第15話 断罪という名の茶番
ローゼンタール侯爵家のメインサロンは、即席の法廷と化していた。
上座には、豪奢な法衣を纏い、脂ぎった顔でふんぞり返る教会の大司教、バルトロメウス。
その左右を固めるのは、抜身の剣を持った聖堂騎士たち。
対する被告席――と言っても、私は優雅にティーカップを傾けているだけだけれど――には、私と、背後に控える「最強の布陣(マリア、ベル、レン、ソフィアちゃん)」が並んでいる。
「――以上が、貴様の罪状である。聖女誘拐、監禁、並びに神への冒涜。申し開きがあるなら聞こうか」
大司教が、羊皮紙を卓上に叩きつける。
部屋には、彼らが持ち込んだ強い乳香の匂いが充満し、マリアが淹れた紅茶の繊細な香りを邪魔している。これだけでも万死に値する罪ね。
「申し開き? いいえ、訂正を求めますわ」
私はカップをソーサーに置いた。カチャン、という澄んだ音が、大司教の怒鳴り声よりも鋭く響く。
「第一に、誘拐ではなく保護。第二に、監禁ではなく療養。そして第三に……冒涜しているのは、貴方方のほうではありませんか?」
「なに……っ!?」
「神が愛し子として遣わした聖女を、あそこまでボロボロになるまで使い潰す。それは『管理不行き届き』という、立派な冒涜ですわ」
私の指摘に、大司教の顔が紫色に変色する。
「黙れ! 聖女は教会の所有物だ! 我々がどう扱おうと、それは神の意志! 貴様のような世俗の女が口を挟むことではない!」
「所有物。……また、その汚い言葉を使いましたね」
私はため息をつき、傍らのマリアに合図を送った。
マリアが無言で差し出したのは、一冊の黒革の帳簿。
昨夜、レンの透過魔法とベルの陽動によって、大聖堂の金庫から「一時的にお借り」してきた裏帳簿だ。
「では、この数字についても神の意志として説明していただけますか?」
私は帳簿を開き、該当ページを指差した。
「聖女エレナ様の『奇跡』に対する寄付金総額、年間五億ゴールド。対して、エレナ様の生活維持費および治療費の計上額……わずか三十万ゴールド。残りの四億九千九百七十万ゴールドは、『使途不明金』として大司教様の個人口座のある島国へ送金されていますわね」
「なっ……!? き、貴様、それは……どこで……!」
大司教の目が飛び出るほど見開かれる。
騎士たちがざわめく。彼ら末端の信徒は、清貧を説く上層部が私腹を肥やしていることなど知らなかったのだ。
「さらに、こちらの労働記録。……エレナ様は過去三年間、一日も休日を与えられていません。労働基準法違反どころか、これは奴隷契約にも抵触しますわ。我が国の法律では、奴隷制度は五十年前に廃止されているはずですが?」
元・天才令嬢の弾丸論破。
感情論ではなく、数字と法律という「共通言語」で殴る。
大司教はパクパクと口を開閉させ、冷や汗を滝のように流している。
「そ、それは……教会法において、聖女は別枠であり……」
「国の法律よりも教会法が上だと仰るの? ……ソフィア殿下、聞きました?」
私は背後のソフィアちゃんに話を振る。
彼女は扇で顔を隠しつつ、冷ややかに言い放った。
「ええ、聞きましたわ。王家の権威を軽んじる発言として、父上(国王)に報告させていただきます。……ついでに、その横領の件も」
「ひっ……で、殿下……!?」
大司教が狼狽し、後ずさる。
王女という権威は、こういう時にこそ輝く。
「く、くそっ……! 詭弁だ! 数字など捏造できる! 大事なのは本人の意志だ!」
追い詰められた大司教は、最後の切り札に手を伸ばした。
部屋の隅、車椅子に座らされ、小さくなっていたエレナを指差す。
「おい、エレナ! 答えろ! お前は教会の聖女だろう! 神に仕え、人々のために身を削るのがお前の使命だ! こんな悪魔の家にいたいなどと、口が裂けても言わんよな!?」
恫喝。
刷り込みを利用した、卑劣な命令。
エレナがビクリと震える。彼女の瞳が揺れ、古傷である「服従の条件反射」が首をもたげる。
「……わ、わたしは……」
彼女の声が震える。
教会へ戻れば、また地獄の日々が待っている。
けれど、断れば、私やこの家に迷惑がかかるかもしれない。彼女の優しさが、彼女自身を縛る鎖になっている。
「……わたくし、は……」
大司教が歪んだ笑みを浮かべる。
勝った、と思ったのだろう。長年の洗脳はそう簡単には解けないと。
私は動かなかった。
ここで私が口を挟めば、彼女は一生「守られるだけの存在」になってしまう。
必要なのは、彼女自身が自分の足で立ち、鎖を断ち切ること。
「エレナ」
私はただ一度だけ、彼女の名前を呼んだ。
優しく。甘く。
昨夜、彼女の手を握って眠った時のように。
エレナが顔を上げる。
私と目が合う。
私は微笑み、音もなく口を動かした。
『大丈夫』
エレナが息を吸い込む。
彼女の痩せた手が、車椅子の肘掛けを握りしめる。
そして。
「……いや、です」
蚊の鳴くような、けれど確かな拒絶。
「な、なんだと……?」
「嫌です! 私は……もう、貴方たちの道具にはなりません!」
エレナが立ち上がった。
ふらつく足で、けれど自分の意思で、大地を踏みしめる。
「神様は……私の痛みを消してはくれませんでした。お腹が空いても、パンをくれませんでした。……でも、レティ様はくれました!」
彼女は一歩、また一歩と、私の方へ歩み寄ってくる。
「温かいスープも、痛くない包帯も、優しい言葉も! ……神様が愛だと言うなら、レティ様のほうがずっと神様に近いです! だから私は……教会ではなく、レティ様を選びます!」
叫び声と共に、彼女は私の胸に飛び込んできた。
私はそれをしっかりと受け止める。
華奢な体。けれど、そこには今、燃えるような生命の熱が宿っている。
「……よく言ったわ、エレナ」
私は彼女の頭を撫でた。
大司教は呆然と立ち尽くし、やがて顔を真っ赤にして激昂した。
「き、貴様ら……! 神に背く気か! 異端だ! 騎士たちよ、この女どもを捕らえろ! 皆殺しにしても構わん!」
暴走。
もはや聖職者の理性など欠片もない。
騎士たちが剣を構え、殺到しようとする。
「やれやれ。……野蛮な方たち」
私はエレナを背後に隠し、前に出た。
マリアが投げナイフを構え、ベルが剣を抜き、レンが指を鳴らす。
けれど、それよりも早く。
「――そこまでになさい」
凛とした、絶対的な声が響き渡った。
入口の扉が開かれ、まばゆい光と共に現れたのは、王城からの使者――近衛騎士団長だった。
「国王陛下よりの勅命である! 本件、教会の不正会計疑惑および聖女虐待の嫌疑について、王家が直接査問を行う! 関係者は直ちに出頭せよ!」
「な、なんだと……!?」
「尚、ローゼンタール侯爵家への手出しは一切禁ずる。……ここは現在、第二王女殿下の滞在所であるぞ!」
ソフィアちゃんの根回しが間に合ったのだ。
大司教の顔から血の気が引いていく。
王家が動いた以上、教会の自治権も及ばない。裏帳簿という決定的な証拠がある以上、彼は破滅確定だ。
「そ、そんな……馬鹿な……」
「連れて行け」
近衛騎士たちが大司教を取り囲み、ズルズルと引きずっていく。
去り際、彼は私を睨みつけた。
「覚えておれ……! 後悔するぞ……!」
「ごきげんよう、大司教様。……牢屋の冷たいパンも、たまには健康に良くてよ?」
私は扇を振り、笑顔で見送った。
嵐が去り、静寂が戻る。
「……終わった……のですか?」
エレナが震える声で尋ねる。
「ええ。もう誰も、貴女を連れて行ったりしないわ」
私は彼女の手を取り、聖書――彼女がずっと抱えていた、ボロボロの教典――から手を離させた。
代わりに、私の温かい手を握らせる。
「神様へのお祈りは、気が向いた時だけでいいの。……これからは、私のために笑ってくださる?」
エレナの瞳から、大粒の涙がこぼれた。
それは悲しみの涙ではなく、生まれ変わりの産声のような涙。
「……はい、レティ様……! 私の命、貴女に捧げます……!」
「あら、命はいらないわ。……代わりに、美味しいアップルパイを一緒に食べましょ?」
こうして。
私は教会の権威を粉砕し、国一番の「癒やし手」を手に入れた。
世間では、私が「聖女を救った慈愛の守護者」として称賛されることになるだろう。
あるいは、「教会すら敵に回す恐ろしい女」として恐れられるか。
どちらでもいいわ。
私の腕の中には今、確かな温もりがあるのだから。
けれど、窓の外。
王城の方角で、黒い雲が渦巻いているのが見えた。
教会という駒を失った「ラスボス」――王妃様が、いよいよ重い腰を上げる気配。
「……次は、お母様とのダンスかしらね」
私はエレナの頭を撫でながら、甘く不敵に微笑んだ。
革命の舞台は、いよいよ王城の中枢へと移っていく。




