「理解されないこと」は孤独か、生きること理解されることはどちらが先に終わるのか。
理解されないこと、は本当に孤独なのだろうか。むしろ、完全に理解されることがないからこそ、私たちは考え続けられるのではないだろうか。
そして、その「理解されること」と「生き続けること」はどちらが先に終わるのだろうか。
理解されないことは、本当は孤独ではない。むしろ前提として、私たちが主観から逃げられないという議論の時点で、他人の存在の根拠を得られない私たちは孤独だから。理解されないことの前に、既に孤独はあるのだと思う。理解した、されたと思うことは私たちに安心感をもたらすが、これは真っ暗な空間で誰かが隣にいると安心するのに似ていると思う。1人が2人いればもう1人じゃない、というような。本質的に孤独だったとしても、「孤独ではない」と感じられることが「理解」という感覚(幻想)に見出される価値なんだと思う。
私たちは本当の意味で他者を理解することはできないが、だからこそ思索し続けられる、というわけではないと思う。そもそもとして、自分でも本当に自分を正確に理解できているかなんぞ確かめることはできないのだから、なんであれ「神」的視点からの「事実」の理解はできないから、自己理解ですら終わりがない。だからこそ、変わったっていいし、変わらなくて良いという自由があるのだ、私たちには。そしてそれは、理解されることよりも、生き続けることが先に終わるということを示していると言えるだろう。理解されることは、永遠にないから。




