森野春香の場合【1】
「……へ?」
森野春香はその日、Springのライブ会場にいた。彼女は連日報道されている、彼らのドームツアー最終日の解散発表の場に居合わせたファンの一人だ。
今、なんて言った?解散?
ついさっきまで、春香のいるスタンド席までキラキラしたトロッコでやってきて、笑顔でファンサービスをしていた人たちが。解散?
センターステージでは、Springのメンバーが横一列に並び、真面目な顔で言葉を発している。それは理解できたものの、それ以上は理解が追いつかない。
そうだ、何かの冗談かもしれない。そう思って彼らの表情を見ようとしたけれど、直前まで彼らの表情が抜かれていたはずの大型モニターには【解散】の二文字が大きく表示されているだけ。スタンド席という遠い座席からでは、彼らの表情は全く読み取れなかった。
春香はただひたすらに混乱し、呆然として立ち尽くす。
「ねえ、春香さん。これ現実ですかね?」
一緒にライブに来ていたオタク友達の佐藤美奈に声をかけられ、春香はようやく我に返る。オタク友達とは言っても、SNSで繋がっていただけで、会うのは今日が初めてという程度の関係なのだが。
「……どうなんでしょう」
あまりにも実感の湧かない、Springの解散発表。春香は、目の前の座席に座っていた女性が泣き叫びながら崩れ落ちていくのを視界に捉えた。
けれど春香はあまりにも実感が湧かず、目の前の彼女のように泣くこともできない。声をかけてくれた美奈にも大した返事ができず、その場に立ち尽くしたままだった。
だって、解散だなんて、そんなこと信じられるわけがない。Springは、国民的アイドルグループになると言っていたし、ドームツアーが終わったら次は国立でのライブを目指すと、つい最近まで話していたはずだ。
なのに、突然どうして?今日だって、ついさっきまでキラキラの笑顔で歌って踊って、ファンに向かって手を振ってくれていたのに。
「春香さん、私達も退場しましょうか。カフェも予約してありますし。……春香さん?」
「あ、はい。そうですよね。すみません」
美奈に声をかけられ、春香はようやく足元に視線を向ける。手に持っていたペンライトと団扇をトートバッグの中に入れると、まだふわふわとした頭のままバッグを持ち上げて立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。足取りはもちろん、とても重い。
「ううっ……」
会場の外に出ようと歩き出すと、出口付近はとんでもなく混雑していた。少なくとも解散発表よりも前の時間はとても楽しく夢のようだったはずなのに、満員電車のような人混みに押し潰されそうになっていると、途端に嫌な現実を感じさせられてしまう。
あれ、美奈さんがいない。
春香は放り出されるように会場の外に辿り着くと、一緒にいたはずの美奈がいなくなっていることに気がついた。あれだけ混雑している中を歩いていたのだ。はぐれても仕方がない。
SNSを開いて、急いで美奈に連絡を送る。返事は、すぐに返ってきた。
「ごめんなさい、春香さんのこと途中で見失ってしまって」
「いえ、私もなんだか人混みに流されてしまって」
パタパタと駆け足で指定した場所に着てくれた美奈を見て、春香は安堵する。ちょうど目印になるものが近くにあってよかった。グッズ売り場がまだ撤収していなかったので、そこを目印にしてすぐに合流することができたから。
「とりあえず行きましょうか。カフェの予約時間もうすぐなので」
「そうですね」
春香はまだ少し混乱した頭のまま、美奈と共に楽しみにしていたカフェへと向かう。
そのカフェは、以前Springのメンバーがロケをしたことで有名な場所だった。
聖地巡礼する、それは春香にとってはライブと同じくらい楽しみにしていた予定だった。
♢
目的のカフェに辿り着くと、店内はSpringのファンで溢れかえっていた。
それもそのはず。カフェはライブ会場からほど近く、Springのファンにとって聖地であるとなれば、立ち寄る人が多いのも納得だろう。
「予約しておいて良かったですね。美奈さんのおかげです、ありがとうございます」
「いやいや、私が行きたくて誘っちゃっただけだから。でも本当、すぐに入れて良かったですよね」
カフェの外を覗くと、予約をしていなかった来店者がたくさん並んでいた。みんな考えることは同じで、Springのメンバーが訪れたこの場所に来てみたかったのだと思う。
春香は店員さんに渡されたメニュー表をチラッと見た後、すぐに推しである藤奏多が注文していたメニューを注文する。向かい側を見ると、美奈もまた自分の推しが飲んでいたドリンクを注文していた。
「ああ、そうだ。これ春香さんに渡さないと。約束してたリストバンド」
「ありがとうございます!私も頼まれてたリストバンド、持ってきましたよ」
春香はトートバッグの中に入れていたリストバンドを美奈の前に差し出した。Springの地方限定グッズであるこのリストバンドは、地方ごとに色が違い、それぞれのメンバーカラーのものを手に入れようとファン同士で交換するのが流行っていた。
「やった!これでコンプリートだ」
「え、美奈さん、全部集めたんですか?」
春香が渡したオレンジ色のリストバンドを手に、美奈ははしゃいでいた。
「そうなの。最初は修斗くんカラーの青だけでいいかなって思ってたんだけどね。やっぱり全部欲しいなって思って」
「確かに、集めたくなってしまいますよね」
美奈に渡された黄色のリストバンドを見ながら、春香は微笑んだ。やっと、藤くんのメンバーカラーのリストバンドが手に入った。自分の地元ではオレンジ色しか売っていなかったから、手に入ることはないと思っていたのに。
春香はオタク友達を作っておいて良かったと、かつてSNSを開設した日の自分に感謝した。
そうしているうちに店員さんが注文したメニューを持ってきてくれて、春香はガサゴソとトートバッグの中からポーチを取り出す。
推しである藤くんのアクリルスタンドと一緒に、食べ物の写真を撮影するためだ。
「春香さん、それ……」
春香がアクリルスタンドを取り出すと、美奈の様子が変わった。美奈の視線は、春香の手元に注がれている。瞬間、春香は理解した。
やばい、美奈さんがWinter嫌いだったの忘れてた。
春香の手元にあったのは、Springのメンバーで春香の推し、藤奏多のアクリルスタンドではない。藤奏多の実の弟であり、最近同じ事務所からデビューしたWinterのメンバー、藤冬馬のものだった。
SNSではアカウントを分けているから、春香が実は藤兄弟どちらも応援している掛け持ちオタクであることを、美奈は知らなかった。
「えっと、その、弟だし、一つだけ買ったんですよね。奏多くんも、冬馬の応援もお願いしますって言ってたし!」
春香は慌てて冬馬のアクリルスタンドをポーチの中に戻し、間違えないように奏多のものを取り出した。今度こそ、大丈夫だ。
「……そうなのね」
「はい。あ、写真早く撮りましょうか!」
ごまかすようにそう言って、目の前にあるパンケーキとレモネードの横にアクリルスタンドを並べ、スマホで写真を撮る。
美奈の視線が鋭いものに変わりこちらの様子を見ていることには、全力で気がつかないふりをした。
別にいいと思うんだけどな。掛け持ちオタク。藤くんに至っては兄弟なんだし、事務所だって兄弟仲良しアピールしてるし。
そもそも私、掛け持ちってほど冬馬くんのこと応援してるわけでもないし。藤くんの弟だから気になってるって程度だし。
ああ、まだこっち見てる、めっちゃ見てる。怖いよ美奈さん。隣の席の人だって藤兄弟のアクリルスタンド並べて写真撮ってるのに。いいな。私もそうしたかった。
内心でそんなことを思いながら、春香は撮影を終えると、食べましょうかと笑顔で美奈に話しかけた。けれど、美奈は明らかにこちらを敵視した目でじっと見つめてくる。居心地が悪い。
「……春香さんごめんなさい。私ちょっと用事思い出しちゃったの。帰るわ。お金そこに置いておくから、私の分も食べちゃって」
美奈は突然立ち上がり、バタバタとカバンから財布を出し、お札をポイッとテーブルの上に置く。
「え、美奈さん!?」
春香は慌てて止めようとしたけれど、美奈はそのままバタバタと店の外に出て行ってしまった。春香はただ、それを複雑な思いで見つめた。
掛け持ちオタクが嫌いなのも、Winter嫌いなのも分かるけど。注文したのに写真だけ撮って食べずに店を出るって、それ常識的に考えてどうなの?
テーブルの上に置かれたお札を見ると、明らかに美奈の分だけではなく、春香の分も支払えてしまう額だった。
春香はため息を吐くと、さっさと食べて帰ろうと決意する。目の前にあるのは、大好きな藤くんが食べていたパンケーキとレモネード。推しと同じものを胃の中に入れられるなんて、そんなに幸せなことはない。
けれど、パンケーキはパサパサとしていて美味しく感じなくて、春香はガッカリしてしまった。嫌なことが立て続けに起こっている今の春香の心境を味にするならこんな感じなのだろう。そんな味だった。
それでも、Springのオタクのマナーが悪かったなんて言われたくない。だから春香は、藤くんの評判のためにも、その美味しくないパンケーキを、美奈の分まで全て食べた。