝枕されたままの無防備な姿。
威厳など欠片もない。
「……ソフィア」
王妃の声は掠れていた。
「……見ていたのね。私の、無様な姿を」
「……はい。見ておりました」
「幻滅したでしょう。……国を守るべき母が、こんな……」
王妃が自嘲気味に視線を逸らす。
ソフィアちゃんは首を横に振った。
そして、瓦礫を踏み越えて、私たちのそばまで駆け寄ると――ドサリと膝をつき、母親の手を握りしめた。
「幻滅など、いたしません!」
「……え?」
「わたくし、初めて……お母様が『人間』に見えました。……いつも遠くの玉座から見下ろすだけの銅像ではなく、血の通った、温かい人間なのだと……」
ソフィアちゃんの手が、王妃の手を強く握る。
その手は、インクと努力の証であるペンダコで硬くなっている。
「お母様。……わたくしは、完璧な王妃様よりも、レティ様の膝で泣いているお母様のほうが……ずっと、ずっと好きですわ!」
直球の告白。
ヒルデガルド様の目が大きく見開かれる。
娘に「好き」と言われたことなど、今まで一度もなかったのだろう。恐怖で支配していた代償として。
「……好き、だと……? こんな、弱い私を……?」
「ええ! 弱くてもいいではありませんか! ……わたくしだって弱いですもの! レティ様に甘やかされないと立っていられないくらい!」
ソフィアちゃんが私のほうを見て、ニカッと笑う。
開き直った凡人は強い。
「だから、一緒に甘えましょう? ……お母様も、レティ様の『子供』になりましょうよ」
「……子供に、なる……?」
王妃が呆然と私を見上げる。
私はニッコリと頷いた。
「ええ。定員に空きはありますわ。……マリア、ベル、レン、エレナ、ソフィアちゃん。そしてヒルデガルド様。……六人目の娘(迷子)として、歓迎いたします」
「……馬鹿なことを。私は貴女より年上よ……」
王妃は憎まれ口を叩こうとしたが、その声は震えていた。
そして、娘の手を――ぎこちなく、けれど確かに握り返した。
「……ごめんなさい、ソフィア。……寂しい思いをさせて」
「……はい。寂しかったですわ。だから、これからは倍にして返してくださいませ」
母と娘の、十数年越しの和解。
茨が消えた玉座の間に、温かい空気が満ちていく。
これで一件落着――と言いたいところだけれど。
「――何事だ、これは」
重厚なバリトンボイスが、入り口から響いた。
場の空気が凍りつく。
そこに立っていたのは、金糸の刺繍が入ったマントを翻し、近衛騎士団を引き連れた壮年の男性。
威厳ある髭と、王冠。
この国の最高権力者、国王陛下その人だった。
「へ、陛下!? 遠征からのお戻りは来週のはずでは……!?」
ベルが驚愕し、即座に臣下の礼を取る。
レンとエレナも慌てて頭を下げる。
国王陛下は、崩壊した玉座の間と、その中心にいる私たちを見て、目を丸くしている。
「王都の方角に異様な魔力を感じ、急ぎ戻ってみれば……城は半壊、玉座は瓦礫の山。……そして、我が妻は……」
陛下の視線が、私の膝の上に固定される。
そこには、敵(私)に膝枕され、娘に手を握られ、涙目で赤くなっている王妃様の姿。
客観的に見れば、クーデターにより王妃が拘束され、辱めを受けている図に見えなくもない。
「……ヒルデガルド?」
陛下が低い声で呼ぶ。
王妃様がビクリと震え、私の膝から飛び起きようとする。
「あ、貴方……! ち、違うのです、これは……その……!」
夫に見られた。
鉄の女としての威厳が、完全に粉砕された瞬間。
彼女の顔が、羞恥で茹で蛸のように真っ赤になる。
「ご、誤解しないでください! 私は決して、政務を放棄して遊んでいたわけでは……! これは、その……!」
パニックになる王妃様。
このままでは、彼女の尊厳(残りHP1)がゼロになってしまう。
私は助け舟を出すことにした。
「ごきげんよう、陛下。……お帰りなさいませ」
私は座ったまま(膝の上に王妃様を乗せたまま)、優雅に会釈した。
「……ローゼンタール夫人か。……説明してもらおうか。余の妻に何をしている」
陛下の目に、剣呑な光が宿る。
当然だ。愛する妻が、訳のわからない女に制圧されているのだから。
「治療ですわ」
「治療?」
「ええ。……ヒルデガルド様は、国のために働きすぎて、『ガス欠』を起こされましたの」
私は王妃様の肩を抱き寄せた。
「陛下がご不在の間、彼女がどれほど一人で耐えていたか、ご存知ですか? ……この『充電』は、夫である貴方様がすべき役目でしたのに。……サボっていらしたツケを、私が払っているところです」
「……なっ」
私の不敬極まりない物言いに、近衛騎士たちが色めき立つ。
けれど、陛下は動かなかった。
彼の視線は、私の言葉ではなく、妻の顔に向けられていたからだ。
今まで見たことのない、弱々しく、けれど人間らしい表情の妻。
鎧を脱ぎ捨て、ただの女性として震えている妻。
「……ヒルデガルド」
陛下は剣を預け、瓦礫を踏み越えて歩み寄ってきた。
王妃様が身を竦める。
「……申し訳ありません、貴方……。私は、王妃失格です……。こんな……」
「……すまなかった」
陛下は、王妃様の前に片膝をついた。
そして、彼女のもう片方の手を、両手で包み込んだ。
「……気づいてやれなくて、すまなかった。……君が強いから、つい甘えてしまっていた。……君にも、泣く権利があることを忘れていた」
「……っ……」
「王妃失格などではない。……君は、世界一立派な王妃で、そして……私の愛しい妻だ」
陛下が、王妃様の手の甲にキスをした。
その瞬間、王妃様の顔から最後の「王族の意地」が消え去った。
「……う、ああぁぁ……っ!」
彼女は今度こそ、声を上げて泣いた。
右手を娘に、左手を夫に握られ、頭は私の膝の上。
完璧な「包囲網」の完成だ。
「……やれやれ」
私は三人の家族団欒(?)を見守りながら、マリアに目配せした。
マリアが心得たように、バスケットから新しいカップを取り出す。
そこには、王家三人分と、私たちの分の温かいお茶。
「陛下。……積もる話もおありでしょうが、まずはお茶にしませんか? ここは少し風通しが良すぎますが、月見には最高のロケーションですわ」
私の提案に、陛下は涙ぐむ妻を見て、困ったように、しかし優しく笑った。
「……そうだな。……レティーティア殿。……感謝する。余の妻を……『人間』に戻してくれて」
「お礼には及びませんわ。……請求書は、カボチャのスープ一杯で結構です」
こうして。
国を揺るがした「王妃暴走事件」は、王城の玉座の間で開催された、奇妙なパジャマパーティーによって幕を閉じた。
瓦礫の上で車座になり、お茶を飲む国王一家と、ハーレムメンバーたち。
それは、歴史書には決して載らないけれど、この国の歴史が「恐怖」から「愛」へと転換した、革命的な夜だった。
けれど、私の太腿の上から王妃様が退いてくれないのは、少し計算外だったかもしれない。
「……もう少し、このままで」と呟いて、夫が来てもなお、私の膝にしがみついているのだもの。
陛下が少し嫉妬した顔をしているけれど……まあ、早い者勝ちということで諦めていただきましょう。
「……レティ。私のこと、これからも甘やかしてくれる?」
王妃様の上目遣い。破壊力抜群だ。
私は彼女の髪を撫でながら、悪魔のように甘く囁いた。
「ええ、もちろん。……一生、骨抜きにして差し上げますわ」
これが、私の甘い断頭台による、幸福な処刑の完了報告である。




