第14話 神様よりも優しい手
教会の追手を追い返してから数日。
ローゼンタール侯爵家の客間は、厳重な「無菌室」兼「集中治療室」と化していた。もちろん、医療機器の代わりに、最高級の羽毛布団と、アロマの香り、そして私という専属ナースが常駐しているけれど。
「……食べられません、もう……」
ベッドの上で、エレナが小さく首を振る。
彼女の目の前には、マリアが用意した特製の離乳食――ミルクで煮込んだ白いパンと、擦り下ろしたリンゴ。消化に良く、栄養価の高いメニューだ。
けれど、彼女はスプーン一杯を飲み込むのにも、罪悪感で喉を詰まらせている。
「あら、まだ半分も残っているわ。マリアが悲しむわよ?」
「でも……これ以上は、贅沢です……。信徒の方々の寄付金で贖われた糧を、働かない私が消費するなんて……泥棒と同じ……」
エレナの手が震え、シーツを握りしめる。
彼女の思考回路は深刻だ。
「生きている=罪」「奉仕する=償い」という図式が、骨の髄まで刻み込まれている。自己肯定感がマイナスどころか、存在そのものを負債だと認識しているのだ。
「泥棒? いいえ、これは『投資』よ」
私はスプーンを彼女の口元へ運びながら、天才の屁理屈を展開する。
「壊れた道具を直さずに使い続ける職人は三流よ。貴女を万全の状態に修理して、長く働けるようにする。これは極めて合理的なコスト管理だわ」
「……コスト、かんり……」
「そう。だから貴女が今すべき仕事は、奇跡を使うことじゃない。この甘いリンゴを咀嚼して、血肉に変えること。……さあ、お仕事の時間よ」
「お仕事……」
その単語が出た途端、彼女はパブロフの犬のように口を開けた。
ちょろ……いえ、素直すぎて涙が出るわ。
私は彼女の口に、甘く煮たリンゴを運ぶ。
「……甘い、です」
「ええ。世界は貴女が思っているより、ずっと甘くて優しいのよ」
***
食事の後は、入浴の時間だ。
マリアとレンが手伝って、エレナを浴室へ運ぶ。
私は彼女の服を脱がせながら、改めてその背中に刻まれた「聖痕」を見た。
赤黒い亀裂。魔力が血管を焼き切った跡。
「……見ないで、ください……汚い、から……」
エレナが恥ずかしそうに体を隠す。
聖女として崇められてきた肌が、ボロ雑巾のように継ぎ接ぎだらけなのだから、無理もない。
「あなたの身体に汚いところなんかないわ。……痛かったでしょう?」
私はお湯を含ませたスポンジで、傷跡を避けて優しく撫でた。
温かいお湯が肌を滑るたび、彼女の体がビクリと跳ねる。それは痛みへの恐怖ではなく、優しくされることへの不慣れさからくる拒絶反応だ。
「聖女は痛みを感じてはいけないのです……。痛みは、信仰の足りなさが招く試練ですから……」
「馬鹿げた教義ね」
私はたっぷりと泡立てた石鹸を手に取り、彼女の背中を包み込んだ。
ラベンダーとカモミールの香り。
私の指先が、凝り固まった肩甲骨の周りを円を描くようにマッサージする。
「人間は痛いときは泣くの。神様だって、十字架の上では痛がったはずよ」
「……っ、不敬、です……」
「ふふ、ここはお風呂場よ。神様の目は湯気で曇って見えないわ」
私は彼女の首筋、こわばった筋を親指でぐっと押した。
「あ、ぁ……っ!」
エレナの口から、艶っぽい吐息が漏れる。
ずっと緊張状態で張り詰めていた神経が、強制的にスイッチを切らされた瞬間。
「……力が抜けたわね。いい子」
私は彼女をバスタブに沈めた。
薬草を煮出したエメラルドグリーンのお湯。
エレナは肩まで浸かり、ほう、と長い息を吐いた。
その表情から、初めて「聖女」という仮面が剥がれ落ち、ただの年相応の少女の顔が覗く。
「……温かい……」
「でしょう? 教会の冷たい水行より、こちらのほうが肌にいいわ」
私は彼女の濡れた金髪を掬い上げ、丁寧に洗った。
キシキシと傷んでいた髪も、私の手にかかればすぐに絹糸のような輝きを取り戻すだろう。
「レティ様は……魔法使い、みたいです」
「あら、本職の前で言うと怒られるわよ?」
「……痛みが、溶けていくみたい……。こんなの、初めて……」
彼女は湯面に映る自分の顔を見つめ、ポツリと言った。
「教会では……癒やすばかりで、私が癒やされたことは一度もありませんでした。……奇跡の代償は、術者が一人で背負うものだと」
「もう背負わなくていいわ。私が全部、肩代わりしてあげる」
私は彼女の頬に付いた泡を指で拭った。
彼女のアメジストのような瞳(レンとは少し違う、淡い菫色に近い)が、私をじっと見つめ返す。
そこには、もはや不信感はない。あるのは、雛鳥が親鳥を見るような、絶対的な信頼と依存の萌芽。
***
夜。
嵐のような雨が、窓を叩いていた。
エレナは清潔なパジャマに着替え、ベッドに入っていたが、まだ眠れないようだった。
「……眠れないの?」
私が枕元のランプを灯すと、彼女は申し訳なさそうに布団から顔を出した。
「……ごめんなさい。……目を閉じると、聞こえるんです。苦しむ人たちの声が。……私がここでぬくぬくと休んでいる間に、誰かが死んでいるかもしれないと……」
幻聴だ。
過剰な責任感が作り出した、呪いのような強迫観念。
「手を出して」
私は彼女の左手を取った。
まだ少し冷たい指先。
私は自分の両手でそれを包み込み、体温を移す。
「エレナ。貴女、自分には価値がないと思っている?」
「……はい。奇跡を使えない私は、ただの穀潰しです」
「そう」
私は彼女の手のひらに、ゆっくりとキスを落とした。
「でもね、私にとっては、貴女がここにいて、息をしているだけで十分価値があるの」
「……そんなこと……」
「あるわ。貴女が生きていると、私が嬉しい。マリアも、ベルも、レンも、ソフィアちゃんも。……みんな、貴女が笑うのを見たいと思っている」
「……役に立たなくても、ですか?」
「ええ。役に立たない貴女が一番可愛いのよ」
全肯定。
機能価値(Doing)ではなく、存在価値(Being)への承認。
それは彼女が生まれて初めて受け取る、無条件の愛の言葉だった。
「……そんなこと、言われたこと……ありません……」
「これからは毎日言うわ。耳にタコができるくらいにね」
エレナの瞳から、涙が溢れた。
それは悲しみの涙ではなく、心のダムが決壊し、毒素が洗い流される浄化の涙。
「……レティ様の手は……神様よりも、優しいです……」
彼女は私の手を握り返し、頬り寄せた。
私の指の温度が、彼女の冷たい孤独を溶かしていく。
「神様は、何もしてくれませんでした。……祈っても、祈っても、痛みは消えなくて……。でも、貴女は……」
彼女の声が震え、やがて静かな寝息へと変わっていく。
握りしめた手は離さないまま。
彼女は初めて、「誰かのため」ではなく「自分のため」に、安らかな眠りを選んだのだ。
「おやすみなさい、エレナ」
私は彼女の涙に濡れた頬を拭い、明かりを消した。
◇
翌朝。
マリアが銀の盆に乗せて持ってきたのは、朝食ではなく、一通の分厚い封書だった。
封蝋には、教会の紋章である「十字と茨」。
そして、黒いリボン。
それは、教会からの最後通告を意味していた。
「……届きました、奥様」
マリアの声が硬い。
私は優雅にナイフで封を切り、羊皮紙を開いた。
『異端審問召喚状』
『被告人:レティーティア・フォン・ローゼンタール』
『罪状:聖女誘拐、並びに神への冒涜』
文面には、三日以内に教会へ出頭し、聖女を返還せよ。さもなくば、ローゼンタール家を「破門」とし、全財産を没収する――という、脅し文句が並んでいた。
「……破門、ですって」
私は手紙をテーブルに放り投げた。
破門されれば、貴族としての社会的地位は抹殺される。商取引も停止され、使用人たちも路頭に迷うことになる。
教会は本気だ。彼らの「ドル箱」を取り返すためなら、一つの侯爵家を潰すことなど躊躇わない。
「どうなされますか? 王家に介入を依頼しますか?」
マリアが問う。
ソフィアちゃん経由で王家に泣きつけば、一時的には凌げるかもしれない。けれど、それでは根本的な解決にはならない。
「いいえ。……喧嘩を売られたのなら、買い占めて差し上げるのが礼儀よ」
私はニッコリと微笑んだ。
その笑顔を見て、マリアが小さく震える。彼女は知っているのだ。私がこの笑顔を見せる時が、一番恐ろしい(そして楽しい)作戦が始まる合図だと。
「マリア。教会の『裏帳簿』……手に入れられるかしら?」
「……お任せください。レン様の透過魔法と、ベルナデット様の陽動があれば、今夜中にでも」
「素晴らしいわ」
私は召喚状を、キャンドルの火にかざした。
羊皮紙がチリチリと燃え上がり、黒い灰になっていく。
神の代理人を気取るなら、その化けの皮を剥がしてあげましょう。
そして、その下にある腐った根性を、私の全肯定でドロドロに溶かして差し上げるわ。
「さあ、忙しくなるわよ。……まずはエレナに、最高の朝食を食べさせてあげなくちゃ」
私は灰皿に落ちた灰をフッと吹き飛ばし、厨房へと向かった。
神様との戦争の準備は、まずは腹ごしらえから。




