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ツルツルのままでいてね

鏡の前の自分をじっと見つめる。白くなめらかな頭が、室内の光をやわらかく反射している。


指先でそっと触れると、ひんやりとした感触が広がる。まるで自分の一部ではないかのように、頭皮はつるりと滑らかで、思わず何度も指を這わせてしまう。


「私、本当に剃ったんだ……」


呟いた声はかすれて、自分の耳にも頼りなく響いた。


まだ、実感が湧かない。昨日まで当たり前のようにあった髪が、もうどこにもない。頭を傾けても、視界の隅に揺れる前髪はなく、肩に触れる髪の感触もない。あんなに長かった髪が、たった一晩で無くなってしまった。


後悔……している?


考えそうになった瞬間、そっと背後から手が伸びてくる。


「綺麗ね」


彼女の指が頭を撫でる。優しく、そして滑らかに。


「うん……」


短く返事をしながら、目を閉じた。心の中に、ふわりと温かいものが広がっていく。


認められた。


彼女に、認められた。


それだけで、胸がじんわりと熱くなる。


でも。


本当に、これでよかったの?


ふと、頭の片隅にそんな疑問が浮かんだ。


---


翌朝、私はウィッグを手に取った。


昨日、剃髪した直後に彼女が用意してくれたものだ。事前にウィッグを用意していたということは、私がツルツル頭になることは決まっていたということなのか…。


そう思うと複雑な気持ちになる。


「普段は必要になると思うから」


そう言いながら、私の元の髪型に似たナチュラルなウィッグを差し出した彼女。その表情は、どこか満足げだった。


「これをつけていれば、誰にも気づかれないわ」


彼女の言葉を思い出しながら、慎重に装着する。


鏡の中の私は、昨日までと何も変わらない。


「……大丈夫、バレない」


そう思い込もうとしても、頭の奥でざわつく違和感を抑えられない。まるで、昨日の出来事が夢だったかのように感じてしまう。


---


通勤の電車に乗ると、ふと窓に映った自分の姿が目に入った。


いつも通りの髪型の自分。でも、それが『本物』ではないと考えた瞬間、急に背筋が冷たくなる。


窓に映る姿を確認し、前髪やサイドを整える。けれど、それは私の髪ではない。そう思うと、急に心臓が跳ねた。


仕事中も、ふとした瞬間に気になってしまう。


「ズレてないよね?」


会議でうなずくたび、何気なく手を伸ばしてしまう。


周囲は何も気づいていない。それは分かっているのに、ずっと気が休まらない。


◆◆◆


昼休み、私はトイレへ向かい、洗面台の鏡の前に立つ。


そしてウィッグをそっと外した。


空調の風が直接頭皮に触れる感覚に、ぞくりとする。


「ツルツルだ……」


小さく呟きながら、手のひらをゆっくりと滑らせる。ほんのわずかに感じる手触り。その感触が心地よくて、無意識に何度も撫でてしまう。


「……これで、私は変われたのかな……?」


目の前の自分を見つめながら、そう思う。


「彼女に、近づけた……?」


彼女のことを思い浮かべた瞬間、頬が熱くなる。


でも——。


この姿を、誰かに見られたら?


トイレのドアの向こうで人の気配がするたび、心臓が跳ねる。


ウィッグを再びつける。


鏡に映る、いつもの私。


「……これって、本当に“私”なの?」


そう思いながら、ぎゅっと唇を噛んだ。


◆◆◆


仕事が終わると、足は自然とジムへ向かっていた。


彼女の前では、ウィッグは必要ない。それにプールで泳ぐんだから、ウィッグをつけたままというわけにはいかない。


彼女に会えば、自分の変化を確かめられる。


「彼女の前でなら——」


そう思った瞬間、無意識に足が速まった。


---


更衣室のロッカーの前で、私はそっとウィッグを外した。


鏡に映る、自分の剃りあげた頭。


昨日彼女に剃られたときのことを思うと、少し誇らしさがこみ上げた。だが——。


ふと背後の視線に気づく。


一瞬だけ目が合った女性が、すぐに目を逸らした。ほかの利用者も、気まずそうにしながら更衣室を通り過ぎる。


肩越しに、ひそひそとした話し声が聞こえた。


(やっぱり、目立つのかな……)


胸の奥がざわつく。


水着に着替えようとしたとき、ふと下半身に目がいく。


つるりとした肌に、僅かに鳥肌が立つ。


「私の体にある毛は、眉毛とまつげだけ……」


もし恋愛をするなら、こんな姿を受け入れてくれる人はいるんだろうか?


でも、彼女の言葉があったから、私はここまで変われた。


着替えに手間取っていると、ふいに彼女の声がした。


「こんばんは」


振り返ると、彼女が微笑んでいた。


彼女の視線が、私の頭と肌を撫でるように追う。


「改めて全身を見ると、やっぱり素敵ね」


心臓が跳ねた。


素敵、と言ってくれた。


言葉にならない嬉しさが、胸の奥に広がる。


彼女が近づき、耳元でそっと囁く。


「ツルツルのままでいてね」


その囁きが、直接肌に触れるようで、背筋が震える。


ツルツルのままでいる——それが、彼女との約束のように思えた。


その日の帰り道、気づけば電気シェーバー売り場に立っていた。


商品を手に取りながら、ふと気づく。


「私、もう次のことを考えてる……」


そんな自分に、思わず小さく笑った。


---


電気シェーバー売り場の小さな鏡に映る自分の姿を見つめる。


ツルツルの頭はウィッグで隠され、鏡に映るのは以前と変わらない『普通の私』だった。


——いや、違う。


ウィッグの下には、もう以前の私はいない。


ずらりと並ぶシェーバーのパッケージ。男性用が多いが、女性向けのものもある。


(どれを選べばいいんだろう……私は女性だから女性向けなのかな? 毛の量が多い頭に使うんだから、男性用がいいのかな?)


手を伸ばしかけて、ためらう。


こんなものを買うなんて、普通じゃないのでは?


でも——。


彼女の声が頭の中でよみがえる。


「ツルツルのままでいてね」


私の中で、それはもう“ただの言葉”ではなかった。


(ずっとツルツルでいるなら、これが必要……)


意を決して、男性用の一番シンプルなデザインのものを手に取る。


パッケージに書かれた『スムーズな仕上がり』の文字を見つめながら、心臓が早鐘を打つのを感じた。


---


部屋に戻り、私は静かにシェーバーの箱を開ける。


手に持つと、思ったより軽い。電源を入れると、小さく振動しながらモーター音が響く。


(……本当に、できるのかな?)


試しに指先でスイッチをなぞる。


彼女に剃られたときとは違う。


今度は、自分でやるんだ。


---


鏡の前でウィッグを外すと、頭皮が空気に触れて少しひんやりとした感触がした。


彼女に昨日剃られたばかりだが、白い頭皮からは黒い毛がポツポツと伸びているのがわかる。


私は慎重にシェーバーを頭皮へ当てた。


ゆっくりと滑らせると、微かに振動が伝わり、ゾクッとした感覚が背筋を走る。


ジョリジョリ……。


彼女に剃られたときのことを思い出す。


(……あのときはカミソリだったけど、こういう音がしていた……)


そう思うと、胸が熱くなる。


シェーバーを滑らせるたびに、少しずつツルツルの肌が現れる。


刃を当てるたびに整えられていく感覚。


何度か往復しながら最後の部分を剃り終え、鏡の中の自分を見つめた。


(……ちゃんと、ツルツルになった)


指先でそっと撫でる。


ジョリっとする感触はなく、なめらかな手触り。


心の奥底に、じんわりと満足感が広がる。


(これで、彼女の言葉どおりになれた……)


そんなことを思いながら、私は静かにシェーバーの電源を切った。


その日をきっかけに、シェーバーでの剃髪は私のルーティンになった。


朝、目が覚めると最初に思うのは——。


(……剃らなくちゃ)


それは、歯を磨くのと同じくらい、自然な感覚になっていた。


洗面台の鏡に向かい、シェーバーを手に取る。


スイッチを入れ、振動音を感じながら、ゆっくりと頭皮をなぞる。


ジョリジョリ……。


たった一晩で、僅かに伸びた感触がする。


彼女に剃られたときは特別だった。でも、今は違う。


(これは、私のルーティンなんだ……)


シェーバーの刃を滑らせながら、ふと思う。


最初は「彼女のために」だった。


彼女に褒められたい、彼女に見てもらいたい。


でも今は、剃ることそのものが「自分のため」になっていた。


ジムへ行く前も、剃る。


夜、シャワーを浴びた後も、剃る。


それを繰り返しているうちに、彼女の言葉が“約束”のように感じるようになった。


「ツルツルのままでいてね」


彼女の言葉が頭の中でリフレインする。


まるで、それが私の『ルール』になったかのように。


剃らずにいると、違和感を覚える。


(このままではダメだ……)


そんな風にさえ思うようになっていた。


ある日、ジムで彼女に会ったとき、私は少し期待していた。


「今日も綺麗ね」と言ってくれるかもしれない。


でも、彼女の反応は、少し前と変わっていた。


「……うん、いいんじゃない?」


それだけだった。


以前のような、驚きや賞賛の言葉はなかった。


——どうして?


私はちゃんとツルツルを維持しているのに。


(もっと変わらなきゃ……彼女に見てもらえない)


そんな焦りが、心の奥底で静かに芽生え始めていた。


---


ジムの更衣室の鏡に映る自分の姿をじっと見つめる。


毎日のシェーバー習慣の中で、剃っても少し髪が伸びるだけで気になる自分に気づく。


それに、髪だけでなく下半身の剃毛した毛も髪と同様に気になっていたのだ。


(もし全身ツルツルになったら……?)


そんな考えが、ふと頭をよぎるが、「やりすぎなのでは?」と理性が働く。


しかし、それを打ち消すように「もっと綺麗になれるかも」と思ってしまう。


また、鏡の前で腕や脚の産毛も気にするようになっていた。


(頭がそうなら、他の部分も……?)


 剃るほどに、より完璧なツルツルを求めるようになっている自分に気づく。


---


そんなことを考えていると、ある日、彼女が何気なく言った。


「どうせなら、永久脱毛すれば楽になるよ」


何気ないその言葉に、心臓が跳ねる。


「……永久脱毛?」


驚く私に、彼女は微笑んだ。


「私も下半身は永久脱毛してるし、楽よ?」


その一言に、全身の血が沸き立つような感覚が広がる。


(永久脱毛……一生、ツルツルのまま?)


その言葉が脳裏を反芻するたびに、心がざわついた。


---


やるべきか、やめるべきか。


(これをやったら、もう二度と生えてこない……)


(もし彼女と関係が終わったら? それでも私は……?)


一瞬、不安がよぎる。


だが、その不安を掻き消すように、胸の奥から別の思いが湧き上がる。


(それでも、私はツルツルのままでいたい)


彼女の言葉が脳裏に浮かぶ。


「ツルツルのままでいてね」


それは、もうただの言葉ではなかった。


私は静かに息を呑み、決意する。


「……永久脱毛、してみようかな」

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