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「理解されること」は終わりか救いか。

 他者によって「理解される」ことは、理解しようとする過程の終了となるのだろうか。そうだとすれば、表現することは自らの思考を完了させるものなのか、殺してしまうものなのか。

 そうだとしても、理解されることは救いになるのだろうか。




 先に結論から言ってしまえば、完全に理解されることはないから、「理解される」その時は永遠に来ない。私たちは互いに主観でしか相手のことを理解することができないから、たとえ本当に相手のことを理解したと思っていても、本当に相手のことを理解できているかを心の中に入って確かめることはできないし、理解された側も、本当に理解されたかどうか同じ理由で理解できない。人体切断のマジックショーで、本当に箱の中の身体が切れているかどうかなんて、観客には分からないように。だから、他者に理解された瞬間、なんてものは来ないだろう.

 しかし、他者に理解されたと感じられる瞬間、ならあるだろうと思う。これで完全に理解してもらえた、と「私」が思えれば良いわけだから、それは全くあり得ない話じゃない。私が「言葉」という道具を使って表現し、それを他者が受け取り「理解した」と思ったとする。それを恐らく私たちは言葉やその他言動という道具を通じて伝えるだろうが、それによって理解されたと互いに思ったとする(本当に客観的に、互いが思ったと仮定する)。繰り返すが、私たちは自分の主観でしか世界を見ることはできないため、非常に孤独である。故に、理解されることは共感と、自らが間違っていないという思考につなげることができるため、安心につながるだろうと思う。また、理解されたとして、その瞬間に「私」がその人に表現をする必要はなくなる。しかし、私は不変ではないため、「今」が過ぎ去れば既にその「理解」された「私」は過去のものになってしまうのだ。そういった意味で考えても、「理解」に終わりはないだろうと思う。

 表現を通した理解は真に叶えることはできないが、「理解」した、してもらえたと思うことは私たちにとって安心をもたらす。

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