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「言葉」は道具か、それ以上か。

 「言葉」は、私たちが編み出した存在であり、意思疎通や記録のための道具であるということができるだろう。そうだとするならば、「言葉」は単なる道具なのか、それとも私たちにとってはそれ以上の意味を持つものなのか。





 「言葉」は本来的な意味で、道具であると言えるだろう。私たちは、形のないもの(例えば「私」自身や、感情など)に言葉でラベリングすることで形を与え、「それに対しての思考」を可能にしてきた。言葉は抽象化するための道具だ。あの川と、この川が同じ「川」であると認識できるのも、言葉によって「川」という名前でくくられているからだ。だから、新しい川に出合った時も、「川」ということを覚えるだけで済むから、記憶する内容も効率化できる。

 尤も、これは私たちが「言葉」という道具を手にいれる場合から認識としては行われてきていたのではないかと思う。それを明確に決まった形を持つ「言葉」を使うことで、まるで定規のように、たくさんの形のないものを測ることができるようになったのだ。

 だがこれが「言葉」の特殊な面で、「言葉」は文字として著されるだけではなく、主観の内側に存在するのだ。具体的に言えば、私たちは「言葉」を使って思考しているということだ。物事に「名前」を付け、抽象化して脳内で扱うことを(教育により)あまりにも自然に行うようになったため、もはや思考と半一体化してしまっており、どうやっても離すことができないほどになっている。足の裏を守るために履いていたはずの靴は、あまりにも履くことが普通になっているからもはや「履かない」という選択肢を取ることは(基本的に)できない。「言葉」はそれよりも更に、脱ぐことが至難の靴だ。

 とはいえ「言葉」が存在しなければ生きていけないか、と言われたらそうではないだろう。現在の文明や生活を維持することはできないだろうが、言葉を持たない生き物が存在し太古の昔に私たちが言葉を持たずに生きていたことを考えれば、必須の存在ではないはずだ。

 故に「言葉」は私たちが用いる「道具」の中でも最上位と言っても良いほど慣れ親しんだ必需品的な存在であり、その一方であくまでも「道具」でしかないと言えるだろう。

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