第19話 孤立するのは誰か
「……まるで、蟻の行列ね」
ローゼンタール侯爵家のテラスから、私は眼下に広がる庭園を見下ろして呟いた。
そこには、色とりどりのローブを纏った集団が、長蛇の列を作っている。
先頭集団は、くたびれたローブを着た宮廷魔術師たち。
後方には、白衣の聖職者や、文官服を着た役人たちの姿も見える。
彼らの手には一様に、履歴書や身上書、あるいは「王妃陛下への不満」と書かれた嘆願書が握りしめられている。
「奥様。本日分の整理券の配布が終了しました。……面接希望者は、昨日の倍です」
マリアがポットにお湯を注ぎながら、涼しい顔で報告する。
彼女の手元にあるスケジュール帳は、すでに「お悩み相談」という名目の面接予定で真っ黒だ。
「魔術師団の研究員たちは、『レン様があんなに楽しそうに実験しているのを見て、我慢の限界が来た』と。……教会の一部若手神官は、『エレナ様を救った貴女こそが真の聖女だ』と主張し、改宗ならぬ『転職』を希望しています」
「転職、ねえ。……我が家はいつから、王立ハローワークになったのかしら」
私はクッキーを摘まみ、苦笑する。
けれど、この現象は私の計算通りだ。
レン(才能の解放)とエレナ(人権の回復)という二つの実例を見せつけられれば、ブラック労働に喘ぐ王国のインテリ層がどう動くか。
答えは明白。
彼らは「恐怖」による支配よりも、「甘いお菓子」による庇護を選ぶ。
「ボク、みんなに言っちゃった。『レティのところなら、徹夜実験しても怒られないし、夜食にプリンが出るぞ』って」
レンが隣で、勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
彼女の元同僚たちが、窓の外から羨望の眼差しでレン(と彼女が食べているプリン)を見つめている。
「ソフィアちゃん。……王城の様子は?」
私は反対側に座るソフィアちゃんに水を向けた。
彼女は最近、王城とここを往復する伝書鳩のような役割を担っている。
今日の彼女は、少し沈んだ顔をしていた。
「……酷いものですわ。お母様の執務室から、人が消えています」
彼女はカップを見つめたまま、ポツリと語り出した。
「お母様は、相変わらず完璧です。朝から晩まで決裁を行い、指示を飛ばし、一分の隙もありません。……ですが、その『完璧さ』についていけなくなった側近たちが、次々と休暇を申し出ています。表向きは体調不良ですが、実際は……」
「ここに来ている、と」
「ええ。……お母様は、去っていく者を引き止めません。『代わりはいくらでもいる』と冷たく言い放って。……でも、もう代わりはいませんわ。優秀な人材はみんな、レティ様のこの『甘い沼』に沈んでしまいましたもの」
ソフィアちゃんが複雑そうに溜息をつく。
王妃ヒルデガルド様の自滅。
恐怖で人を縛れば、人は恐怖がなくなった瞬間に逃げ出す。
私が提示した「安心」という選択肢が、彼女の恐怖政治を無効化してしまったのだ。
「……可哀想なヒルデガルド様」
私はテラスの手すりに寄りかかり、遠くに見える王城を見上げた。
夕暮れ時。
王都は家路につく人々の明かりで温かく輝いている。
けれど、王城だけが、黒々とした影のようにそびえ立っている。
かつては不夜城のように輝いていた窓の明かりが、今日はまばらだ。
特に、王妃様の執務室がある西棟。
そこだけが、ぽつんと孤立した灯台のように光っている。
「……見えるわ」
目を閉じると、元・天才令嬢の想像力が、その光の向こう側にある光景を鮮明に映し出す。
***
(ここからは、レティの想像・推察による描写)
王妃の執務室は、静寂という名の騒音に満ちていた。
書類の山は減らない。
決済を待つ案件は積み上がる一方だが、それを処理し、各部署へ伝達する部下がいない。
「……おい、誰かいないか。財務長官を呼べ」
王妃の声が、広い部屋に虚しく響く。
返事はない。
財務長官は今朝、「持病の腰痛」を理由に辞表を出したばかりだ。(実際には、私の屋敷でマッサージチェア代わりの魔導具を試してご満悦だったけれど)
「……チッ。どいつもこいつも」
王妃は舌打ちをし、自らペンを取る。
彼女は優秀だ。一人でも三人分の仕事ができる。
けれど、物理的な限界はある。
インクが切れる。
替えのインクを持ってくる侍女もいない。
自分で棚へ取りに行く。
その途中、ふと鏡に映った自分の顔を見て、彼女は足を止めるだろう。
髪が乱れている。
肌が荒れている。
そして、瞳の奥に宿る光が、揺らいでいる。
『王とは、孤独なものよ』
かつて私に言った言葉。
けれど、彼女が今感じているのは、高貴な孤独ではない。
ただの「孤立」だ。
誰も自分を見ていない。誰も自分を助けない。
自分が消えても、世界は(レティを中心に)回っていくのではないかという、根源的な恐怖。
「……陛下(夫)は……いつ帰ってくるの……?」
彼女は誰もいない部屋で、初めて弱音を吐く。
国王は遠征中。国の危機に、一番頼りたい相手がいない。
その不在を守るために、彼女は怪物(鉄の女)になったのに。
***
「……レティ様? どうなさいました?」
ベルナデットの声で、私は意識を現実に戻した。
夜風が少し冷たくなっている。
私は自分の腕をさすった。王妃様の感じている寒気が、伝染したかのように。
「……灯りが、消えていくわ」
私が指差す先。
王城の西棟の窓から、ふっと光が消えた。
王妃様が執務を終えたのか、それとも……暗闇の中で蹲っているのか。
「……チェックメイトね」
私は呟く。
政治的な勝負はついた。
王妃派は瓦解し、実権は事実上、このローゼンタール家のサロンにある。
私がその気になれば、明日にもクーデターを起こし、彼女を廃位させることも可能だ。
けれど、私の目的は「革命」であって「処刑」ではない。
彼女を玉座から引きずり下ろすのではなく、玉座という名のギプスから解放してあげたいだけ。
「……ベル。王城の警備状況は?」
「ザルです。近衛兵の半数が、謎の腹痛(仮病)で欠勤しています。……侵入は容易かと」
「そう。……レン、王城の結界の解析は?」
「終わってるよ。あの城の魔術防御、古いんだよね。ボクなら裏口から入り放題」
条件は整った。
追い詰められた王妃様が何をするか。
私の予測では、彼女はただでは終わらない。
プライドの高い彼女は、負けを認めるくらいなら、世界ごと道連れにするような「最後の自爆スイッチ」を押すはずだ。
「……ソフィアちゃん。王城の地下には、何があるの?」
私の問いに、ソフィアちゃんがビクリと震える。
「……まさか、レティ様。……アレをご存知ですの?」
「いいえ。でも、匂うのよ。……古くて、カビ臭くて、それでいて強大な『切り札』の匂いが」
「……『建国の宝珠』ですわ」
ソフィアちゃんが声を潜める。
「王家の始祖が、国を守るために設置した古代魔導具。……王族の血と魔力を代償に、王都全体を鉄壁の結界で覆い、外敵を殲滅する最終兵器。……ただし、制御が難しく、暴走すれば王都ごと吹き飛ぶと言われている『禁忌』です」
ビンゴ。
やはり、そういう物騒なオモチャがあるのね。
孤立無援の王妃様が、最後に縋るとしたらそれしかない。
「……止めに行かなくちゃね」
私は立ち上がった。
夜風が私のドレスを煽る。
「え? 今からですか?」
「いいえ。……彼女が『スイッチ』に手をかけた、その瞬間にね」
私は知っている。
人は、本当に駄目になる直前、一番大きなSOSを発する。
そのSOSを見逃さず、最高のタイミングで抱きしめてあげることこそが、全肯定未亡人の仕事だもの。
「皆様、準備はよろしくて? ……明日の夜は、王城でダンスパーティーよ」
私の宣言に、マリア、ベル、レン、エレナ、そしてソフィアちゃんが、それぞれの「武器」を手に頷く。
かつて敵対していた者たちが、今や一つのチームとして、孤独な女王を救うために立ち上がる。
王城の闇の中で、王妃様が一人、震える手で禁忌の扉を開けようとしている姿が目に浮かぶ。
待っていて、ヒルデガルド様。
貴女のその冷たい手を、私たちが全員で温めに行って差し上げるわ。




