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第九十二話 騎士団長、命を懸ける

 黒い箱の片隅で、ただただ泣くことしかできない私に、彼女は手を伸ばしてくれた。


 一緒に遊ぼう――――。


 そんな言葉と、その小さな手が、私を絶望の淵から救い上げてくれた。

 積み木遊びが大好きな彼女は、閉じられた空間の中でも、太陽のように明るく笑っていた。

 私は彼女に憧れていた。自由なんてどこにもないのに、彼女は彼女であり続けた。


 彼女のように生きたいと思った。

 私も、常に私でありたいと願うようになった。

 

 そして、最後の実験の日。

 実験に失敗し、白衣の悪魔たちに運ばれていく彼女は、もう、彼女ではなく(・・・・・・)なっていた(・・・・・)


 私の中で、何かが弾ける音がした。


◇◆◇


「エルダ騎士団長!」


 ひとりの騎士が、王都の外れに到着したエルダに、駆け寄る。

 集まった騎士たちの視線の、はるか先。そこにいた化物は、優雅に空を飛びながら、〝月の塔〟の周りで暴れ回っていた。


「なんだ……あれは……」


 数多の魔族をその目で見てきたエルダですら、あんな化物は見たことがなかった。

 まだ相当な距離があるはずなのに、化物が垂れ流す魔力のせいで、肌がチリチリと痛む。

 生物的本能が、今すぐここを離れろと警鐘を鳴らしている。

 数年前、エルダはまだ新人の頃に、レベル4と対峙した経験がある。魔術も使えないエルダにとっては、死を直感させる最悪の状況。あのとき生き残ることができたのは、まさに奇跡と言っていい。

 あれから、エルダは強くなった。今こそ、レベル4と対峙しても、互角に渡り合える自信があった。――――そんな自分が、あのときよりも強い恐怖を覚えている。

 化物は、〝月の塔〟に向かって様々なものを投げつけていた。木や岩が命中するたびに、〝月の塔〟が崩れていく。その様子を見て、化物は楽しそうに笑うのだ。


「あんな化物が、街中で暴れたら……」


 エルダの周囲にいた騎士たちが、青ざめた顔で目を伏せる。

 誰もが、祖国の崩壊を想像した。しかし、それを防ぐことが、ゼレンシア王国聖騎士団の務め。彼らを叱咤すべく、エルダは剣を抜き放ち、天に掲げた。


「王都にいる勇者と騎士をかき集めろ。迎撃準備が整うまで、私が時間を稼ぐ」


「そ、そんな! いくら騎士団長殿でも――――」


「いいから! 行けッ!」


 エルダの怒号を聞いて、騎士たちは一斉に姿勢を正す。

 騎士たちは、己の役割を果たすべく、散り散りに走り出した。

 エルダは、停めてあった馬に飛び乗り、化物目掛けて走り出す。

 なんて無謀なことを――――エルダは、自分自身にそう声をかけた。ここが王都の外れでなければ、エルダも部下たちと共に、化物から離れていただろう。ただ、今エルダが尻尾を巻いて逃げだせば、それこそ王都は壊滅的な被害を受ける。

 敵うはずがないと分かっていても、エルダは駆けだすしかなかった。

 彼女を彼女たらしめるのは、誰よりも強く培われた、その責任感である。


「アアアァァアアアァアアア!」


〝月の塔〟が完全に崩れ去り、化物がはしゃいだ様子で手を叩く。

 空気がビリビリと振動し、肌を痛めつける。それと同時に、エルダは自分が危険域に入ったことを自覚した。

 恐怖を押し殺し、顔を上げる。化物を完全に視界に捉えた瞬間、エルダは、自分がこの目で見ているものを信じることができなかった。

 赤き月を背に浮かび上がる姿は、まさに大いなる存在としか言いようがなかった。

 流れるように伸びた白い髪は、蚕の糸のように滑らかで美しく、そして力強い。漆黒の肌に、点々と浮かび上がった赤い瞳は、ルビーのように輝き、目を合わせた者を掴んで離さない。

 あれが何か知りたい。触れたい。否、知ってはならない。触れてはならない。

 脳が理解を拒み、答えのない押し問答を繰り返す。

 人の理など、この化物の前では、ちっぽけな羽虫が定めたルールに過ぎない。

 誰がそう言うまでもなく、初めからそう決まっている。

 エルダが理解できたことは、せいぜいその程度だった。もし、この世界に神がいるとすれば、きっとこのような姿をしている。

 しかし、そんな未知なる存在に対し、エルダは奇妙な既視感を抱いていた。


――――あの格好……まさか。


 化物が身につけているものに、エルダは見覚えがあった。

 肌も、髪も、エルダが知るその人物とはかけ離れている。しかし、決して無視できないほど、衣装やその顔つきが、彼女に酷似していた。

 強く、気高く、そして、どこか憎たらしい。

 彼女はそういう女だ。断じて、このような化物ではない。

 エルダは、何度もそう自分に言い聞かせる。ただ、こうして対峙したときの気配、そして何よりも、肌に触れる濃密な魔力が、エルダの直感を肯定していた。

 ついに、化物の姿を間近で捉えたとき、エルダは、抑えきれぬ感情を声に出していた。


「っ――――何をしているのだ! カグヤ!」


「アハァ!」


 エルダに気づいたカグヤは、無邪気な笑みを浮かべる。

 瞬時に、エルダは気づかされた。

 自分がまさに、肉食獣に目をつけられた草食獣――――いや、それ以下の存在であることを。

 体が震え始め、歯がガチガチと音を鳴らす。近づくに連れ、カグヤの魔力がさらに濃くなり、酸がかかったのかと錯覚するほど、肌が刺激で熱を帯びていた。

 それとは裏腹に、寒気が止まらない。まるで、極寒の地に裸で放り出されたような、避けようのない死による絶望感があった。


「アハハッ!」


 ふわりと高度を上げたカグヤが、エルダに向かってすくい上げるように腕を振り抜いた。

 すると、地面を衝撃波が駆け抜け、エルダに迫ってくる。


「っ!」


 偶然、馬がぬかるみに足を取られ、大きくよろめく。それによって、エルダは衝撃波の軌道から、わずかに外れた。

 次の瞬間、すぐそばの地面が、衝撃波によってえぐり取られる。そして、その衝撃がわずかに掠っただけで、エルダは馬の上から吹き飛ばされ、地面を転がった。

 死んでいた。間違いなく。確実に。

 全身から、汗が噴き出す。意識が乱れ、まるで夢でも見ているかのように、思考がぼやけていく。

 それは、エルダにとっての、一種の防衛本能だった。感じたことがないほどの、異常なまでの恐怖から、心を守ろうとしているのだ。

 再び、カグヤが腕を振ろうとする。エルダは抵抗を見せることなく、膝を折った。


「いっ……」


 手を地面についたとき、その手のひらに、尖った石が突き刺さる。

 偶然か、それとも、何かがエルダを生かそうとしているのか。

 とにもかくにも、その痛みによって、エルダは一瞬恐怖を忘れた。

 再び、カグヤの腕の振りに合わせて、衝撃波が駆け抜ける。

 エルダは、とっさに横に跳び、それを回避した。 


「はぁ……はぁ……」


 恐怖のあまり、呼吸すら忘れていた。今更酸素を欲しがる体のために、必死に息を吸う。

 恐怖は、依然としてそこにある。とても敵うとは思えない強敵を前に、すべてを諦めたほうが楽になれることは分かっていた。

 しかし、今日までの歩みによって培った、騎士としてのプライドが、最後の最後で彼女の支えとなった。


「どうせ死ぬなら……私は、国を守って死ぬ」


 ぼそりとつぶやき、エルダは立ち上がる。

 震える体に鞭を入れ、刃の先をカグヤへ向けた。


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