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「私」の始まりと、終わりはどこだろうか。

「私」という存在は、世界の一部であるが、「私」は私の目に見える主観的な世界の創造主でもあるのならば。この受動的かつ能動的な「私」という存在はいつ始まり、いつ終わると言えるのだろうか。




 存在としての私は、どこまでもどこまでも過去へと遡ることができるだろう。細胞として、進化として、もとになったものがどこかにあるから。それこそ、ビックバンまで遡ることもできよう。明確に「私」である始まり、というのであれば受精した瞬間であろう。

 そして、主観的世界を想像する意識体としての「私」ということであれば、これは「私」が(無意識的にでも意識的にでもかまわないが、恐らく大半以上の人が無意識だろう)初めて世界を認識した瞬間であろう。少なくとも既に、外界の刺激に反応して母親のお腹を蹴っている頃には、「私」の中にどんなに狭かろうと世界はあったはずだから、その時点では世界は始まっている。

 終わりは、「死」によってもたらされる。先の論に則れば広くは後世に私の一部は引き継がれていくが、分かたれた後も私は「私」として存在しているため、被創造物としても世界の創造者としての私も、どちらも「死」によって世界と断絶され生命活動を停止すると同時に終わるということはできるだろう。

 しかし、「生」も「死」も、いずれも私たち人間が作り出した概念である。故に、定義を自由に決めることができるのもまた、私たち人間だろう。そして世界には、独立して動いていた「私」という存在が、動かなくなり世界の他の物に吸収されるかどうかするのが私たちの呼ぶ「死」であり、ひとつの事実でしかない。だから、世界にとっては私たちに終わりはないだろう。たとえ世界が終ろうとも。

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