森野春香の場合【4】
【藤奏多、退所のお知らせ】
春香の元に、一通のメールがやってきた。それは、Springのファンクラブから送られてくるメールアドレス。
Springの解散発表から、すでに二週間が経過していた。
【弊社所属タレント藤奏多は、本人の申し出により退所することとなりました】
春香は、散々目にしたネットニュースに書かれていた事務所移籍とバンド結成の話が事実だったのかとすぐに思い至る。
そんなことはないと思いたかったけど、このメールに書かれている文章を読む限り、認めるしかないのかもしれない。
SNSを開くと、やっぱり騒ぎになっていた。けれど、たくさん流れてくる投稿文の中に、藤冬馬の公式アカウントがあった。
そうか、冬馬くんはSNSやってるんだ。
知ってはいたのに、気にしていなかったことに気が付く。Winterの応援用に作ったアカウントに切り替えると、春香はすでに藤冬馬をフォローしていた。今まで、全然見てなかったけど。
【兄がSNS開設したってさ↓】
冬馬くんのアカウントの投稿文には、藤奏多のアカウントへのリンクが貼り付けられていた。
え、藤くんSNS開設?やったあ!
さっきまで退所のメールで落ち込んでいたのは何処へやら。春香の中にワクワクとした気持ちが湧いてくる。でも、そこに表示された藤奏多のアカウントは、想像と様子が違っていた。
【SNS開設しました!
そして皆さんに報告があります。
バンド結成しました!
バンドの公式アカウントはこちら↓
これからもよろしくね】
投稿文には、一緒に藤くんの写真が載せられていた。アーティスト写真になるのだろうか。でも、これはなんて表現したらいいんだろう。
デニムのダメージジーンズにゴテゴテとしたシルバーのチェーンを着けて、革ジャンを羽織って、あっかんべーと舌を出してそこにつけられたピアスを見せつけるようなポーズの藤奏多の姿が……
春香は、そっとスマホの画面を閉じた。あれは、誰だ?いや、藤くんだ。間違いない。でも、誰なんだあれは。間違いなく、藤奏多なのに、藤奏多ではない。
そう、春香の好きだったSpringの藤奏多ではなかった。
見間違いをしたのかもしれないと思い、春香はもう一度スマホを開く。けれどそこに表示されたのは、やっぱり別人のような藤くんの姿だった。キラキラ王子様、どこ行った?このヤンキーは、誰?そんな感じ。
でもこの人は、私の推しだ。推しのはずだ。ずっと憧れてきた、弟と仲良しで、辛い時に何度も救ってくれた、理想のお兄ちゃんである、あの藤奏多のはずだ。
なんか物凄く、嫌だ。嫌だと言っていいのかも分からないけれど、嫌だ。でも、この人は私の推しのはずだ。それは間違いない。
バンドの公式アカウントの方も見てみようとリンクを踏むと、そこにはヤンキー姿の藤くんが、似たような格好の男たちに囲まれている映像が貼られていた。
映像を見ると、何やら爆音でギターやドラムの音が鳴っていて、藤くんがラップを披露している。
ナニコレ?え、無理なんだけど。
春香はそう思いながらも、でも藤くんだしと思って、そのアカウントのフォローボタンを押そうとした。でも、気がつけば指先は戻るボタンを押していて、春香がそのアカウントをフォローすることはなかった。
明日からまた、仕事に行くことになっている。昨日くらいから治り始めていた胃の痛みは再度復活してキリキリと痛みだし、とても気持ちが悪い。でも、行くと決めた以上、明日は仕事に行く。
ストレスの元から離れるようにと言われていたことを思い出し、春香はそのままスマホの電源を落とした。これは夢、全部全部夢なんだと、そう思いながら。
♢
「森野さん大丈夫ですか?私は全然大丈夫じゃないです!」
「私はまあ、大丈夫、なのかな?うん。ごめんね心配かけて。どうしたの?」
翌日、なんだかモヤモヤした気分のまま職場に行くと、すぐに部下に話しかけられる。朝から元気だなと思いながらも、何か言いたそうなのでとりあえず聞くことにした。
「聞いてくれます!?私Winter好きってこの前言ったじゃないですか。そのアイドルグループのセンターの、冬馬くんのお兄ちゃんなんですけど!Springの藤奏多って言ったら知ってたりしません?あの人まじでやばいです、いきなり退所したかと思ったらヤンキーみたいな格好でバンドやるとか言い出したんですよ!」
いきなりその話かと、春香はただ圧倒されて顔をしかめた。今はその話、聞きたくないし、したくもないのだけど。
「なんかもう、ちょっと私ガッカリです。冬馬くんって、キラキラアイドルのお兄ちゃんに憧れてアイドル目指したって言ってたんですよね。だからこう、ずっと理想のお兄ちゃんのままでいて欲しかったんですよ私としては。だって、お兄ちゃんがアレだと冬馬くん影響されそうで怖いですもん。うわー、想像しただけで嫌です。何なんですかあれ、無理です私」
部下はオタク特有とも言える捲し立てるような口調で一気に言葉を吐き出すと、なんかすみません、と謝ってきた。
「……藤くん、今まで我慢してたのかな」
思わず呟いてしまい、ハッとする。やばい、ここ職場だった。
「ん?森野さん、なんか言いました?」
「ううん。なんか大変だねって言っただけ」
部下には春香の言葉が聞こえていなかったようで、安心する。でも、そうか。Winterのファンから見ても、あれはちょっと嫌だなって思うのか。自分の感覚は、間違ってなかったんだな。
春香の胃の痛みが、少しだけやわらいだ気がした。
♢
藤奏多の退所発表から、数日が経った。
春香はなんとなくテレビをつける。いつもなら見ないけれど、朝の番組に出ている冬馬くんの姿を見てから仕事に行こう。少しは気晴らしになるかもしれない。そう思ったから。
『兄の話ですか?俺、本当に何も知らなかったんですよ。本当ですって!まあでも、兄の決めたことですからね。尊重したいし、応援したいです。もう兄も三十歳超えてますし、やりたいことやって欲しいです。もちろん、俺も頑張らなきゃなって思ってますよ。まずはWinterとして、Springを超えたいですね。やっぱり人気アイドルだった兄が憧れなのは変わりませんから』
冬馬くんは、テレビの中でそう言って笑っていた。その姿がやけに昔の藤くんと重なり、私は、かつて藤くんを気になる存在として認識した日のことを思い出す。かつて、藤くんは、こう言っていた。
『ほんと可愛いやつなんですよ。歳離れてるんで、冬馬はまだ中学三年で、まだデビューはしてないんですけど。よかったら俺のファンの人にも応援してもらいたいな。冬馬、めっちゃいいやつなんで!』
あの時、藤くんは言った。冬馬くんのことを、応援してくれと。
今まで、私は冬馬くんのことをずっと藤くんの弟としてしか認識していなかった気がする。掛け持ちで応援するというのも口先だけで、あまりWinterのことも知らなかったし。
そういえば、冬馬くんは私と同じ年齢だった。つまり、今は二十四歳。
ああ、そうか。だからか。春香は勝手に納得した。私が藤くんを好きになった時の、藤くんの年齢と同じだ。だからきっと、藤くんと冬馬くんが、重なって見えるのかもしれない。
『Winterってみんないいやつなんですよ。俺が一番先輩ではあるんですけど、みんなすごいっていうか。だから俺以外のメンバーのことも応援して欲しいっすね。兄のこともそうですけど、つまり、Winterをよろしくお願いします!今度新曲出ます!』
テレビの中で一生懸命に話す冬馬くんの姿が、やっぱり藤くんに似ているなと思って微笑んでしまう。
その後流れた彼らの新曲のミュージックビデオでは、Springのようにキラキラとして華やかな衣装を着たWinterのメンバーが、しなやかに踊っていた。
ああ、なんだかSpringみたいでかっこいい。好きだな。昔の藤くんがセンターで踊っているみたい。……冬馬くん、かっこいいな。
春香はしばらくWinterの映像に釘付けになっていたけれど、ふとテレビの端に映し出されている時計が目に入る。やばい。もう行かなければ遅刻する時間だ。
慌てて鞄を手に取り、テレビの電源を落として玄関の外に向かう。
春香の胃の痛みは、この日からすっかり無くなっていた。