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過去や未来はどこにあるのか、言葉で表現するということは何か。

 私たちが言葉で表現するということ、 それは他者に届くための行為なのだろうか、 それとも自らを分割して、世界に投げ出す行為なのだろうか? 言葉にした瞬間、「私の中の私」はもう“私ではない”可能性すらあるのではないだろうか。

 では、表現とは何なのだろうか。





 哲学を言葉という形にして表現するということは、数多無限にある私の自意識と私に見ることのできる世界の事象を、私自身が理解できる形にするということだ。過去も未来も概念で、本当に実在するのはただ「現在」のみではなかろうか。考えた傍から、私たちの思考は「現在」のものではなくなっている。空気に触れると刻一刻と酸化していく生ハムの塊を、際限なく輪切りにしていっているようなイメージだ。切った瞬間は酸化していなかった断面も、切ったその瞬間から酸化し始める。私には「今」しかないが、「今」はあまりにも一瞬というか、それすらも概念であり捉えられるものでもない。だが、「過去」「現在」「未来」と名前を付けることによって「今」というものをあまりにも簡単に理解することができないだろうか。私たちが行っている「言葉にする」というのはそういうことで、表現というのは世界を理解しようとする私たちの必死の足掻きなのだと思う。数学で、公式を覚えてしまえばいちいち数列の計算で、足し算から始めなくて良いのと同じだ。私たちは名付けて、法則という概念を見出すことによって、世界を簡略化して見ている。ではなぜ表現するのかと言えば、自分が理解するためでもあるし、外部にその表現を記録することによって自分では記録しきれない量の「理解」を保存するためであろうし、他者と共有することによって集合知を高め、一人では到達しえない領域まで「理解」を及ばせるためであろう。

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