第18話 善意の包囲網
翌朝のローゼンタール侯爵家の食卓には、不穏なほどの「欠乏」が漂っていた。
いつもなら香り高い湯気を立てているはずの紅茶がない。
焼きたてのパンに添えられるはずの、新鮮なバターも、季節のフルーツもない。
「……奥様。申し訳ございません」
マリアが沈痛な面持ちで頭を下げる。彼女の完璧なエプロンドレスには一点の曇りもないが、その表情には「職務不履行」への屈辱と、抑えきれない怒りが滲んでいる。
「今朝、納入業者が来ませんでした。パン屋も、肉屋も、八百屋も……すべて、『上からの圧力で、ローゼンタール家とは取引できない』と」
「兵糧攻め、か」
ベルナデット(ベル)が腕組みをして、低い声で唸る。
「王宮からの物流停止命令だ。侯爵家への物資搬入を禁じ、ライフラインを断つ。……地味だが、最も効果的で陰湿な嫌がらせだな」
「王妃様……お母様ね」
ソフィアちゃんが唇を噛む。
「わたくしたちを干上がらせて、音を上げさせるつもりですわ。……なんて大人気ない」
レンが空の皿をスプーンで叩き、不満を表明する。
「ボク、腹減った。……魔法で空間跳躍して、王城の厨房から盗んでこようか?」
「泥棒はダメです。……私が、少しなら祈りで満腹感を誤魔化せるかも……」
エレナがおずおずと提案するが、それは却下だ。
私は空のティーカップを手に取り、窓の外を見上げた。
秋の空は高く澄んでいる。
王妃様の手口は、政治的には正解だ。武力行使ではなく、経済制裁で真綿で首を締めるように相手を弱らせる。流血を避けつつ、相手の尊厳を奪う「王者の戦法」。
けれど。
彼女は一つだけ、計算間違いをしているわ。
「……あら、嬉しい」
「は? 奥様、餓死寸前で何が嬉しいのですか?」
マリアが信じられないものを見る目で私を見る。
「だって、これは『私の健康』を気遣ってくださっているのでしょう? 最近、マリアの食事が美味しすぎて、ウエストが数ミリ増えたのを気にしていましたの。……ヒルデガルド様ったら、私の体型管理までしてくださるなんて、なんて過保護な方なのかしら」
「……ポジティブすぎて頭痛がしてきました」
ベルがこめかみを押さえる。
「ですがレティ様。現実は深刻です。備蓄は三日も保ちません。このままでは……」
「大丈夫よ。……耳を澄ませて?」
私は人差し指を立てた。
静寂に包まれた屋敷。
けれど、その奥底――裏門の方角から、ガヤガヤとした騒音が聞こえてくる。
それは、怒号ではない。
もっと温かく、土着的な、人の熱気の音。
「……マリア。裏門を開けていらして」
「え? ですが、暴徒かもしれません」
「いいえ。あれは『愛』の音よ」
◇
裏門を開けた瞬間、私たちは「雪崩」に遭遇した。
野菜の雪崩だ。
「レティ様ー! お困りだって聞いたよ!」
「これ、うちの畑で採れたカボチャだ! 持っていってくれ!」
「パン屋の親父だ! 正規ルートがダメなら、裏から投げ入れりゃいいってな!」
「聖女様を助けてくれた御礼だ! 俺たちの気持ちだ、受け取ってくれ!」
門の前には、山のような木箱と、大勢の領民や商人が押し寄せていた。
泥のついたジャガイモ、丸々と太ったキャベツ、焼きたてのバゲット、絞りたての牛乳。
物流停止の噂を聞きつけた人々が、勝手に支援物資を持ち寄ったのだ。
「な、なんという量だ……」
ベルが呆然とする。
彼女の想定していた「包囲網」は、民衆の善意によって物理的に突破されていた。
「おやおや、ベルナデット様もいなさる!」
「騎士様、これも食ってくれ! あんたが聖女様を守ったって噂、もちきりだぞ!」
「わ、私は……任務で……」
強面のベルが、近所のおばちゃんにリンゴを押し付けられ、顔を赤くしている。
「おい、ちっこいのもいるぞ! ほら、飴ちゃんやるよ」
「……俺は子供じゃない。大魔導師だ」
「はいはい、可愛いねぇ」
レンが頭を撫で回され、満更でもなさそうな顔で飴を受け取っている。
「聖女様! エレナ様!」
「……あ……」
エレナが姿を見せると、人々が一斉に跪きかけた。
けれど、すぐに誰かが「今日は礼拝じゃねえ! 差し入れだ!」と笑い飛ばし、彼女の手に温かいミートパイを握らせた。
エレナの目が潤む。
「奇跡」の対価としてではなく、ただの「隣人」としてのご飯。それがどれほど美味しいか、彼女はもう知っている。
私は扇を広げ、その喧騒の中心へと進み出た。
「皆様」
私の声が通ると、場が静まり返る。
「こんなにたくさん……ふふ、私を太らせて、どうなさるおつもり?」
「いやぁ、レティ様が痩せちまったら、国の損失だ!」
「王妃様がイジワルするなら、俺たちが支えるさ!」
口々に叫ぶ人々。
王妃様は「恐怖」で人を縛ろうとした。
けれど私は「甘やかし」で人を繋いできた。
どちらの結び目が強いか、結果は明白だわ。
「ありがとう。……では、お言葉に甘えて。マリア、今夜は収穫祭よ!」
「はい、奥様! ……腕が鳴ります!」
マリアが嬉々として、野菜の山を仕分けにかかる。
使用人たちも総出で搬入を始めた。
屋敷のキッチンは、かつてないほどの活気と、大地の匂いに満たされることになった。
◇
その夜。
私は王妃様への「御礼状」をしたためていた。
机の上には、使い切れないほどのカボチャやジャガイモが転がっている。
「……何を書いているのですか?」
ソフィアちゃんが、カボチャのスープを啜りながら覗き込んでくる。
「あなたのお母様への感謝の手紙よ。……ほら」
私は書き上げた羊皮紙を見せた。
『拝啓、親愛なるヒルデガルド様。
お心遣い、痛み入ります。貴女様の采配のおかげで、我が家の食卓はかつてないほどの豊穣に恵まれました。
皆様からの愛が重すぎて、私のダイエット計画はあえなく失敗しそうです。
責任を取って、この溢れる愛をお裾分けいたします。
どうか、スープにして召し上がってくださいませ。働きすぎの体には、ビタミンが必要ですわ。
追伸:貴女様が孤独にならないよう、私も民も、いつも貴女様のことを見ておりますのよ?
愛を込めて、レティ』
「……煽っていますわね」
「まさか。純度一〇〇パーセントの善意よ」
私は手紙をバスケットに入れ、その周りを最高級のカボチャと、マリア特製の野菜クッキーで埋め尽くした。
「これを、明日の朝一番で王城へ届けて。……ベル、お願いできる?」
「……承知しました。王妃様の顔が見ものですな」
ベルがニヤリと笑う。
彼女も、この「善意の爆撃」の共犯者になることを楽しんでいるようだ。
***
翌朝の王城、王妃の執務室。
届けられたバスケットを見て、王妃ヒルデガルドはこめかみの血管をピクつかせていた。
「……あの女」
バスケットの中には、泥のついた無骨なカボチャと、ふざけた手紙。
物流を止めたはずの相手から、逆に食料が送られてくるという屈辱。
それは、「貴女の権力など、私たちの絆の前には無力よ」という、強烈なカウンターパンチだった。
「……陛下。いかがなさいますか? 処分しますか?」
側近の官僚が恐る恐る尋ねる。
王妃は手紙を握りしめ、しばらく沈黙した後、深く息を吐いた。
「……いいえ。厨房へ回しなさい」
「は?」
「民が作ったものよ。粗末にはできないわ。……今日のスープにしなさい」
「は、はい!」
官僚がバスケットを下げていく。
部屋に一人残された王妃は、窓の外を見下ろした。
眼下に広がる王都。そこには、彼女が知らない「熱」がある。
レティーティアが火をつけた、甘く、制御不能な熱が。
「……愛、か」
王妃は自嘲気味に呟く。
彼女の周りには、書類と国益しかない。
カボチャ一つ届けてくれる友もいない。
「……負けないわ。情になど流されない」
彼女は再びペンを執った。
けれど、その筆圧は昨日よりも少しだけ弱く、迷いを含んでいた。
彼女の鉄壁の心に、カボチャのスープのような温かい「毒」が、少しずつ回り始めている。
***
一方、ローゼンタール家。
私たちは、山のような野菜を消費するための「カボチャ・パーティー」を開催していた。
「レン、火力が強すぎるわ! 焦げる!」
「だって、加減が難しいんだよ!」
「私が切りましょう。……剣技・千切り!」
「ベルナデット様、まな板まで切らないでください」
「わたくしは食べる係でよろしくて?」
「エレナも食べなさい。ほら、あーん」
騒がしく、温かい食卓。
窓の外から、監視役の教会騎士や王宮の密偵たちが、羨ましそうにこちらを見ているのが気配でわかる。
「……ふふ。次はあの方たちも呼んであげましょうか」
私はスープを口に運び、微笑んだ。
私の包囲網は、敵すらも飲み込んで拡大していく。
王妃様が孤独な城に閉じこもるなら、私はその城の周りで宴を開き、美味しそうな匂いで彼女を釣り出すまで。
「……待っていてね、ヒルデガルド様。貴女が『私も混ぜて』と言い出すまで、あと少しよ」




