第七十四話 自称妻、空を舞う
物心ついたとき、私は黒い箱の中にいた。
月が昇ると、窓が開き、月の光が私を照らす。
月が沈むと、窓が閉じ、部屋は再び黒に染まる。
私は、その窓から月を眺めるのが好きだった。
それが、私のすべてだった。
やがて私は、自分と同じような〝月の子〟たちと、共同生活を送ることになった。
初めての会話。
初めてのおもちゃ。
初めての友達。
すべてが新鮮で、楽しかった。自分が、世界で一番幸せなのだと勘違いするほどに。
――――ひとり、またひとりと、仲間が消えていった。
再び孤独になったとき、私の中には、人ならざる力だけが残っていた。
その力は、私に自由を与え、外の世界を教えた。
黒い箱は崩壊し、私は空を舞う。
まるで、祝福するように、月が私を照らしていた。
◇◆◇
「おはよう、シルヴァ」
声をかけられ、俺は顔を上げる。
我が推し、シャルル=オーロランドは今日もかわいい。
「おはよう、シャルたそ。昨日はよく眠れた?」
「うん。少し緊張してるけど」
そう言って、シャルたそはキュッと拳を握った。
無理もない。今日は、大きなイベントが控えているからだ。
〝昇級試験〟――――。
実績を積んだ勇者のみが受けられる、由緒ある試験だ。
レベル3の魔族討伐や、廃人化事件の解明などの実績が認められ、シャルたそは、三級への昇格試験を受ける権利を得た。
シャルたそが勇者になってから、まだ半年も経っていない。
今日、三級に昇級できたとしたら、前代未聞の早さだ。
まあ、カグヤという例外もいるが――――。
「休日なのに、呼んじゃってごめん」
「気にしないでくれ。どのみち応援に行くつもりだったし」
緊張がほぐれるからという理由で、俺はシャルたそに付き添いを頼まれた。
俺の存在が役立つとは到底思えないが、せっかくのお誘いだ、断るわけがない。
それに、ブレアスのオタクである俺が、シャルたその晴れ舞台を見逃すなんて、あってはならない。
「……正直、ちょっと不安」
そう言いながら、シャルたそは目を伏せた。
三級に相応しい実力があるか。今日の昇格試験では、そこをチェックされる。
シャルたそは、これまでの実績がまぐれではないことを証明しなければならない。
「大丈夫だって。シャルたそは十分強いよ」
「ほんと?」
「本当だ」
力強く頷いてみせると、シャルたそはクスッと笑った。
「分かった、信用する」
うーん、シャルたそは今日も可愛いなぁ。
特に、この笑顔。本来なら、アレンしか見ることが叶わないはずのそれを、モブであるはずの俺が堪能している。これ以上の幸せは、この世界に存在しないだろう。
ただ、俺が幸せになった分、ブレアスの本編にズレが生まれていることに関しては、ちゃんと考えなければならない。
そうだ、アレンといえば。修行の旅に出たと聞いてから、もうずいぶんと経つ。
一体、あの主人公サマは、どこで何をやっているのだろうか。
「――――見つけたよ、シャルル」
後ろから声をかけられ、俺たちは振り返る。
噂をすればなんとやら。そこには、アレンが立っていた。
ただ、俺が知っている姿とはどこか違う。頬には深い傷があり、装備は全体的にボロボロになっていた。まるで、戦場から帰ってきたかのような佇まいだ。
「アレン……」
「会えてよかった。君を探していたんだ」
俺のことなど眼中にない様子で、アレンはシャルたそのもとに駆け寄ってきた。
アレンのそばには、マルガレータとレナの姿もある。二人の装備も、アレンと同じように、かなり使い込まれている様子だった。
「ずっと連絡できずにごめん。オレたち、つい昨日帰ってきたんだ。厳しい修行を積んでね」
「……そうだったんだ」
シャルたそが反応に困っている。
まあ、もうとっくに決別したわけで。むしろ、これまでと同じように話しかけてくるアレンの精神がおかしいとさえ思う。
ただ、本編のアレンも、自分を拒絶する相手にも、ずかずかと歩み寄るような、大胆不敵なところがある。つまり、今のアレンの言動は、解釈一致ではあるのだ。
「それで、オレたちさ……今度、勇者試験を受けることにしたんだ」
思わず、感心しそうになった。
このタイミングで勇者試験を受けるということは、シャルたそのように、勇者学園を退学することになる。ブレアスにおいて、それは修羅の道と言われていた。
学園を卒業する際にもらえる装備品は、かなり性能がよく、便利なスキルも習得できるため、順当に卒業を目指したほうが、クリアまで安定して進むことができる。
その一方、退学ルートを選ぶと、早い段階から高難易度ダンジョンに挑めたり、退学ルートでなければ出会えないヒロインと交流したりすることができる。
故に、どちらがいいという話ではない。単純に、難易度が大きく異なるというわけだ。
「シャルル、もしよかったら……また、オレたちと一緒に行かないか?」
シャルたそが目を丸くする。
当然だ。自分がどんなふうにフラれたのか、こいつはまったく覚えていないのだろうか。
「君の気持ちを考えなかったこと、ずっと反省してたんだ。簡単には許してもらえないことも分かってる。……でも、やっぱりオレには、ここにいる仲間と同じくらい、君が必要なんだ」
暑苦しい台詞を、暑苦しい表情で口にしたアレンは、シャルたそに向かって大袈裟に手を伸ばす。寸劇でも見させられているのだろうか、俺は。
「オレと一緒に、勇者試験を受けよう。オレたちなら、絶対合格できる!」
「私、もう合格してる」
「……え?」
シャルたそは、アレンに向かって四級勇者のライセンスを見せた。
アレンは、ライセンスを凝視しながら、何度も目をこする。
「う、嘘だろ……⁉ いつ……?」
「アレンたちが旅に出てすぐ。それに、今から昇格試験を受ける」
「昇格試験⁉ いくらなんでも早すぎないか⁉」
その反応になるのは至極当然だが、シャルたその活躍を知る者にとっては、逆に昇格しないことのほうが不自然だ。
「そんな……⁉ まさか、この門兵が協力して――――」
その発言にイラッときた俺は、アレンを睨みつけた。
「おい、それはシャルたそに失礼だぞ。シャルたそは、間違いなく自分の力で勇者になったし、自分の力で昇格のチャンスを手に入れたんだ」
「ぐっ……」
動揺しているアレンに、シャルたそが冷めた視線を向ける。
無意識だろうが、アレンは今、シャルたそを見下したのだ。自分より先に、勇者になんてなれるはずがないと。
「勇者になるなら、勝手にして。私はもう、あなたの仲間にはならない」
シャルたそが、俺の手を引っ張った。
どうやら、これ以上彼らに付き合うつもりはないらしい。
「ま、待ってくれ!」
「……まだ何かあるの?」
冷たい声で、シャルたそは振り向く。
「君に会いたかった理由は、それだけじゃない」
わなわなと震えているアレンは、俺をキッと睨みつけてきた。
「シャルルの前で、あんたにリベンジするためだよ」
「……へぇ」
剣を抜いたアレンは、その切っ先を俺へ向けた。
「オレと戦え」
「年上には敬語を使ってほしいもんだけど……まあ、いいや」
昇格試験までは、まだ時間がある。
シャルたそを見下した報いを受けさせるには、十分な時間だ。
「言っておくが、あのときとは違うぞ」
「説得力がねぇな。どうやら、性根は変わってないみたいだし」
「なんだとっ⁉」
アレンの体から、魔力が立ち昇る。
確かに、旅に出る前と比べると、魔力の量が桁違いだ。
「アレン! 頑張って!」
「成長した力を見せるときですわ!」
「ああっ!」
レナとマルガレータの応援を受け、アレンは剣を振りかぶる。
「おいおい、まさかここでやる気か⁉」
「行くぞ! 門兵――――ぐえっ」
アレンが跳びかかろうとした寸前、空から彼女が飛来し、その体を押し潰した。
「あら? 何か踏んだかしら?」
「……ああ、色々と踏みにじったな」
「悪いわね。小さくて見えなかったの」
足元を見たカグヤは、憐れむような声でそう言った。