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第13話 聖女は祈らない


「――そこを退きなさい。その『聖女』は教会の所有物だ」


薄暗い路地に、冷徹な命令が響く。

現れたのは、白と金のサーコートを纏った教会騎士たち。彼らの手には抜身の剣が握られ、その切っ先は迷いなく私たちに向けられていた。

彼らの瞳孔は散大し、呼吸は浅い。

それは正義感というより、獲物を逃せば自分たちが罰せられるという、強迫的な恐怖に突き動かされた獣の目だ。


「所有物、ですって?」


私は泥にまみれた少女――聖女エレナを抱きしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。


「人間を『物』と呼ぶなんて。……教会の教育カリキュラムには、基礎的な道徳の授業が含まれていないのかしら?」


「貴様、何者だ! 我々の公務を妨害すれば、異端審問にかけるぞ!」


「あら、怖い。……自己紹介が遅れましたわね」


私は扇を取り出し(片手はエレナを支えたまま)、優雅に開いて口元を隠した。

路地の腐臭を、扇から漂う薔薇の香りで遮断する。


「ローゼンタール侯爵夫人、レティーティアですわ。……この通り、行き倒れの可哀想な子猫を保護している最中ですの」


「侯爵夫人……だと? ええい、関係ない! その女は教会財産だ、渡せ!」


騎士の一人が痺れを切らし、剣を振り上げる。

瞬間。


「――下衆が。我が主人の御前で、鉄屑を振り回すな」


銀色の閃光。

ベルナデット(ベル)の剣が、騎士の剣を甲高い音と共に弾き飛ばしていた。

彼女は私の前に立ち塞がり、動く城壁のごとき威圧感を放つ。


「王宮騎士団第三部隊、ベルナデットだ。……この方の温情ある保護活動を妨げるなら、王家への反逆とみなして私が切り捨てる」


「ひっ……『鉄壁』のベルナデット……!?」


さらに、レンが私の背後から顔を出し、不吉な紫色のスパークを指先で弄びながらニヤリと笑う。


「俺……いや、私もいるよ。黒焦げになりたい奴から前に出な」


物理最強の騎士と、火力最強の魔術師。そして証人としての第二王女ソフィアちゃん。

この布陣を前にして、さすがの狂信的な騎士たちもたじろいだ。


「ち、チクショウ! 覚えていろよ!」


彼らが捨て台詞を残して後退する隙を見逃さず、私たちはマリアの待機させていた馬車へと滑り込んだ。


***


屋敷に戻ると、そこは即席の野戦病院と化した。

客間に運び込まれたエレナの体は、明るい照明の下で見ると、想像以上に凄惨な状態だった。


「……酷い」


ソフィアちゃんが口元を押さえて絶句する。

マリアと二人がかりで、泥だらけの聖衣を脱がせた時、その白い肌に刻まれた「代償」が露わになったからだ。


背中、腕、そして足。

全身を這うように、赤黒い亀裂が走っている。

それは鞭で打たれた傷ではない。内側から焼き切れたような、魔力回路の壊死痕。

いわゆる「聖痕」と呼ばれるものだが、実態はただの生体崩壊だ。

ソファアの見立ては。


「……酷使されすぎです。治癒の奇跡は、術者の生命力を分け与える行為なんです。これじゃ、自分の命を削って他人の傷を埋めているようなもの……」


レンが顔を歪め、吐き捨てるように言った。


「教会め……。『痛み』を変換する触媒もなしに、直結で奇跡を使わせてやがったな。これじゃ消耗品だ」


私は無言で、エレナの痩せこけた体に温かいタオルを当てた。

あばら骨が浮いている。

食事すら満足に与えられていなかった証拠。

彼女は「聖なる器」として清貧を強いられ、燃料(信仰)だけを強制注入され続けてきたのだ。


「……う、ぅ……」


ベッドの上で、エレナがうわ言を漏らす。


「……いけ、ません……。わたし、は……いのら、ないと……」


彼女の指が、虚空を掴もうとする。

祈りのポーズ。それが体に染み付いた条件反射であることが、見ていて痛々しい。


「マリア。包帯と、特製の軟膏を」

「はい。痛み止めと、栄養剤も調合してあります」

「レンは魔力点滴を。一度に注ぎすぎないように」

「わかってる。この症状については専門家だぜ」


私たちは手分けして、彼女の傷ついた体をケアした。

壊死しかかった皮膚に薬を塗り、包帯で保護する。

冷え切った手足をマッサージし、血流を促す。

それは、壊れかけた精密なビスクドールを修復する作業に似ていた。


数時間後。

ようやく呼吸が安定し、エレナが薄く目を開けた。

焦点の定まらない鳶色の瞳が、天蓋のレースを映す。


「……ここは……天国、ですか……?」


「いいえ。ローゼンタール侯爵家よ。……天国より少しだけ、お砂糖の量が多い場所」


私が覗き込むと、彼女はビクリと身を縮めようとした。

けれど、全身を包む包帯と、ふかふかの布団がそれを許さない。


「……わたし……かえらなきゃ……」

「どこへ?」

「きょうかい、へ……。あしたも、ミサが……ちゆを、待っているひとが……」


掠れた声。

彼女は起き上がろうとして、力がなく枕に沈む。


「だめ、です……。わたしがいないと……神様が、お怒りに……」

「神様?」


私は彼女の冷たい手を握った。


「ねえ、エレナ様。その神様は、貴女に『死ね』と仰ったの?」


直球の問いかけ。

エレナの瞳が揺れる。


「……聖女は、人々のために尽くすもの……。わが身を捧げることこそ、最高の、よろこび……」


教え込まれた教義マニュアル

彼女の自我は、その美しい言葉の鎖で何重にも縛り付けられている。

「喜び」と言いながら、その目からはツーと一筋の涙が流れていた。体は正直だ。生きたいと、痛いと、叫んでいる。


「……嘘ね」


私は彼女の涙を指先で掬い取った。

しょっぱい、海水の味。


「貴女の体は、もう限界よ。これ以上祈れば、貴女は死ぬわ」

「……それが、みこころなら」

「嫌よ」


私は短く、断定した。

エレナが驚いたように私を見る。


「……え?」

「私は嫌。貴女のような可愛い子が、お爺さんたちの身勝手な理屈ですり潰されるなんて、美学に反する(ゆるせない)わ」


私は彼女の手を、自分の頬に押し当てた。


「神様が貴女を見捨てても、私が許さない。神様より先に、私が貴女を救ってみせる」


「……どう、して……。わたしは、ただの道具……」

「道具じゃないわ。貴女は、温かい手を持った女の子よ」


私はサイドテーブルから、温かいスープの入ったカップを手に取った。

マリアが作った、野菜とミルクのポタージュ。

とろりとした黄金色。


「さあ、口を開けて。……祈る前に、まずは胃袋を満たすのよ」


「……たべたら、バチが……」

「当たらないわ。もし当たったら、私がそのバチを食べてあげる」


スプーンを差し出す。

湯気と香り。生存本能を刺激する、圧倒的な「生」の誘惑。

エレナは震えながら、小さく口を開けた。


一口。

温かい液体が喉を通り、空っぽの胃袋に落ちる。

その瞬間、彼女の瞳孔が開いた。

体が震え、目から涙が溢れ出す。


「……おい、しい……」

「そう。……いい子ね」


私は彼女の頭を撫でた。

髪はバサバサで、艶がない。これから私が、たっぷりの椿油で磨き上げてあげなくては。

彼女は泣きながら、スープを飲み干した。

そして、糸が切れたように深い眠りへと落ちていった。


          ◇


翌朝。

ローゼンタール家の正門前は、物々しい雰囲気に包まれていた。

数十人の教会騎士団が列をなし、その中央には豪奢な法衣を纏った司教の姿がある。

彼らは門を叩き、威圧的な声を張り上げていた。


「開門せよ! 神の使徒である我らを拒むか!」

「聖女エレナを返せ! 異端の家め!」


罵声と怒号。

近隣の住民たちが、怯えて遠巻きに見守っている。


屋敷の中。

玄関ホールで、マリアとベルが私を見つめる。

二人の顔には、「戦う覚悟」が宿っている。


「奥様。強行突破してくる気配です」

「迎撃しますか? 不法侵入者として処理することは可能です」


「いいえ、野蛮なことはしないわ」


私は鏡の前で、最後の身だしなみを整えた。

今日のドレスは、清廉潔白を示す純白のモスリン。ただし、胸元にはローゼンタール家の深紅の薔薇を一輪。

聖女を守る「守護者」としての装いだ。


「話し合い(という名の通告)をしましょう」


私は扇を開き、優雅に歩き出す。

重厚な扉が、マリアの手によって開かれる。


朝の光の中、現れた私を見て、騎士たちの罵声が一瞬止んだ。

私は階段の上に立ち、司教を見下ろして微笑んだ。


「まあ、朝早くから賑やかですこと。……ミサの時間はお間違えではありませんか?」


「黙れ、背教者め! 聖女を誘拐した罪、万死に値するぞ!」


司教が唾を飛ばして叫ぶ。

彼の顔は脂ぎっていて、エレナの痩せ細った体とは対照的だ。


「誘拐? 人聞きの悪い。……私は、怪我をして倒れていた少女を保護しただけですわ」

「問答無用! 直ちに引き渡せ! さもなくば……」

「お静かに」


私は扇を閉じ、唇に当てた。

声のトーンを一段落とす。それだけで、場が凍りつく。


「あの子は今、やっと眠ったところなのです。……久しぶりの、痛みのない朝を迎えているのですよ」


「な……」


「貴方方が神に祈る声よりも、あの子の寝息のほうが、今のこの世界には尊い音楽だと思いませんか?」


「き、貴様……神を愚弄するか!」


騎士たちが剣に手をかける。

その瞬間、私の背後から、凄まじい殺気が放たれた。

ベルナデットの剣圧。レンの魔力。そして、ソフィアちゃんの王家の威光。


「……お引き取りを」


私は冷ややかに、けれど口元には慈愛の笑みを浮かべて宣告した。


「彼女は当面、私が『治療』いたします。……もし不服があるのなら、教会の帳簿と労働記録をすべて公開した上で、王家立ち会いのもと議論しましょうか? この世に一人しかない聖女の『消耗品扱い』の件について」


司教の顔色が変わった。

彼らにも後ろ暗い自覚はあるのだ。公になれば困るのは彼らのほう。


「……くっ、覚えておれ! ただで済むと思うなよ!」


司教は捨て台詞を吐き、踵を返した。

騎士たちも、悔しげに私を睨みつけながら撤退していく。


その背中を見送りながら、私は深く息を吐いた。

とりあえず、第一波は撃退した。

けれど、これは宣戦布告に過ぎない。

教会は必ず、より陰湿な手段で「所有物」を取り返しに来るだろう。


「……負けないわよ」


私は門の向こう、青い空を見上げた。

神様がいるとしたら、きっと性格の悪い老人だわ。

だって、こんなに可愛い女の子たちを泣かせて、平気な顔をしているのだもの。


なら、私が新しい神様スポンサーになるしかないわね。

甘くて、優しくて、絶対に罰を与えない神様に。



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