第20話 国母の暴走
午後八時。
私がデザートの洋梨のコンポートにスプーンを入れた、その瞬間だった。
ズズズ……ッ。
地鳴りがした。
テーブルの銀食器がカチャカチャと踊り、シャンデリアが激しく揺れる。
ただの地震ではない。空気そのものが悲鳴を上げるような、重苦しい魔力の圧力が、王都全体を押し潰そうとしていた。
「……始まったわね」
私は揺れるカップを指先で押さえ、窓の外を見た。
王城の方角。
夜空を切り裂くように、赤黒い光の柱が立ち上っている。
その光を核として、巨大な植物の蔦のような影――魔力で構成された「茨」が、王城を飲み込むように増殖していくのが見えた。
「お母様……! 『宝珠』を起動させたのですわ!」
ソフィアちゃんが顔面蒼白で立ち上がる。
「やはり、制御できていません! もうあれは防衛システムではありませんわ。……周囲を無差別に攻撃する、拒絶の結界です!」
「すごい出力だ……。空間ごしでも肌がビリビリする」
レンが腕をさする。彼女のアメジストの瞳が、怯えと興奮で揺れている。
王城は今、巨大な繭になろうとしていた。
誰も入れない。誰も出さない。
孤独な女王が、自分を守るために作り出した、悲しき茨の城。
「……不器用な方」
私はナプキンで口元を拭い、立ち上がった。
「『助けて』の一言が言えなくて、世界ごと閉じこもるなんて。……まるで、布団に潜って拗ねている子供と同じだわ」
「規模が違いすぎます、奥様」
マリアが溜息をつきながらも、すでに私のショールと外出用の靴を用意している。さすがね。
「行きましょう。……夜遊びにしては少し派手だけれど、お迎えに行かなくちゃ」
***
王城の正門前は、地獄絵図と化していた。
アスファルトを突き破って生えた黒い茨が、蛇のようにうねり、近づく衛兵たちを薙ぎ払っている。
空には自動防衛用の魔導ビットが浮遊し、赤い光弾を雨あられと降り注いでいた。
「ひいぃっ! 退避! 退避しろ!」
「ダメだ、門が開かない! 閉じ込められた!」
逃げ惑う兵士たち。
その混乱の中、優雅なローゼンタール家の馬車が、戦場のど真ん中で停止する。
「――散開せよ!」
ベルナデット(ベル)の雷のような号令。
彼女は馬車の屋根から飛び出し、襲い来る茨の触手を、一閃のもとに切り伏せた。
銀色の剣閃。
硬質な茨が、豆腐のように両断され、魔力の粒子となって霧散する。
「レティ様の御通りだ! 道を開けろ!」
「うわ、数が多いな……。まとめて吹っ飛べ!」
レンが馬車から飛び出し、指を鳴らす。
紫色の爆炎が炸裂し、空中のビットたちが次々と撃墜されていく。
彼女の魔法は、ソフィアちゃんの理論解析によって効率化され、以前よりも遥かに洗練された「綺麗な爆発」になっていた。
「怪我人はこちらへ! 私が癒やします!」
エレナが馬車の陰で、傷ついた兵士たちに手をかざす。
彼女の背後には、淡い光のドーム――聖女の加護が展開され、降り注ぐ瓦礫から人々を守っている。
「わたくしについて来なさい! 正規の解除コードは無効ですが、裏口なら知っていますわ!」
ソフィアちゃんがドレスの裾をまくり上げ、先導する。
彼女の頭脳には、王城の構造図がすべてインプットされている。
「マリア、私の足元を」
「お任せを。泥一滴、跳ねさせません」
マリアが投げナイフで飛来する破片を弾きながら、私の進路を確保する。
私はその鉄壁の布陣の中を、散歩でもするかのように悠然と歩いた。
爆音。閃光。焦げ臭い匂い。
それら全てが、私にとってはレッドカーペットの演出に過ぎない。
「……聞こえるわ」
轟音の底に、微かな泣き声が。
『来ないで』
『私を見ないで』
『放っておいて』
茨の一本一本が、王妃ヒルデガルド様の心の叫びそのものだ。
「……そんなに棘だらけにしたら、誰も抱きしめられないでしょうに」
私は扇で飛来する火の粉を払い(実際にはベルが切った残骸だが)、城内へと足を踏み入れた。
***
城内は、さらに酷い有様だった。
美しい回廊は茨に侵食され、歴代の王の彫像は破壊されている。
王妃様の自己否定が、王家の権威そのものを壊そうとしているかのようだ。
「第3層、突破! 次は玉座の間です!」
ベルが息を切らしながら叫ぶ。
彼女の鎧はボロボロだが、その瞳はかつてないほど生き生きと輝いている。
守るべき主人が背後にいる喜び。
「……っ、魔力濃度が上がってる。これ、中心部に近づくとヤバいよ。精神汚染されるかも」
レンが顔をしかめる。
空気が重い。
負の感情――絶望、孤独、嫉妬――が、ヘドロのように漂っている。
普通の人間なら、ここにいるだけで心が折れて発狂してしまいそうだ。
「皆様、お下がりなさい」
私は足を止めた。
目の前には、玉座の間へと続く巨大な扉。
そこには、今までで最も太く、鋭い茨が何重にも巻き付き、物理的にも魔術的にも完全封鎖されていた。
「ここからは、私一人で行くわ」
「なっ……レティ様!?」
ベルが驚愕する。
「危険すぎます! 元凶である王妃様は、今は理性を失った怪物です。丸腰の貴女が近づけば……」
「怪物じゃないわ。……ただの、傷ついた女の子よ」
私は扉を見上げた。
「それに、これだけの拒絶……。貴女たちの武力で無理やりこじ開ければ、中の人はもっと深く傷ついてしまう」
「しかし……!」
「ベル」
私は彼女の頬に手を添えた。
「私たちは、彼女を倒しに来たの? ……それとも、救いに来たの?」
ベルが息を呑む。
彼女は私の目を見つめ、やがて剣を引いた。
彼女だけではない。レンも、エレナも、ソフィアちゃんも。
全員が武器を下ろし、道を譲る。
「……抱きしめに行くのですね」
エレナが祈るように手を組む。
「ええ。……最高に甘い、お仕置きをしにね」
私は扉の前に立った。
茨が生き物のように蠢き、私を威嚇する。
切っ先が喉元に突きつけられる。
「……どきなさい」
私は静かに、けれど絶対的な肯定の響きを込めて命じた。
「貴女たちの主人は、本当は誰かに触れてほしいのよ。
……邪魔をすると、私が貴女たちも《《愛でてしまう》》わよ?」
私は素手で、棘だらけの茨に触れた。
指先に血が滲む。
けれど、私は構わず、優しく撫でた。
「痛いのね」「辛いのね」と語りかけるように。
すると。
奇跡が起きた。
私の血を吸った茨が、震え、急速に枯れ落ちていく。
攻撃的な黒色が、無害な灰色へと変わり、さらさらと崩れ落ちる。
善意という名の猛毒が、悪意の防御システムを中和したのだ。
「……開いた」
マリアが息を呑む。
重厚な扉が、ギギーッと音を立てて、自ら開いていく。
その向こうに広がるのは、広大な闇。
そして、その闇の中心で膝を抱える、一人の孤独な女王の姿。
「……行ってまいります」
私は振り返り、愛する共犯者たちに微笑んだ。
彼女たちは無言で頷き、私を送り出す。
私は深紅のドレスの裾を翻し、闇の中へと足を踏み入れた。
ヒールの音が、誰もいない玉座の間に響き渡る。
そこは世界の終わりのように静かで、そして、泣きたくなるほど寂しい場所だった。
「……ヒルデガルド様。……夜遊びのお迎えに上がりましたわ」
私の声に、闇の中の影がビクリと震えた。
さあ、ラスボス(お母様)とのダンスの時間よ。




