第17話 ラスボスは玉座に座る
王城の最奥、王妃の私室へと続く回廊は、深海のように静まり返っていた。
衛兵の姿すらない。ただ、等間隔に置かれた燭台の揺らめきと、私のヒールが石床を叩く乾いた音だけが、冷たい空気を震わせている。
「……寂しい音ね」
私は呟く。
壁に飾られた歴代王族の肖像画たちが、無言で私を見下ろしている。彼らの目は一様に厳しく、個人の感情を殺して「国」そのものになった者特有の、空虚な威厳を湛えていた。
案内された扉の前で、私は一度立ち止まり、マリアに持たされたバスケットの重みを確認した。
中身は、安眠効果のあるハーブティーの茶葉と、私の手作りの焼き菓子。
国の命運を左右する談判に持参するアイテムとしては不謹慎極まりないけれど、私の計算では、これが最も有効な「武器」になるはずだ。
「失礼いたします。レティーティア・フォン・ローゼンタール、参上いたしました」
重厚な扉をノックする。
中から返ってきたのは、氷の刃のような短い返答だった。
「――入りなさい」
***
部屋の中は、極北の冬を思わせる冷気に満ちていた。
暖炉の火は最小限に絞られ、豪奢な家具たちは主人の厳格さを映すように、定規で測ったような配置で並んでいる。
その中央。執務机の向こうに、彼女はいた。
現王妃、ヒルデガルド・フォン・アルカディア。
ソフィアちゃんと同じ、しかしより色素の薄いプラチナブロンドを完璧に結い上げ、深青のドレスを着こなす姿は、氷の彫像のように美しい。
彼女は書類から顔を上げず、ペンを走らせ続けていた。
「……座りなさい」
視線すら寄越さない。
私はバスケットをサイドテーブルに置き、優雅にソファへと腰を下ろした。
カリカリ、カリカリ。
ペン先が紙を引っかく音だけが、部屋の静寂を刻んでいる。
一分、五分、十分。
意図的な放置。相手の不安を煽り、心理的優位に立つための古典的な交渉術だ。
けれど、私の観察眼は、その沈黙の中で饒舌に語る「情報」を拾い集めていた。
彼女の左手、薬指の爪が微かに白濁している(栄養不足と血行不良)。
ペンの運びが、行末でわずかに乱れている(集中力の低下と焦燥)。
そして何より、部屋に漂う匂い。
高価な香水でも隠しきれない、濃いカフェインと、鎮痛薬特有の苦い匂い。
「……陛下」
私が口を開くと、王妃の手がピタリと止まった。
「喋ることは許していないわ」
顔を上げた彼女の瞳が、私を射抜く。
絶対零度の眼差し。普通の人間なら、その圧力だけでひれ伏すだろう。
「ごめんなさい。……ペンの音が、悲鳴のように聞こえたものですから」
「……戯言を」
王妃はペンを置き、組んだ手の甲に顎を乗せた。
「レティーティア。……単刀直入に言いましょう。貴女は、この国にとって『毒』よ」
「あら。甘い毒でしょうか?」
「致死性の猛毒よ。……教会を恫喝し、騎士団を骨抜きにし、あまつさえ私の娘と聖女まで取り込んだ。……貴女の存在は、王国の秩序を根底から揺るがしている」
彼女の声は淡々としているが、その奥には煮えたぎるような警戒心が渦巻いている。
彼女にとって「秩序」とは、絶対的な善。
それが崩れることは、彼女自身の存在意義の崩壊を意味する。
「国を出なさい」
王妃は一枚の書類を提示した。
「隣国への移住手続きと、生涯遊んで暮らせるだけの年金を用意したわ。……今すぐこの国から消えるなら、ローゼンタール家の安全は保証しましょう」
追放命令。
けれど、その条件はあまりに破格だ。
私の安全を保証する? 家を守る?
それは脅迫というより、まるで「お願いだから私の目の届かないところで幸せになってくれ」という懇願にも聞こえる。
私は書類を手に取り、パラパラと眺めた。
完璧な契約書。私の老後まで計算された、手厚すぎる福利厚生。
「……お優しいのですね」
「は?」
「私のような出戻りの未亡人の、老後の心配までしてくださるなんて。……本当は、私を罰したくなどないのでしょう?」
「……勘違いしないでちょうだい。これは手切れ金よ。貴女のような不確定要素を排除するための、必要経費に過ぎないわ」
王妃が眉をひそめる。
その表情筋の動きに、違和感があった。
右の口角だけが、わずかに引きつっている。
これは、極度の疲労を隠して笑顔を作ろうとした時に起こる、顔面神経の痙攣だ。
私は立ち上がり、執務机へと歩み寄った。
「無礼者。近づくなと言って……」
「陛下。……鏡をご覧になったことは?」
私は机越しに、彼女の顔を覗き込んだ。
至近距離。
彼女が息を呑み、身を引こうとする。
その瞬間、完璧な化粧の下に隠された「真実」が見えた。
ファンデーションを三層に塗り重ねて隠蔽された、目の下の濃いクマ。
充血した白目。
そして、唇の乾燥。
「……三日、いえ、四日はまともに眠っていらっしゃいませんね?」
「……っ! 無礼な……!」
「それに、この書類の山。……本来なら陛下(国王)や宰相が処理すべき案件まで、全て貴女の決済印が押されている。……なぜ、一人で背負うのです?」
私の指摘は、彼女の最も痛いところを突いたらしい。
王妃の仮面が揺らぎ、その下から「孤独な女」の素顔が露出しそうになる。
「……王とは、孤独なものよ」
彼女は搾り出すように言った。
「誰も信用できない。誰も頼れない。……私が完璧でなければ、この国は隙を見せて崩れ去る。貴女のような『甘え』を持った人間には、理解できない重圧でしょうね」
彼女は立ち上がり、私を見下ろした。
その背後は、まるで氷の城壁のように高く、冷たく、そして脆い。
「甘え、ですか」
「ええ。貴女は周囲を甘やかし、堕落させているだけ。……そんなもので国は守れない。必要なのは鉄の規律と、恐怖による統制よ」
彼女の言葉は正しい。政治学的には。
けれど、人間学的には0点だ。
だって、そんなに張り詰めていたら、一番最初に壊れるのは「王妃自身」なのだから。
「……可哀想なヒルデガルド様」
私が敬称を外し、名前を呼ぶと、彼女は目を見開いた。
「な……っ」
「誰も、貴女を褒めてくれなかったのね」
私は机を回り込み、彼女の隣に立った。
香水の匂いが強くなる。それは、彼女が自分自身を奮い立たせるための戦闘服の匂いだ。
「貴女が夜通し働いても、それは『当たり前』。貴女が完璧でも、それは『当然』。……誰も、貴女の努力に『ありがとう』とは言わない」
「……黙りなさい」
「夫である王は遠征にかまけて不在。娘は貴女を恐れて逃げ出した。……この広い王城で、貴女の冷えた手を温めてくれる人は、一人もいない」
「黙れと言っているの!!」
王妃が叫んだ。
机を叩き、書類が雪崩を打って床に散らばる。
その音は、彼女の心が決壊した音に聞こえた。
「貴女に何がわかる! ……私がどれだけ犠牲を払ってきたか! 女としての幸せも、母としての情愛も、全て切り捨ててこの国を守ってきた! それを……それを、ぽっと出の貴女なんかに……!」
肩で息をする王妃。
乱れた髪。歪んだ表情。
それは、初めて彼女が見せた「人間」としての感情だった。
私は動じず、サイドテーブルのバスケットを開けた。
ポットから、温かいハーブティーを注ぐ。
カモミールとラベンダーの香り。殺伐とした執務室に、場違いなほど優しい香りが漂う。
「……飲みましょう」
「は……?」
「叫んだら、喉が渇いたでしょう? 毒は入っていないわ。……甘い蜂蜜だけ」
カップを差し出す。
王妃はそれを呆然と見つめ、それから私を睨みつけた。
「……馬鹿にしているの?」
「いいえ。誘惑してるんです」
「……ッ」
彼女はカップを払いのけようとして――止まった。
湯気の向こうにある私の目が、あまりに真っ直ぐで、全肯定の色をしていたからだ。
彼女は震える手でカップを受け取った。
一口。
温かい液体が、彼女の冷え切った内臓に染み渡る。
「……ぬるいわ」
「猫舌でしょう? マリアの情報よ」
王妃はふん、と鼻を鳴らしたが、カップを置こうとはしなかった。
その強張った肩から、ほんの数ミリだけ力が抜ける。
「……レティ。貴女は危険だわ」
彼女はカップを見つめたまま、低い声で呟いた。
「私の心の隙間に入り込み、牙を抜こうとしている。……だが、そうはいかない」
彼女は顔を上げた。
その瞳には、先ほどまでのヒステリックな色はなく、代わりに冷徹で静かな、底知れない闇が宿っていた。
「私は、貴女には堕ちない」
「……残念ですわ」
「貴女が『善意』で国を侵食するというのなら……私は『悪意』を持ってそれを粉砕するまで」
王妃はカップを置き、氷のような微笑を浮かべた。
それは、自分自身の弱さを自覚した上で、なおそれを鉄の意志で封じ込めた、真の支配者の顔だった。
「受けて立ちましょう、全肯定未亡人。……次に会う時は、この城が貴女の墓標になるか、それとも……」
彼女は言葉を切った。
その先の言葉――「私が貴女にひざまずくか」という未来を、口にするのを恐れたかのように。
「夜も更けました。下がりなさい」
拒絶。
けれど、その声にはもう、最初の頃のような殺気はなかった。
あるのは、好敵手に向けるような、静かな敬意と闘志。
「おやすみなさいませ、ヒルデガルド様。……良い夢を」
私はカーテシーをして、部屋を後にした。
背後で、彼女が再びペンを走らせる音が聞こえる。
けれどそのリズムは、最初よりもずっと穏やかで、落ち着いたものに変わっていた。
廊下に出ると、私は深く息を吐いた。
冷たい石の壁に背中を預ける。
「……手強いわね」
彼女の孤独は、あまりに深く、強固だ。
一杯の紅茶では溶かしきれない、永久凍土。
彼女を救うには、彼女が自ら作り上げた「王妃」という氷の城を、物理的に破壊する必要があるかもしれない。
「でも、嫌いじゃないわ」
私はマリアの待つ場所へと歩き出す。
あの鉄の女が、私の膝の上で泣きじゃくる姿を想像すると……ゾクゾクするほどの愛おしさを感じるもの。
ラスボスは玉座に座り、孤独を守っている。
なら、私はその玉座ごと、彼女をさらいに行くだけだ。
国を傾けるほどの、盛大なパーティー(革命)の準備をしなくては。




