表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/25

自我のない観察は、私のものであるのか。

 もしも、自我を完全に消し去ることができたのならば、そこに観察は残るのだろうか。自我がない存在による観察は観察は成り立つのだろうか。

 もし「私」がいなくとも観察が成り立つのであれば、その観察が成り立つ「場」とは何なのであろうか。




 もし自我を完全に消し去ることができたとしたら、そこに「観察」は残らないはずだ。なぜなら、自我がない観察者の視点は、私の視点とは言えないからだ。私の自我が切って切り離せないものが、「私の観察」である。もし私以外の存在がこの世界を「観察」し得るのであれば、それは他者(自我があろうとなかろうと)の観察である。その観察が起こりうるのは純然たる「世界」の存在の内であり、その世界は私もその存在も、すべてを包み込みつつすべてに観察されうる。

 これがもし、私という意思の中から私の自我が消え去りただ何の感慨も抱かず世界を「見る」者としての観察であったとして、それは、私の観察ではない。「私」という入れ物に残った「観察」の残響である。そこには、「私」を「私」であると認識する自我がないからである。虚ろな入れ物に響く音は、ただの反響にすぎない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ