水の中の彼女
運動不足が気になり始めたのは、デスクワークに慣れた頃だった。長時間の座り仕事が続くと、肩こりや腰の張りが慢性的な悩みになる。何か運動を始めなければと思いながらも、なかなか重い腰が上がらなかった。
そんなとき、ふと目に入ったのが、近所のスポーツジムの広告だった。設備が充実しており、初心者向けのプログラムも豊富に揃っているらしい。特に目を引いたのは、屋内プールが完備されていることだった。
「水泳なら、無理なく続けられるかもしれない……」
ジム通いを決意したのは、それからすぐだった。まずは気軽に始められる会員コースを選び、週に数回プールで泳ぐ習慣をつけることにした。
初めのうちは、思うように体が動かず、息もすぐに上がってしまった。だが、何度か通ううちに少しずつ慣れ、最近では水の中を泳ぐこと自体が心地よくなってきた。
そんなある日、プールサイドでひと際目を引く存在を見かけた。
彼女は、私よりも少し年上に見えた。均整の取れた体型で、まるで水と一体化するようにスムーズなフォームで泳ぐ。その動きには一切の迷いがなく、ただただ美しい。
ただのジムの利用者とは思えないほどの洗練された泳ぎ。彼女の動きを目で追っていると、ふと胸の奥がざわついた。
――すごい。
無意識のうちに、私は息を呑んでいた。
彼女は、まるで特別な世界に生きているように見えた。自信に満ちた振る舞い、凛とした雰囲気……同じプールにいるのに、まるで別の次元の存在のように思えてしまう。
私とは、違う。
そう感じた。
それでも、なぜか目が離せなかった。泳ぐたびに、彼女の姿を目で追ってしまう。
そんな私の視線に気付いたのか、ある日、彼女がプールサイドでこちらを見て微笑んだ。
「最近、よく見かけるわね」
不意に声をかけられ、心臓が跳ねる。
まさか、私に話しかけてくるなんて。
この瞬間が、すべての始まりだった――。
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それからというもの、私たちは顔を合わせるたびに挨拶を交わすようになった。
「今日も来てるのね」 「ええ、少しずつ泳ぐのが楽しくなってきました」
彼女は私の進歩を見守るように微笑む。その視線に、どこか誇らしさが感じられた。
ある日、更衣室で偶然隣のロッカーを使うことになった。
ふとした瞬間、私は彼女の着替えを目にしてしまう。
――驚いた。
彼女の下半身には、一切の毛がなかった。
それは、あまりにも滑らかで、完璧なまでに整えられていた。
私は思わず目を逸らしたものの、その光景は脳裏に焼き付いてしまう。
――水泳選手だから? それとも、彼女の美意識……?
その日から、私の頭の片隅には、彼女の姿が焼き付いて離れなくなった。
「ねえ、あなたも処理したほうがいいと思うわよ」
ふとした会話の流れで、彼女がそう言った。
「えっ……?」
「そのほうが快適だし、気持ちいいわよ」
彼女はまるで何気ないことのように微笑む。
まさか、自分が勧められるとは思わなかった。
「試してみたら?」
軽やかに放たれたその言葉が、私の心の中に残り続けた。
私は、結局それを試してしまった。
シャワールームでゆっくりとカミソリを滑らせ、少しずつ毛を剃り落としていく。
想像していたよりも、ずっと簡単だった。
最後の一本まで処理し終えると、私はそっと手を這わせてみた。
――つるつる。
驚くほど滑らかで、何もない。
これが、彼女が言っていた感覚なのだろうか。
翌日、プールで彼女に会うと、私は少し緊張しながら報告した。
「あの……やってみました」
彼女は驚いたように目を瞬かせたあと、満足そうに微笑んだ。
「やっぱりね。どうだった?」
「すごく……快適でした」
そう答えながら、私は自分の変化を意識していた。
彼女と同じになった気がした。
それが、妙に誇らしく感じられた。
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その日以来、私は彼女の言葉を受け入れやすくなっていた。
「せっかくなら、もっと綺麗に整えたら?」
彼女の何気ない一言が、私の背中を押す。
より完璧な自分になりたい。
その気持ちは、日に日に強くなっていった。
そして、ある日。
「髪って、本当に必要かしら?」
彼女がふと、そんな言葉を口にした。
「え……?」
その瞬間、私は自分の髪を意識した。
なぜか、その問いが脳裏にこびりついて離れなかった。
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そして今、私は彼女の前に座っている。
目の前で、彼女がバリカンのスイッチを入れた。
「準備はいい?」
ブウウウン……。
振動音が部屋に響く。
私は無意識に息を呑み、彼女の手の動きを見つめた。
――これが、私の新しい姿になる。
そう思った瞬間、彼女が微笑んだ。
「大丈夫、私が仕上げてあげるわ」
「大丈夫、私が仕上げてあげるわ。じゃあ、始めるね。」
彼女がバリカンのスイッチを入れた瞬間、ブウゥゥン…… という低い振動音が頭のすぐ近くで響いた。
背筋が震える。思ったよりも力強い音に、手足の指先がじんわりと冷たくなっていく。
ジョリッ――
額の生え際に刃が触れた瞬間、細かい電流のような振動が頭皮に走った。
軽い衝撃とともに、薄皮を削り取るような感触が頭全体に伝わる。
「っ……!」
思わず体がこわばる。
バリカンの刃がゆっくりと後ろへ進むたびに、今まで感じたことのない冷たさが露出した頭皮を覆っていく。
まだ見えていないのに、そこが「もう髪のない部分」だと理解できた。
彼女は慣れた手つきで、バリカンを滑らせる。
私は目を閉じた。見えない方が怖くない気がした。
ザリッ、ザリッ――ジョリッ、ジョリッ……
音が、響く。
耳のすぐ横で、何かが「消えていく」音だった。
確実に、自分の一部が削ぎ落とされている感覚。
「……ほら、順調だよ。」
彼女の声は、軽やかだった。
けれど、バリカンの動きは淡々と、着実に私の頭を刈っていく。
震えそうになる指先を、膝の上でぎゅっと握りしめた。
バリカンは、頭頂部へと進んでいく。
こめかみに近づくと、耳の中まで微細な振動が響き、鼓膜がくすぐったくなった。
「……っ、くすぐった……」
思わず言いかけるが、声がかすれる。
何かを言ったら、それを止めたくなってしまいそうだった。
彼女は返事をせず、ただバリカンの角度を変え、耳の周りを丁寧に刈り始める。
「うん、綺麗に刈れてる。」
その一言に、背筋が凍る。
「刈れてる」――つまり、もう相当な範囲が刈り取られているということ。
私の頭は、今どんな状態になっているんだろう?
でも、怖くて鏡を見られない。
「ほら、そろそろ見てみたら?」
彼女が、軽く笑いながら言う。
私は反射的に首を振る。
まだ、見たくない。
でも――見なければ、終わらない気もした。
私は、恐る恐る目の前の鏡を覗き込んだ。
――そこに映ったのは、見知らぬ女だった。
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いや、違う。
これは、間違いなく私だ。
でも、頭の形が全く違う。
「……小さく、なった……?」
頭の輪郭が、一回り縮んだように見える。
髪がなくなったことで、今まで隠れていた頭の形がはっきりと露わになっていた。
肌は、ほんのり青白い。
「まだ、完全じゃないね。」
彼女の声に、私は鏡を凝視する。
……確かに。
ところどころ、刈れていない部分がある。
均一な坊主頭ではなく、まだらに剃り残しがある状態だった。
「これは五厘刈り。坊主の中でも、一番短い長さよ。」
彼女が背後から言った。
「剃刀で剃る前の状態だから、まだ少しザラザラしてるでしょう?」
言われるがままに、ゆっくりと手を頭に伸ばす。
指が触れた瞬間、背筋がゾクッと震えた。
「……ひゃ……」
思わず声が漏れる。
ザラザラとした感触。
髪が生えていた頃とは、全く違う手触り。
涼しい。
想像以上に、頭がひんやりしている。
指を滑らせると、毛の向きに逆らった部分が特に粗く、ジョリジョリと音を立てた。
「……変な感じ。」
「でしょ? でも、触ってると気持ちよくない?」
彼女は楽しそうに言う。
確かに、撫でると心地いい。
ずっと触っていたくなるような、不思議な感触だった。
でも――そうやって触れているうちに、恐怖が込み上げてきた。
「……私、似合ってないよね?」
ふと、口をついて出た。
「なんか、ブサイクになった気がする……」
今までの自分とは、明らかに違う。
髪があった頃は、そこまで意識しなかった輪郭が、すべて晒されている。
「どうしよう……明日も仕事なのに……外、歩けるのかな……」
焦りが一気に押し寄せる。
お風呂に入るとき、服を着替えるとき、職場の人に会うとき――
すべてが、これまでと違う。
「……これ、本当に、元に戻るの?」
声が震えた。
「……大丈夫よ。」
彼女の手が、そっと私の頭に触れた。
「ほら、似合ってる。」
指が優しく撫でるたび、頭皮がくすぐったいような、気持ちいいような不思議な感覚に包まれる。
「ね? さっきまでの自分とは違うかもしれないけど、これが“新しいあなた”なの。」
彼女の声は、どこまでも穏やかだった。
「……それに、ブサイクになったんじゃなくて、ただ見慣れていないだけよ。」
「ほら、今だって無意識に頭を撫でてるでしょう?」
彼女の言葉にハッとして、手を止める。
確かに、さっきからずっと触っていた。
「それが答えよ。あなたはもう、これが気に入ってるの。」
にっこりと微笑みながら、彼女はそう断言した。
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「大丈夫、大丈夫。私がちゃんと仕上げてあげるから。」
彼女の指が、私の頭を優しく撫でる。
その感触が、妙に心地よくて――気づけば、さっきまでの不安が少しずつ薄れていく。
「ほら、ここまできたんだから、最後までやり遂げよう?」
彼女は、微笑みながら言った。
カチッ――。
剃刀のキャップを外す音が、部屋に響いた。
「えっ……?」
私は、思わず彼女の手元を見た。
「うん、もう少し綺麗にしないとね。」
彼女は、当たり前のように言う。
「だって、五厘刈りのままだと、まだザラザラしてるでしょう?」
「……でも……」
言葉が詰まる。
「ほら、せっかくだから、一番スッキリした状態にしてあげる。」
彼女は優しく微笑んでいた。
「じゃあ、仕上げをするね。」
彼女が手に取ったのは、白く滑らかなシェービングクリームだった。
プシュッ――小さな音とともに、彼女の指先にこんもりと泡が乗る。
「えっ……?」
一瞬、戸惑う。
「うん、ちゃんと剃るために必要だからね。」
そう言うと、彼女は私の頭にそっとクリームを塗り始めた。
――ひやっ……!
思わず肩が跳ねた。
「ひゃっ……つめた……!」
頭皮全体に、キンとした冷たさが広がる。
今までバリカンで温まっていた頭が、一気に冷やされたような感覚。
彼女の指が、クリームをなじませるように円を描くたび、微細な泡が頭皮に絡みついていく。
じわじわと、頭が真っ白になっていくのがわかった。
「ほら、真っ白になったよ。」
彼女が、クスッと笑いながら言う。
恐る恐る、鏡を覗き込む。
――そこに映っていたのは、頭全体が真っ白に覆われた私だった。
「……すご……」
言葉が詰まる。
さっきまで五厘刈りだった頭は、今は髪があったことすら分からないほど、クリームに覆われていた。
「なんか、雪だるまみたい……」
思わずつぶやくと、彼女が小さく吹き出した。
「ふふ、本当にそうね。でも、この白いのを取ったら、もっと綺麗になるわよ。」
彼女の言葉に、喉が小さく鳴った。
---
「じゃあ、剃るね。」
彼女が剃刀をそっと頭皮にあてる。
――シャリッ。
刃が滑るたびに、クリームの下から白く滑らかな頭皮が現れていく。
「……!」
自分の肌なのに、まるで別の人のように思えた。
彼女は丁寧に剃り進める。
剃刀が通った部分だけが、クリームが消え、純白の地肌が露わになっていく。
「ね、すごいでしょう?」
彼女の手元を見つめながら、私は息をのむ。
「剃るたびに、本当の“素のあなた”が出てくるのよ。」
彼女の言葉の意味が、じわじわと染み込む。
――今、私は、本当に「すべてを剃られている」。
「――終わったよ。」
彼女の手が剃刀を置く音が、静かな部屋に響いた。
私は、恐る恐る鏡を覗き込む。
――そこには、一本の毛もない、完全なスキンヘッドの自分がいた。
「……これ、本当に、私……?」
もう、さっきの五厘刈りすら残っていない。
白く滑らかな頭皮が、部屋の光をほんのりと反射していた。
指をそっと頭に伸ばす。
――ツルッ。
思わず、息をのむ。
たった今まで、ザラザラとした手触りだったのに――
今は、まるで陶器のように滑らかだった。
「……すご……」
無意識に、もう片方の手でも撫でる。
どこを触っても、同じ感触。
本当に、何もなくなった。
「ね、気持ちいいでしょう?」
彼女が笑いながら言う。
「……うん。」
気づけば、私は頭を撫で続けていた。
何度も、何度も。
手のひらが滑るたび、ツルツルの感触が心地よかった。
「ふふ、ほらね? もうすっかり気に入ってる。」
彼女がクスッと笑う。
「え……?」
私はハッとした。
確かに、撫でるのをやめられなかった。
「……違う、ただ、変な感じがして……」
言い訳のように口にする。
でも、彼女の表情は変わらない。
「いいのよ。気に入ったなら、素直になれば?」
彼女の指が、私の頭皮を撫でた。
その仕草が、妙に優しくて――
私は、言葉を失った。
でも――
急に、現実が襲ってきた。
「……明日から、どうしよう……」
ぽつりと呟く。
「仕事もあるし、外に出なきゃいけないし……」
さっきまでの心地よさが、一気に遠ざかる。
この姿で、いつも通りの日常を送れるのか?
「……本当に、私、大丈夫なのかな……」
不安が、胸を締めつける。
「大丈夫よ。」
彼女の声が、そっと私を包む。
「最初は少し驚くかもしれないけれど――慣れれば、きっと気にならなくなるわ。」
「それに、ほら……」
彼女の指が、私の頭を軽く弾く。
「ツルツルしてるんだもの。清潔で、綺麗で、最高じゃない?」
冗談めかした言い方なのに、不思議と気持ちが落ち着いていく。
「ね? これからも、ずっと綺麗にしていこう?」
「……え?」
私は彼女を見つめる。
「せっかくここまできたんだから、この状態を大事にしたほうがいいわよ。」
彼女の指が、ゆっくりと頭を撫でる。
「だって……せっかく、こんなに綺麗になったんだもの。」
私は何も答えず、ただ指の感触を感じていた。
――私は、どうすればいい?