ツルツルの、その先へ
予約を入れたクリニックの自動ドアが開くと、室内の空気がほんのり甘い香りに包まれていた。
白を基調とした清潔な内装に、静かに流れるBGM。
受付のカウンターの向こうには、淡いピンクの制服を着たスタッフが笑顔で応対している。
待合室に視線を向けると、そこには数人の女性が座っていた。
雑誌をめくる人、スマホを操作する人、鏡を覗き込んで自分の顔を確かめる人――。
誰もが美意識の高い雰囲気を纏っている。
それが、どうしようもなく場違いに感じた。
(……ここ、本当に来る場所、合ってる?)
聞こえてくる会話の端々には「VIO脱毛」「お手入れ楽になるよ」「彼氏が喜ぶし」――そんな言葉が混じっていた。
それらの言葉が、妙に遠く聞こえる。
ゆっくりと受付に歩み寄ると、スタッフが優しい笑顔で出迎えた。
「問診票のご記入をお願いいたします」
手渡された用紙に視線を落とし、ペンを握る。
名前、年齢、既往歴……順番に埋めていくが、脱毛希望部位の欄でペンが止まった。
(……頭部と、VIO)
一瞬、記入をためらう。
けれど、意を決して「VIO」にチェックを入れ、「頭部」と書き加えた。
用紙を提出すると、受付のスタッフがそれを確認し、表情を一瞬こわばらせる。
「……頭部、ですね?」
こちらをちらりと見て、次の瞬間には微笑みに戻る。
「えっと……少々お待ちくださいね」
問診票を手にしたまま、奥の部屋へと消えていく。
(やっぱり、珍しいんだ……)
それは当然だった。
この待合室にいる誰も、スキンヘッドにするためにここへ来たわけではない。
ただのムダ毛処理や、美容目的の脱毛とは違う。
自分は――完全に、違う目的でここに来ている。
---
しばらくして、診察室へと案内された。
中に入ると、40代くらいの落ち着いた雰囲気の女性医師が、カルテをめくりながらこちらを見た。
そして、一瞬目を見開く。
「……ええと、希望部位が……頭部と、VIO?」
「はい」
そう答えると、医師は少し眉をひそめた。
「通常、頭部の脱毛を希望される方はほとんどいません」
彼女の声には、慎重な響きが混じっていた。
「眉毛や生え際の整え程度なら分かりますが、全頭の永久脱毛となると……かなり珍しいケースです。VIOと合わせて希望されるのも、なかなか……」
「そうですよね」
それは、最初から分かっていたことだった。
「念のためお伺いしますが、どのような理由で永久脱毛を希望されましたか?」
「スキンヘッドを維持したいからです」
そう答えた瞬間、医師の目が鋭くなる。
「ご自身の意思で、ですよね?」
「はい」
「ご家族やパートナーに勧められた、ということは?」
「……いえ、それは……」
言葉に詰まる。
瞬間的に、彼女の顔が脳裏をよぎった。
(私は、彼女に言われたから剃るようになった……)
でも、それは「やらされていた」わけではない。
自分が望んで選んだこと。
(そう、私は彼女に言われたから剃ってるんじゃない。自分でやりたくてやってる……よね?)
---
医師は、こちらの戸惑いを見逃さなかった。
「こういった施術を希望される方の中には、パートナーの影響を受けて決断されるケースもあります」
落ち着いた声だが、そのまなざしには、慎重な確認が滲んでいる。
「特に、頭部の永久脱毛となると、やり直しがききません。一度施術を受ければ、二度と生えてこない」
「……」
「そこまでの決断を、本当にご自身の意思でされましたか?」
「……はい」
口にした言葉が、わずかに震えた。
「例えば、今後ライフスタイルが変わったときに、後悔する可能性はありませんか?」
「恋人の好みが変わったり、別の方とお付き合いしたりしても、本当にずっとスキンヘッドでいることに変わりはありませんか?」
その問いが、心に棘のように刺さる。
(もしも、彼女がいなくなったら?)
(彼女がそばにいなくなっても、私はツルツルのままでいたいの?)
(それとも、剃ることをやめる?)
そんな疑問が、初めて頭の中に浮かんだ。
(私にとって、ツルツルでいることって何なんだろう……?)
---
一瞬の迷いが生まれた。
けれど、それを振り払うように――答えを出す。
「私は、ツルツルでい続けなきゃいけないんです」
強く、言い切った。
彼女の言葉が、脳裏に蘇る。
「ツルツルのままでいてね」
それは、約束のように響いた。
「だから、お願いします」
医師は小さく息をつき、しばらく考えたあと、静かに頷く。
「……分かりました。ただし、何度も言いますが、後戻りはできませんよ」
「施術を始めたら、二度と生えてこない」
「それでも、あなたが決めたことなら、止めません」
その言葉に、私は静かに息をのむ。
(これで、私は……)
診察室の空気が、妙に静かに感じられた。
---
永久脱毛のカウンセリングを終え、クリニックのドアを出た瞬間、私は一度深く息を吸い込んだ。
足元を見つめながら、自分の決断を改めて噛み締める。
(私は、永久脱毛をするって決めた)
診察室での医師の言葉が頭の中でリフレインする。
「本当に後悔しませんか?」「これからずっとスキンヘッドでいることに変わりはありませんか?」
そのときの不安はまだ心の奥底に沈んでいたが、それ以上に――「彼女がどう思うか」 が気になっていた。
(彼女に報告しなきゃ)
けれど、何て言えばいい?
ただ「永久脱毛しようと思う」と言えばいいのか?
それとも「剃るのが大変だから」と説明したほうがいいのか?
(……彼女は、どう思うだろう)
少しでも「やめたほうがいいんじゃない?」と言われたら、どうしよう。
もし反対されたら――?
……でも、きっと彼女は喜んでくれる。
「ツルツルのままでいてね」と言ったのは、彼女だ。
永久脱毛すれば、彼女の望む「ツルツルのまま」でいられる。
ならば、きっと彼女はこの決断を肯定してくれるはずだ。
そう思えば思うほど、期待と不安が入り混じる。
(彼女が喜んでくれたら、それが正しいという証明になる)
---
いつものジムで彼女がプールから上がってくるのを待ち、声をかけるタイミングを探す。
濡れた髪をタオルで拭いながら歩いてくる彼女は、いつも通りの落ち着いた表情だった。
(……よし、言おう)
足元が少し震えるのを感じながら、口を開く。
「ねえ……」
彼女が振り返る。
「ん?」
その優雅な仕草に、胸が跳ねる。
「私……永久脱毛しようと思ってるの」
一瞬、彼女の動きが止まった。しかし、次の瞬間、彼女の表情が明るくなる。
「……本当に?」
期待を込めた声。
「すごくいいじゃない!」
その言葉が、思った以上に嬉しくて、心臓が高鳴るのを感じた。
(やっぱり、これでよかったんだ……!)
---
「やっぱり、いいと思う?」
私が恐る恐る確認すると、彼女は迷いなく頷いた。
「もちろん。だって、そのほうがずっと綺麗でしょ?」
その言葉が、胸の奥深くに突き刺さる。
「ずっと綺麗でしょ?」
これは、ただの「剃る手間がなくなる」話ではない。彼女は「ツルツルでいること」そのものを、美しいと思っている。
そして、それを求めている。
「今のままでも十分綺麗だけど、やっぱり……それなら完璧よね」
「完璧」 という言葉に、私の心臓が跳ねる。
(私、もっと完璧になれるんだ……)
彼女のために、もっと変われる。
それが、妙に誇らしい。
---
彼女の反応があまりにも自然で、当たり前のように肯定されるので、「これは正しい選択なんだ」 という確信が生まれる。
(彼女は、私が永久脱毛することを望んでいるんだ……)
もし彼女が少しでも「やめたほうがいいんじゃない?」と言っていたら、ここで考え直したかもしれない。
でも、彼女は 「すごくいいじゃない!」と笑った。
むしろ、待ち望んでいたかのように。
(それなら、私はやるべきだ)
(私は、永久脱毛することで、彼女の理想に近づけるんだ)
私は小さく息を吐いた。
「……そっか、よかった」
「うん、すごくいい選択だと思う。楽しみね」
彼女の言葉が、まるで祝福のように響いた。
---
夜、ベッドに横たわりながら、彼女の言葉を何度も思い出す。
「そのほうがずっと綺麗でしょ?」
「完璧よね」
(私、完璧になれるんだ……)
明日、永久脱毛をしたら、もう剃らなくていい。
もう、迷わなくていい。
だって、彼女が「いい」と言ったのだから。
そう思いながら、安心して目を閉じる。
---
朝、目が覚めた瞬間、「今日は永久脱毛の日だ」と思い出す。
でも、もう不安はない。
(私は正しいことをしている)
鏡の前で、自分の頭を見つめる。
「これが、最後の朝かもしれない」
そう考えると、少しだけ特別な気持ちになる。
でも、もう迷いはない。
彼女が「それがいい」と言ったのだから。
「私は、もっと完璧になれるんだ」
そう確信しながら、クリニックへと向かう。
---
施術当日、私はクリニックの待合室に座っていた。
白く統一された内装に、落ち着いたBGMが流れている。
周囲を見渡すと、待合室には自分と同じように施術の順番を待つ女性たちがいた。
しかし、彼女たちと自分の目的は違う。
VIOや脚、腕の脱毛をするために訪れた彼女たちの会話が聞こえるたび、違和感を覚える。
(本当に、これで終わるんだ……)
頭部の永久脱毛。
それは単なる美容目的の脱毛とは違う。
もう、二度と生えてこない選択。
名前を呼ばれ、施術室へと案内される。
専用のベッドに横たわると、看護師が優しく微笑んだ。
「少し熱さを感じると思いますが、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
そう答えたものの、レーザーが照射された瞬間、チクッとした鋭い痛みが走る。
(思っていたより痛い……!)
小さく息をのむが、すぐに気を取り直す。
(これをあと何回もやらなきゃいけないのか……)
そう思うと少し気が遠くなるが、決めたことだ。
彼女の言葉が脳裏をよぎる。
「そのほうがずっと綺麗でしょ?」
(これで、私は完璧になれるんだから……)
彼女が望むツルツルのままでいるために。そう考えると、痛みも耐えられる気がした。
施術が終わると、看護師が説明を始める。
「最初の数回は毛が生えてきますが、回数を重ねるごとに毛根が死んでいくので、自然に抜け落ち、生えなくなります」
「6回ほどでほぼ完全になくなりますが、それまでの間は必要に応じて剃毛してください」
(まだ剃らなきゃいけないんだ……)
どこか、少し残念に思った。
---
施術から数日後、ジムで彼女と顔を合わせる。いつものように、彼女は私の頭を見て微笑む。
「今日もツルツルね。ちゃんと剃ってる?」
その言葉に、一瞬だけ迷う。
剃ったわけではない。けれど、施術を受けたことで「ツルツルを維持できる」状態に向かっている。
(彼女には、伝えるべきだよね……)
「実は……この前、永久脱毛の初回施術を受けたの」
そう言うと、彼女の表情が一瞬明るくなる。
「本当に? すごくいいじゃない!」
彼女の期待以上の反応に、私の心が跳ねる。
(やっぱり、これでよかったんだ……)
彼女は興味津々といった様子で、私の頭を撫でる。
「まだ生えてくるの?」
(……気にしてくれてる)
「うん、でもこれから生えにくくなって、最終的には生えなくなるって」
彼女は満足そうに頷く。
「楽しみね」
その一言が、私の心に強く響く。
(彼女は、私が永久脱毛することを心から望んでいる……)
彼女の期待が、私の背中を押した。
もっと早く、完全にツルツルになりたい。彼女の「楽しみね」を、早く実現させたい。
---
数回目の施術を終えたころ、明らかに毛が減っているのを感じた。鏡を見つめると、以前よりも 「生える範囲がまばらになっている」のがわかる。
均等に生えていた髪が、ところどころスカスカになり、部分的にもう生えてこない箇所も出てきた。
(あ、もうここには毛が生えないんだ……)
それを見た瞬間、妙な感覚に襲われる。
「楽になった」というよりも、「何かが足りない」ような気がする。
(私、剃る頻度が減ってる……?)
以前は「そろそろ剃るか」と考えるのが日常だった。でも、今は「剃らなくてもいいかもしれない」と思うことが増えてきた。
それが、ほんの少し寂しい。
「あと少しで完全にツルツルね。すごく綺麗になるわよ」
彼女のその言葉を聞いて、私はまた「これで正しいんだ」と思い込もうとする。
---
6回目の施術の日、私は「これが最後だ」と思いながらクリニックへ向かった。
施術室でレーザーを当てられながら、何とも言えない気持ちになる。
施術の痛みはもう慣れた。でも、今日で「終わる」のだ。
「これが、最後の施術です。もう剃る必要はありませんよ」
看護師が微笑みながら言う。
その言葉を聞いた瞬間、息が詰まるような感覚がした。
(……本当に、剃ることはなくなるんだ)
施術が終わり、クリニックを出た後、鏡の前で自分の頭を触る。
(これで、私は……完璧になった)
そう思ったはずなのに、どこか落ち着かない。
---
6回目の施術を終え、もう毛が生えることはない。
それでも、ジムで彼女に会えば、すべてが確信に変わるはず。そう思いながら、いつものように更衣室でウィッグを外す。
彼女がやってきて、私の頭を撫でた。
「ついに完成したのね」
その言葉に、私の胸が熱くなる。
「うん……もう、剃らなくてもツルツル」
彼女が満足げに微笑んだ。
「最高ね」
その一言を聞いた瞬間、私の胸が満たされる。
(彼女が喜んでくれた……)
(私の選択は、間違っていなかった……)
(これで、私は完璧になれた)
彼女の肯定の言葉によって、私の中にあった小さな違和感はかき消された。