自我のない観察は、私のものであるのか。
もしも、自我を完全に消し去ることができたのならば、そこに観察は残るのだろうか。自我がない存在による観察は観察は成り立つのだろうか。
もし「私」がいなくとも観察が成り立つのであれば、その観察が成り立つ「場」とは何なのであろうか。
もし自我を完全に消し去ることができたとしたら、そこに「観察」は残らないはずだ。なぜなら、自我がない観察者の視点は、私の視点とは言えないからだ。私の自我が切って切り離せないものが、「私の観察」である。もし私以外の存在がこの世界を「観察」し得るのであれば、それは他者(自我があろうとなかろうと)の観察である。その観察が起こりうるのは純然たる「世界」の存在の内であり、その世界は私もその存在も、すべてを包み込みつつすべてに観察されうる。
これがもし、私という意思の中から私の自我が消え去りただ何の感慨も抱かず世界を「見る」者としての観察であったとして、それは、私の観察ではない。「私」という入れ物に残った「観察」の残響である。そこには、「私」を「私」であると認識する自我がないからである。虚ろな入れ物に響く音は、ただの反響にすぎない。




