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第12話 静かなる包囲網

ローゼンタール侯爵家のサロンは、今や王国で最も人口密度の高い「幸福の飽和点」と化していた。

午後三時。窓から差し込む陽光は、琥珀色の紅茶を透かして、テーブルクロスに金色の影を落としている。


「はい、あーん」

「……んぐ。……甘すぎだろ、これ」


長椅子の上で、レンが口を開け、マリアが焼きたてのマドレーヌを放り込む。

レンは文句を言いながらも、尻尾があったら千切れんばかりに振っていそうな顔で咀嚼している。餌付け完了ね。


「あら、甘みが足りなくて? では次は私の特製ジャムを……」

「マリア、それ以上は過積載だ。レンの血糖値が心配になる」


ベルナデット(ベル)が呆れたように指摘しつつ、自分も手元のクッキーをリスのように齧っている。彼女はもう、騎士の正装である、あのいかめしい甲冑をつけていない。私服――といっても動きやすいパンツスタイルだが――で自然にお茶会に参加するまでになっていた。


「皆様、計算の邪魔ですわよ! ……ああもう、ここの係数が合わない!」


その横で、ソフィアちゃんが眉間に皺を寄せ、数式と格闘している。

彼女もまた、「視察」という名目で週の半分はこの屋敷に通っていた。王宮よりもこちらのほうが、空気が美味しいらしい。


私はその混沌と調和が入り混じった光景を、少し離れた特等席から眺めていた。

手の中のティーカップが、カチリと小さな音を立てる。


(……平和ね)


メイド、騎士、魔術師、王女。

属性も立場もバラバラな彼女たちが、一つのテーブルを囲んでいる。

共通項はただ一つ。「私に甘やかされている」ということだけ。

彼女たちの体から立ち上る「安心感」の匂いは、どんな高級な香水よりも芳しい。


けれど。

私の直感は、この平穏な紅茶の水面に、微かな波紋を感じ取っていた。


「……奥様?」


マリアが敏感に反応する。

さすがは私の筆頭メイド。私の呼吸が一拍遅れただけで、即座に異変を察知するとは。


「いいえ、なんでもないわ。……ただ、少し『風』が変わった気がして」


私は視線を窓の外へと向けた。

秋の風が、庭の木々を揺らしている。

その風の中に、微かに混じる鉄と埃の匂い。そして、焦げ臭い狂信の気配。


「風、ですか? 今日は穏やかな南風ですが」

「ええ。でも、北の方角――教会のほうから、嫌な湿気を感じるの」


私の言葉に、全員の動きが止まる。

ソフィアちゃんが顔を上げ、不安げに私を見た。


「……教会、ですか? そういえば最近、大司教様が頻繁にお父様(国王)に謁見を求めているそうですわ。『聖女の体調不良により、寄付金を増額せよ』とか何とか」

「体調不良?」

「ええ。なんでも、奇跡の行使には多大な消耗が伴うので、回復のための高価な儀式が必要だとか」


胡散臭い話だ。

聖女の力が「信仰心」を燃料にするものなら、必要なのは金ではなく、安息のはず。

それを金銭要求の口実にするあたり、教会の台所事情も、あるいは道徳心も、相当に腐敗が進んでいると見て間違いない。


「……聖女、か。俺、塔から見たことあるよ」


レンが口元の粉を拭いながら呟く。


「真っ白な服着て、パレードの先頭で手振らされてた。……あれ、死んだ魚みたいな目をしてたな。俺たち実験体と同じ匂いがした」

「死んだ目……」

「ああ。生きてるけど、中身が空っぽみたいな」


レンの言葉が、サロンの空気を重くする。

聖女。国の守護者であり、癒やしの象徴。

けれどその実態が、もし「生きた道具」として扱われているのだとしたら。


(……放っておけないわね)


私はカップをソーサーに戻した。

その時、微かな違和感。

指先を伝う、ピクリとした感触。

見ると、愛用していたウェッジウッドのカップの縁に、髪の毛ほどの細い亀裂ひびが入っていた。


「あら」

「奥様! お怪我は!?」

「平気よ。……でも、形あるものはいつか壊れるという啓示サインかしらね」


私は割れたカップをそっと置いた。

日常に走る亀裂。

それは、外へ出ろという合図だ。


「皆様。少し街へ出かけましょうか」

「へ? 今からですか?」

「ええ。新しいカップを買いに行きたいの。……それに、少し『迷子』がいないか、パトロールも兼ねてね」


***


王都の大通りは、夕暮れの活気に満ちていた。

馬車の車輪が石畳を叩く音、物売りの声、家路を急ぐ人々の足音。

けれど、その賑わいの裏側に、奇妙な緊張感が張り付いているのを、私は肌で感じていた。


「……教会騎士が多いな」


護衛として同行したベルが、鋭い視線で周囲を警戒する。

彼女の言う通り、白に金の刺繍が入った制服を着た教会騎士たちが、二人一組で巡回している姿が目立つ。

彼らの目は、民を守るためではなく、何かを探し、監視するための冷たい光を宿している。


「何かを探しているのかしら?」

「公式発表はありません。ですが、先ほどすれ違った騎士が『脱走』『確保』と囁いているのが聞こえました」

「脱走……」


やはり、ただ事ではない。

私は隣を歩くレンの手を握った。彼女はフードを目深に被り、怯えたように私の袖を掴んでいる。


「大丈夫よ、レン。貴女は私が守るわ」

「……うん。でも、なんか嫌な感じがする。空気が、ベトベトしてる」


魔力に敏感なレンが言うなら間違いない。

この街には今、正常ではない何かが潜伏している。


私たちは目的の陶器店で買い物を済ませ(もちろん、店主に「素敵な品揃えね」と一言添えて、大幅な値引きを勝ち取った)、裏通りを通って馬車へ戻ろうとした。


その時だ。

湿った路地の奥から、何かが倒れるような、鈍い音が聞こえたのは。


「……今の音」

「猫、でしょうか?」


マリアが首を傾げる。

いいえ。猫にしては重すぎる。人間が、それも意識を失って崩れ落ちる時の音だ。


「行ってみましょう」

「レティ様、危険です!」

「ベル、お願い」


私の視線だけで、ベルは瞬時に「盾」モードに切り替わった。

彼女が先頭に立ち、私たちは薄暗い路地へと足を踏み入れる。

そこは、表通りの華やかさとは無縁の、ゴミと生活排水の匂いがする場所。


その突き当たり。

ゴミ捨て場の陰に、白い布の塊がうずくまっていた。


「……あ」


レンが息を呑む。

白い布。それは教会の上級聖職者だけが着用を許される、純白の聖衣だ。

ただし今は泥と汚水で汚れ、見る影もない。


「……誰かいるのか?」


ベルが慎重に声をかける。

反応はない。ただ、ヒュー、ヒューという、壊れたふいごのような呼吸音だけが聞こえる。


私はベルの制止を振り切り、駆け寄った。

泥だらけのフードをめくる。


そこにいたのは、透き通るような金色の髪と、不健康なほど白い肌を持つ少女だった。

年齢はレンと同じくらいだろうか。

けれど、その顔には生気が全くない。目の下には濃い隈があり、唇はチアノーゼで紫色に変色している。


「……聖女、様……?」


ソフィアちゃんが、信じられないものを見る目で呟いた。

間違いない。肖像画で見たことがある、国の至宝。

名を、エレナ。

癒やしの奇跡を行使する、唯一無二の存在。


彼女が、なぜこんなゴミ捨て場で倒れているのか。

その理由は、彼女の腕を見れば一目瞭然だった。


袖口から覗く細い腕に、無数の「聖痕」――いや、魔力枯渇による壊死の痕が刻まれていたからだ。

赤い亀裂のような傷跡。

それは、限界を超えて力を搾り取られた者が至る、身体崩壊の予兆。


「……ひどい」


レンが口元を押さえる。

同じ「搾取される側」として、その傷の意味を痛いほど理解したのだろう。


少女の瞼が、微かに震えた。

薄く開かれた瞳は、焦点が合っていない。


「……まだ……ですか……?」


掠れた、ガラス片のような声。


「……つぎの……ちゆを……。わたしは……まだ、うごけ、ます……。だ、から……お仕置きは……しないで……」


条件反射の言葉。

「癒やし」を求められているのではない。「癒やさないと罰せられる」という恐怖に支配されている。

彼女にとって、奇跡は神の恵みではなく、自分を縛り付ける鎖そのものなのだ。


私の胸の奥で、静かな、けれど熱い怒りの炎が着火した。

私の頭脳が、その冷静な計算式が、教会という組織の「罪」を弾き出す。

労働基準法違反? 人権侵害?

いいえ、もっと単純な罪。


「……女の子を、こんなになるまで使い潰して、『神の愛』を語るですって?」


私は自分のショールを外し、震える少女の体を包み込んだ。

泥汚れなど気にしない。

今はただ、この冷え切った体に、一刻も早く熱を与えなければ。


「……レティ様、追手が来ます。……足音が複数」


ベルが剣の柄に手をかけ、路地の入り口を睨む。

カシャン、カシャン、と硬質な足音が近づいてくる。教会騎士たちだ。


「ここだ! 魔力反応があったぞ!」

「聖女様を確保しろ! 逃がすな!」


怒号が響く。

彼らはこの少女を心配して探しているのではない。

逃げ出した「高価な備品」を回収しに来たのだ。


「……どうしますか、奥様」


マリアが静かに問う。

王家と並ぶ権力を持つ教会。その騎士団と正面から対立すれば、ローゼンタール家は「異端」として糾弾されるリスクがある。

政治的な正解は、ここで彼女を見捨てて立ち去ることだ。


けれど。

私が選ぶのは、いつだって「全肯定」という名の革命だけ。


「マリア。この子を抱きなさい。馬車へ運ぶわ」

「……承知いたしました」

「ベル、道を開けて」

「御意。……泥掃除は得意ではありませんが、やってみせましょう」


ベルが剣を抜く。

レンが私の隣で、小さな拳を握りしめ、青い魔力を練り始める。

ソフィアちゃんも、震えながらも私の袖を掴み、頷いた。


「……わたくしも、証人になりますわ。教会の非道を、王家に報告するために」


全員の覚悟が決まった。

私は腕の中の、壊れかけた聖女の耳元で囁いた。


「もう、頑張らなくていいわ」


少女の瞳から、ツーと一筋の涙がこぼれた。

それが合図だった。

私たちは、神の代理人を名乗る追手たちに向けて、静かな宣戦布告の一歩を踏み出した。



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