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第21話 茨の中で泣く少女

玉座の間は、物理法則が捻じ曲がった異界と化していた。

天井は吹き飛び、夜空が見えるはずの場所には、どす黒い魔力の渦が巻いている。床からは無数の黒い茨が生え出し、それが玉座を中心にまゆのように絡みついていた。


その中心。

茨の玉座に縛り付けられるようにして、ヒルデガルド様は座っていた。

かつて完璧に結い上げられていたプラチナブロンドは乱れ、豪奢なドレスは引き裂かれている。

けれど、何よりも痛々しいのは、彼女の表情だった。

目は虚空を見つめ、口元は引きつった笑みの形で固まっている。


『……来ないで』


声ではない。

空気が振動し、直接脳内に響く拒絶の思念。

宝珠の魔力が彼女の深層心理を増幅し、垂れ流しているのだ。


「……お邪魔しますわ、ヒルデガルド様」


私はドレスの裾を持ち上げ、茨の森へと足を踏み入れた。

ピシ、と足元の空間に亀裂が入る。

世界が揺らぐ。

これは物理的な攻撃ではない。彼女の記憶と感情が、私の精神に干渉してきている。


(……あら。招待してくれるのね)


天才と称された私の共感能力エンパシーが、彼女の氾濫する情報の波に同調リンクする。

視界が白く明滅し、私の目の前に「彼女が見ている世界」が映し出された。


***


そこは、色褪せたセピア色の庭園だった。

手入れの行き届いた、けれど一本の雑草も許さない、息苦しいほどの完璧な庭。


『ヒルデガルド。背筋を伸ばしなさい』

『お前は王妃になるために生まれたのだ』

『感情など捨てなさい。人形のように美しく、賢くあれ』


顔のない大人たちの声が、上から降り注いでいる。

庭の真ん中に、小さな少女が立っていた。

幼い頃のヒルデガルド様だ。

彼女は大きなリボンをつけ、高価なドレスを着せられているが、その瞳は死んだように光がない。


彼女の足元には、一輪の薔薇が落ちていた。

彼女がこっそり育てていたのであろう、少し形の悪い、けれど一生懸命に咲いた赤い花。


雑草ムダにかまける時間などない』


無慈悲な声と共に、大人の革靴がその花を踏み潰す。

グシャリ。

少女の肩がビクリと跳ねる。けれど、彼女は泣かなかった。

泣くことすら許されていなかったから。


『……はい、お父様』


彼女は壊れた花を見ないようにして、完璧なカーテシーをした。

その瞬間、彼女の心の中に、最初の「茨」が芽吹いたのが見えた。

痛みを隠すための棘。自分を守るための壁。


場面が変わる。

煌びやかな結婚式。隣に立つのは、若き日の国王陛下。

彼は優しげだが、どこか頼りない瞳をしている。


『君がしっかりしていて助かるよ』

『国政は任せた。僕は遠征に行ってくる』


夫からの信頼。それは聞こえはいいが、実態は「責任の丸投げ」だった。

彼女は一人で執務室に座り、終わりのない書類の山と格闘する。

夜が来るたびに、茨は太く、鋭く成長していく。

『寂しい』と言えば、国が傾く。

『辛い』と言えば、敵につけ込まれる。

だから彼女は、鉄の仮面を被った。


「……可哀想に」


私は記憶の中の、執務室で一人うずくまる彼女に近づいた。

彼女は誰にも聞こえない声で、ずっと叫んでいたのだ。


『誰か、私を見つけて』

『誰か、私を褒めて』

『王妃としてではなく……ただの私を』


けれど、誰も気づかない。

娘のソフィアちゃんでさえ、その完璧な仮面に恐れをなして逃げ出した。

彼女は玉座の上で、世界一孤独な迷子になっていた。


***


「……見つけたわ」


現実世界。

私は玉座の目の前、数メートルの距離まで肉薄していた。

ヒルデガルド様の虚ろな瞳が、私を捉える。


「……見るな!!」


彼女が絶叫した。

ドォォォン!!

玉座から黒い衝撃波が放たれる。

物理的な突風。私の体は紙切れのように吹き飛ばされそうになる――が。


「痛いのは、貴女のほうでしょう?」


私は踏みとどまった。

ヒールを床に食い込ませ、衝撃を真正面から受け止める。

ドレスの袖が裂け、頬に切り傷ができる。

けれど、私は一歩も退かない。


「来ないで! 私の中に入ってくるな! 私は……私は完璧な国母でなければならないの! 弱さなどあってはならない!」


彼女が腕を振り回す。

茨が鞭のようにしなり、私を襲う。

ピシッ、パシッ。

肌が裂ける音。血が流れる熱さ。

けれど、その痛みさえも愛おしい。これは彼女が必死に伸ばしている、不器用な救難信号(SOS)なのだから。


「弱さがなくて、何が人間ですか」


私は血の滲む腕を広げ、彼女に向かって歩き続けた。


「貴女の弱さは……あの日踏み潰された薔薇のように、ずっとそこで泣いていたのでしょう?」


「……っ、黙れ、黙れ黙れ!」


「綺麗よ、ヒルデガルド。貴女のその弱さは、誰よりも美しいわ」


私の言葉が、彼女の心の核に触れる。

彼女の動きが止まった。

振り上げられた茨が、空中で凍りついたように静止する。


「……きれい……?」


「ええ。貴女が隠してきた涙も、孤独も、嫉妬も。

……全部、人間らしくて、可愛らしくて、抱きしめたくなるほど綺麗だわ」


私は最後の距離を詰めた。

玉座の壇上へ。

彼女は座ったまま、私を見上げている。

その瞳から、魔力の支配による濁りが消え、本来の澄んだ氷色が戻りつつある。

けれど、その色は今、水で濡れたように潤んでいる。


「……嘘よ」


彼女は震える唇で呟いた。


「誰も、そんなこと言わなかった。……父も、夫も、誰も。……強くなければ愛されないと……役に立たなければ価値がないと……」


「なら、私が最初の一人になるわ」


私は彼女の前に跪いた。

そして、彼女の硬く冷たい、魔力で炭化しかけた手を、両手で包み込んだ。


「役に立たなくてもいい。強くなくてもいい。

……ただ、私の前でだけは、泣き虫な女の子に戻って」


「……レティ……」


彼女の瞳から、大粒の涙が溢れた。

それは溶け出した氷河の水のように、彼女の頬を伝い、顎から滴り落ちる。


パリン、という音がした。

彼女の胸元で、暴走の核となっていた「建国の宝珠」に亀裂が入ったのだ。

主人の心が救済(解放)されたことで、暴走の燃料だった「絶望」が供給されなくなった。


「……あ、あぁ……ぅ……」


彼女が崩れ落ちる。

玉座から滑り落ちる彼女を、私はしっかりと抱き止めた。

重い。

国の重圧と、長い年月の孤独の重さ。

けれど、私には羽毛のように軽く感じられた。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……」


彼女は私の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。


「寂しかった……怖かったの……。誰もいなくなるのが……私一人になるのが……」


「ええ、知っているわ。……よしよし」


私は彼女の乱れた髪を撫でた。

茨の城が、音を立てて崩れていく。

黒い壁が光の粒子となって霧散し、天井の穴からは、美しい月明かりが差し込んできた。


「もう一人じゃないわ。……マリアのケーキも、ソフィアちゃんの紅茶も、みんな貴女を待っている」


「……スープ……」


彼女が小さく呟く。


「……貴女がくれた、カボチャのスープ……。美味しかったの……。温かくて……涙が出そうで……」


「また作りましょう。今度は一緒に」


私は彼女の背中をポンポンと叩く。

かつて「鉄の女」と呼ばれた最強の王妃は、今、私の膝の上で完全に武装解除され、無防備な背中を晒している。

その背中は、驚くほど華奢で、震えていた。


月光の下、私は彼女を抱きしめ続ける。

その光景は、聖母子像のように見えたかもしれない。

あるいは、国を傾ける魔女と、堕落した女王の図か。


どちらでもいいわ。

今、この瞬間。

この国で一番偉い人は、私の腕の中で眠る、ただの「甘えん坊」なのだから。


「……おやすみなさい、ヒルデガルド。……もう、悪い夢は終わりよ」


彼女の泣き声が寝息に変わる頃。

玉座の間の入り口には、息を切らして駆けつけたソフィアちゃんと、驚愕の表情を浮かべる騎士たちが立ち尽くしていた。

彼らが見たのは、崩壊した玉座と、その瓦礫の上で幸せそうに眠る王妃様の姿だった。


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