第八十二話 モブ兵士、誘惑される
オーロランド邸の浴槽は、十数人が同時に入っても、互いが邪魔にならないほど広い。
そんな、だだっ広い浴槽を、ひとりの女が独占していた。
「……ふぅ」
湯にぷかりと浮かびながら、カグヤは天井を見上げた。
その顔は、いつになく暗い様子で、いたいけな少女のようだった。
「――――なんだか、子供みたい」
あとからやってきたシャルルは、湯船に浮かぶカグヤを見て、そう言った。
カグヤは、天井を見上げたまま、口を開く。
「魔力の無駄だからって、ダーリンに飛ぶのを禁止されたから、気分だけでも味わってるのよ」
「そう……」
シャルルは、ダーリンという言葉に引っかかりを覚えたものの、いつものことだと自分を律し、体を清めることにした。
「別に構わないけれど、どうして私が入っているときに来たのかしら」
「ちょっと、話したいことがあったから」
シャルルは、全身についた泡を洗い流し、カグヤが浮かぶ浴槽につかる。
「……シルヴァのこと、本当はどう思ってるの?」
「どうって? 愛してるってずっと言ってるじゃない」
「それは、結ばれたいって、こと?」
「……」
カグヤは、しばしの間、沈黙した。
「――――分からないわ、そんなの」
そして、どこか不貞腐れたような、子供のような声色で、そう言った。
「私には、あなたや騎士団長さんのような、人の心ってものがないみたいだから」
「そんなことはない。カグヤだって、人のために魔族と戦ってる」
「人のためじゃないわ。それが、私が生まれた理由だからよ」
「……」
今度は、シャルルが沈黙する番だった。
「私は、魔族を滅ぼすために生まれたの。いくら自由を謳っても、その本質だけは、どうしたって変わらないわ」
「……それじゃ、まるで自分は兵器だって言ってるみたい」
「実際、その通りよ。……シルヴァを愛しているのも、本当は、自分にも心があるって思いたいだけなのかも――――」
「それは、違う」
シャルルは、カグヤの言葉を遮った。
カグヤは、漂うのをやめて、シャルルを興味深そうに見つめる。
「へぇ、どうしてそう言えるのかしら?」
「あなたの、シルヴァに対する気持ちが偽物なら、私がこんなに嫉妬するはずがない」
「それはどうかしら。シルヴァが娼婦に誘われたとしても、あなたは嫉妬するでしょ?」
「確かに、機嫌は悪くなる。でも、それは嫉妬からくるものじゃない」
「よく……分からないわ」
そう言いつつも、カグヤはシャルルの気持ちをなんとなく汲み取ることができていた。
シルヴァが、どこぞの女に口説かれていたとしても、カグヤはなんとも思わない。
そんな女より、彼が自分を大事にしてくれると知っているからだ。
しかし、相手がシャルルなら、どうだ。
カグヤは、自分の胸がキュッと締めつけられるような感覚を覚えた。
「――――そうね……こんなに痛いんだもの。きっと、本物だわ」
自身の胸に手を添えたカグヤは、大事に大事に、自分の気持ちを口にした。
「でも……私の気持ちが、あなたになんの関係があるのかしら」
「……私たちは、選ぶ必要がある」
シャルルは、真っ直ぐカグヤの目を見た。
「〝奪い合う〟か、それとも〝共闘〟するか」
「詳しく、聞こうかしら」
いつの間にか、カグヤはシャルルの話に集中していた。
「奪い合うほうを選べば、多分これまで通り、私とカグヤはいがみ合い続けて、どっちかが悲しい思いをする。でも、共闘するほうを選べば、二人ともシルヴァのそばにいられる」
「回りくどいけど……要するに、二人ともシルヴァのお嫁さんにしてもらおうって話ね」
「うっ」
羞恥で誤魔化した部分を、ダイレクトな言葉にされ、シャルルの顔がポッと赤くなる。
「別に、私は構わないわ」
カグヤは、再び浴槽に体を浮かべ、天井を仰いだ。
「誰が相手だろうと、私は、私を変えるつもりないもの」
彼女らしい、我が強い言葉に、シャルルは小さく笑った。
その言葉を、ずっと待っていたのだ。
「お節介ね、あなた。まるでダーリンみたいだわ」
「なんのこと?」
「居場所をなくした私を、元気づけようとしたんでしょ?」
シャルルは、すぐにカグヤから目をそらした。
「口下手なのに、よくやるわね」
「……それでも、放っておけなかった」
天井を見上げたまま、カグヤはふふっと笑った。
まさか、自分を心配する者が、こんなにいるとは思っていなかった。
そして、心配されることに、喜ぶ自分がいることにも驚いていた。
カグヤにとって心配とは、弱者に向けられるものだと思っていたから。
「カグヤに傷ついてほしくない。だから、守る。シルヴァと一緒に」
「……そんなことされても、正妻は譲らないわよ?」
「……正妻は私」
「あら、結局奪い合いね」
「私とあなたは、戦う運命なのかもしれない」
いつものように、二人は睨み合う。
ただ、陰鬱とした空気は、どこかへ消えていた。
◇◆◇
「それじゃあ、お休み」
寝間着姿のシャルたそが、自室に消える。
ブレアス本編にも出てきた、白色のパジャマ。うむ、眼福でございました。
「じゃ、俺は外で見張ってるから――――」
カグヤが、俺の服の袖を掴む。
「待って。外にいて、どうやって私を守ってくれるの?」
「え、でも、部屋の中にいるわけにもいかないだろ?」
一応、男と女という立場ではあるわけで。
さすがに同じ空間で夜を共にするのは、避けようと思っているのだが。
「前に、ダーリンの部屋に泊まったことがあったじゃない。今更だと思わない?」
「……そういや、そんなこともあったな」
あれは吸血鬼事件のときだったか。
カグヤが宿舎までついてきたものだから、ベッドを明け渡して、俺は床で寝る羽目になったんだ。
「あなたがそばにいてくれたら、私も安心して眠れるわ」
「大してビビってないくせに……。まあ、分かったよ」
断る理由が思いつかず、俺はカグヤと共に、部屋に入った。
部屋の内装は、俺が使わせてもらっている部屋とほとんど同じ。
カグヤは、ベッドに腰掛け、窓の外へ視線を送る。
「……三日間も月が出ないなんて、変な感覚だわ」
「俺たちからすれば、特別違いはないんだけどな」
夜が、いつもより少し暗いだけ。
そこに特別な意味はない。
「私にとっての月は、恩人、腐れ縁、足枷――――挙げていったらキリがないわ。でも、ないと困るのは確かね」
そう言って、カグヤは鼻で笑う。
「ねぇ、ダーリン。変なこと訊いてもいいかしら」
「ん?」
「もし、このまま月が姿を消してしまったら、ずっと私を守ってくれる?」
その潤んだ瞳を見て、俺は言葉に詰まった。
カグヤの表情が、あまりにも儚く見えてしまって、思わず心を奪われそうになる。
「――――ああ、守るよ」
だからだろうか。俺は、よく考えもせず、そう返していた。
「ふふっ……ふふふふふ」
口元を押さえ、カグヤは笑い始める。
それを見て、俺はようやく嵌められたことに気づいた。
「おい……」
「嬉しいわ。それってプロポーズよね? これでようやく、正式な夫婦になれたわ」
「ち、ちがっ……今のはそういう意味じゃなくてだな」
「あら、前言撤回は情けないわよ?」
「だから、そもそも意味が――――」
言い終わる前に、カグヤは俺の腕を掴んで、ベッドに引きずり込む。
とっさに手をつくと、カグヤの顔が、目と鼻の先にあった。潤んだままの瞳と視線が絡み、ドキッと心臓が跳ねる。
これではまるで、俺がカグヤを押し倒しているようではないか。前世じゃこういう状況にまったく恵まれなかったせいで、どうしていいか分からない。
脳みそが、真っ白に染まっていく。
「大胆ね」
「――――っ!」
挑発的な笑みを浮かべるカグヤに、俺の頬が熱を持つ。
するりと、カグヤの腕が伸びてきて、俺の首にかかる。吸い込まれそうな彼女の魅力に、俺は抗えなくなっていた。
「――――油断大敵」
突然、そんな声と共に、部屋の扉が開け放たれる。
そうして部屋の中に入ってきたシャルたそは、ベッドの脇に立ち、俺たちにジト目を向けた。




