森野春香の場合【2】
き、気持ち悪い……。
春香は家に帰ると、すぐに胃薬を飲んでベッドに寝転がる。
さっきカフェで無理に胃の中に詰め込んだパンケーキと、帰りの電車に揺られたせいでずっと吐き気がしていたから。
「……そうだ、美奈さんに連絡」
美奈はいきなり帰ってしまったとはいえ、私があの後どうしたか気になっているかもしれない。何もなく帰宅できたとだけ、言っておかなければ。
そう思ってSNSの画面を開くと、美奈のアカウントは無くなっていた。いや、正確には無くなっていたのではない。春香はブロックされていた。
なんなのよ、もう。春香はいろんなことを投げ出したくなり、スマホをポイッとベッドの隅に投げた。
こんな時は、藤くんのことを考えるに限る。でも、解散のこととか、ライブのこととかは、今はまだ考えたくない。だから春香は、藤くんを応援するようになった、あの日のことを思い出してみることにした。
♢
藤くんとの出会いは、別に劇的でもドラマティックでもなかった。ただ、テレビをつけるたびによく見かける芸能人。最初はその程度の認識だった。
『俺の弟、冬馬って言うんですけど。最近同じ事務所に入ったんですよね』
あれは春香が中学三年生の頃だっただろうか。いつものようにテレビを見ていた時、よく見かけるし何となくかっこいいなと思っていた芸能人が、弟が同じ事務所に入ったというエピソードを話していた。
一人っ子の春香には、兄弟や姉妹のいる人の感覚がよくわからない。だからかもしれないが、テレビの中で繰り返し藤奏多が話す弟の話はとても新鮮で、仲が良さそうで、羨ましいなと思った。
『ほんと可愛いやつなんですよ。歳離れてるんで、冬馬はまだ中学三年で、デビューもしてないんですけど。よかったら俺のファンの人にも応援してもらいたいな。冬馬、めっちゃいいやつなんで!』
中学三年生。つまり、春香と同い年。藤奏多は、自分と同じ年齢の、歳の離れた弟をかわいがるお兄ちゃん。へえ、そうなんだ。
それは、春香の中で藤奏多がよく見かけるかっこいい芸能人から、好きな芸能人に変わった瞬間だった。
春香はその日から、藤奏多を意図的に調べるようになった。この時はまだ、応援したいからとか、そうゆう気持ちではない。ただ、どうゆう人なんだろうと興味を持ってしまった。それだけだ。
そうしている中で、少しづつ藤奏多がどんな存在か分かってきた。バラエティ番組によく出ていたけれど、本業はキラキラとした王子様のような衣装を着て歌って踊るアイドルで、Springのメンバーであること。MCを担当していること、時々歌詞を書いたりもしていること。そして、何よりも弟である冬馬のことをとても可愛がっていること。
調べれば調べるほど、理想のお兄ちゃんを絵に描いたような藤奏多のことを、春香はどんどん好きになっていた。
それが、春香が藤奏多を応援するようになったきっかけだ。
♢
ダメだ、吐き気が治らない。
春香は藤くんを好きになった時のことを思い出しながら、ベッドの上で丸くなっていた。まだ胃薬が効いていないのかもしれない。
眠ることもできそうになかったので、ベッドの隅に放り投げたスマホに手を伸ばす。
SNSを開くと、ネットニュースへのリンクが流れてきた。内容はもちろん、Spring解散についてだ。
さっきまで解散発表の現場に居合わせたはずなのに、春香は全然実感が湧いていなかった。
ライブ会場に行っていたことすら、嘘みたいに感じる。とても楽しかったはずなのに。
春香がスマホの画面をスクロールしていくと、SNSでは様々な意見が飛び交っていた。
【Springの解散って、やっぱり奨太くんが匂わせ女と結婚するから?】
【最近事務所がWinterばっかり推すようになったから怪しいと思ってたんだよね】
【ライブで解散発表とか酷すぎない?】
【せめて理由が知りたいよね。言えないってことは、事務所に無理矢理解散させられたってことでしょう?Springがかわいそうだよ】
悲しいとか、寂しいとか、実感が湧かないとか、そんな意見ももちろんある。けれど、春香の目に止まるのは怒りに満ちた投稿文ばかりだった。
きっと春香以外の人にとってもそうなのだろう。拡散されていく投稿文は、語気の強いものばかりだったから。
スマホをスクロールすればするほど、ズキンズキンと、胃の痛みが強くなる。全然胃薬が効かない。そんなこと、今までなかったのに。
気持ちを変えようと、SNSのアカウントを切り替える。Springの応援用に作ったアカウントではなく、あまり普段は見ることのない、冬馬が所属するWinterの応援用に作ったアカウントの方に。
【冬馬くん、明日の朝の番組でコメント出すのかな。やっぱり無視できないよね】
そうだ、明日は冬馬くんが朝からテレビの生放送に出る。当然、コメントを求められるだろう。春香の胃が、またズキンと痛んだ。冬馬がどのようにコメントするか分からないが、場合によってはSpringのオタクから一斉に攻撃されるだろう。そうなれば必然的に、兄である藤くんも攻撃対象になってしまう。
春香のように藤兄弟どちらも好きな人もいれば、奏多がメンバーよりも冬馬の話をすることに対して悪く思っている人もたくさんいることを、春香は知っている。
「……仕事行きたくないな」
春香はスマホの電源を落とすと、憂鬱な気持ちのまま呟いた。
♢
「森野さん、聞いてくださいよー」
翌日春香が職場に行くと、すぐに部下の一人が話しかけてきた。
「おはよう。どうかした?」
「SNSがSpring解散の話題でいっぱいで、私の推しの誕生日がトレンドに入らなかったんです!」
部下は頬をプクッと膨らませて、可愛らしく怒っていた。
春香は職場で、Springのファンであることを隠している。だから、春香が昨日Springのライブに行ったことも、もちろんこの部下は知らない。
「そ、そうなんだ。ごめんね。私アイドルよく分からないからさ」
春香は起きてからもずっと痛み続けている胃を無視して、いつも通りの笑顔で微笑む。
Springが、いや、藤くんのことが好きだなんて言ったら、どんな目で見られるようになるか分からない。そう思って、春香は学生時代からずっと学校や職場で自分の推しの存在を明かしたことがなかった。この考え方こそが偏見と言われたらその通りなのだが、オタクってバレたら、奇妙なものを見る目で見られそうだから。
正直、この部下のように日常生活でも世間体を気にせずにオタクだと公言できる人を、春香は羨ましいと思っている。
「ああ、なんか前もそう言ってましたよね。はあ。でも正直、Springが解散してくれるおかげでWinterのレギュラー番組決まったようなところあるんで、今回ばかりは許しますけどね」
待って。今、Winterって言った?全然興味なかったけど、この人の推しってWinterなの?
「ねえ、推しってもしかして、Winterにいるの?」
「え!森野さんWinterに興味あります!?もし良かったら次のツアー連番します?まだチケット申し込み開始してないんで、どうですか!?」
突然勢いよく顔を乗り出して捲し立ててくる部下に、春香は正直引いてしまった。気持ちはよくわかる。私だって、SNSでSpringを布教するときはこんな感じのテンションになるから。
「だ、大丈夫。うん。あはは……」
「ええ、行きましょうよ!まだ申し込みまで期限あるんで、言ってくださいね」
なんだか楽しそうにしている部下を横目に、春香はなんとも言えない気持ちになった。
Winterのライブに興味は、正直ある。自分はあくまでも藤奏多が最推しだからと、弟である冬馬のライブにまでは行ったことがなかった。
掛け持ちオタクと言いながらも、春香にとってWinterはあくまでもSpringの次に好きなグループという程度だ。冬馬のアクリルスタンドこそ持っているけど、それはデビュー前に発売したものだし。
Winterに関しては、Springに雰囲気が似ているグループだということ、藤兄弟の弟、冬馬がセンターを務めているグループ、そのくらいしか知識はなかった。応援していると言っても、あくまでも推しである奏多の弟だから応援している、そんな感じ。出演番組をチェックしたり、CDを買ったり、ファンクラブに入ったり。そこまでの熱量は無い。
そういえば、朝の番組で冬馬くんどんなコメントしたんだろう。
特に見る習慣がなかったから忘れかけていたが、今朝の番組で冬馬くんがSpringの解散についてコメントをしたはずだ。
朝は胃の痛みが治まっていなかったし、少し寝坊しかけたせいでSNSも見ていない。後で確認しておこうと、春香は思った。