第百三話 モブ兵士、斬り払う
時が止まり、周りのすべてが意識の外へ追いやられる。
「何、言ってんだ?」
たった一言だけなのに、舌が絡まりそうになった。
心臓の鼓動が激しくなり、ぐわんと視界が歪む。
はったりかもしれない。しかし、俺を動揺させるための言葉にしては、やけに断定的だ。
ネフレンは顔を押さえ、喉を鳴らすように笑う。俺の動揺など、すべて見透かされているかのようだった。
「あなたが何者だろうと、関係はありません。あなたはここで死に、私は目的を果たす……」
ネフレンの背中から、歪な翼が生える。
「――――この世界を破壊するという目的をね!」
やつがその翼で羽ばたくと、鋭い風の刃が、俺に襲い掛かった。
「チッ……」
風の刃が肌を撫でる。避けることは叶わなかったが、この程度の攻撃であれば、魔力を纏った体には傷ひとつつかない。
「無傷ですか。では、これなら?」
ネフレンは、再び羽ばたくと同時に、右手をかざした。
「〝炎ノ暴風〟!」
風と炎が合わさり、急激に膨れ上がる。
これでは、下手な魔術よりよっぽど脅威だ。
「なんでもありかよ……!」
いまだ動揺が続く中、俺はとっさに体を捻り、剣を構えた。
「ゼレンシア流剣術――――〝蜷局〟!」
刃を横薙ぎに振ると、俺を中心に竜巻が発生する。それによって、ネフレンの炎は虚空へと流れていった。
「生憎、それは囮です」
そんな声が聞こえた瞬間、俺の足元が、瞬時に凍りつく。
氷はあっという間に下半身を覆いつくし、俺の体を地面に固定してしまう。
「その状態でかわせますか?」
ネフレンが右拳を握りしめると、筋肉が大きく盛り上がる。
「〝賢王ノ正拳〟!」
丸太のように太くなった腕を振りかぶり、ネフレンは拳を放った。
とっさに腕を交差し、ネフレンの拳を受け止める。
しかし、踏ん張りも利かず、後ろに跳んで威力を殺すことすらできない今、俺は余すことなく衝撃を食らい、思い切り殴り飛ばされた。
「くそっ……!」
俺は地面に剣を突き立て、吹き飛ぶ勢いを殺す。
剣を持つ手が、ジンジンと痺れている。あんなもの、何発もモロに食らえば、さすがに俺でも堪える。
「はあ……。この程度ならば、そう警戒する必要もありませんでしたか」
ネフレンの目には、失望の色が浮かんでいた。
こんな視線、前世では散々向けられてきたが、この世界では初めてかもしれない。大嫌いな上司の顔を思い出してしまい、最悪な気分になった。
「――――ひとつ訊かせろ」
「はい?」
目を伏せながら、俺は立ち上がった。
「神とやらは、そんなに俺を消したがってんのか?」
「その通り。ですが、あなただけではありません。私の役目は、この世界を終わらせ、ゼロに戻すこと。それが、神が私に与えてくださった使命なのです」
「……だったら、その神サマは、頼む相手を間違えたな」
ネフレンを睨み、俺は魔力をさらに開放する。すべてを飲み込まんと広がっていく魔力。
それに触れたネフレンの顔から、血の気が引く。
「こ、この魔力量は……⁉」
これほどまでの濃い魔力に触れ続けたら、魔族でも肉体がダメージを受ける。
ゆっくり近づいていくと、ネフレンは苦痛に顔を歪めた。
「ふ、ふざけるな……あれだけの戦いのあとで、まだ魔力を残しているなんて……」
「一応、先に言っておく。大人しく投降するなら、俺もこれ以上は攻撃しない。さあ、どうする?」
「ふふっ、ふふふ……投降などするはずがないでしょう……!」
ネフレンは、右足から出る冷気で空気を凍らせ、無数のつららを俺に向かって放った。
俺はそれを軽く打ち落とし、さらに距離を詰める。
「私は神に選ばれし者であり! 赤き月の代弁者! こんなくだらない世界を良しとするクズどもに! 負けるはずがない! そうでしょう⁉」
ネフレンが空を見上げる。すると、そこにあったはずの赤き月は、いつの間にか青白い光を放っていた。
ネフレンは愕然とした顔で、膝をつく。
青白い光がネフレンを残酷に照らしている。今や、その顔からは生気を感じない。
「……どうやら、神とやらは愛想を尽かしたらしい」
「そんな馬鹿な! 神が私を見捨てるはずがない……」
「もう一度言うぞ。大人しく投降しろ」
「っ! うるさい! うるさいうるさいうるさいッ!」
ネフレンが吠える。すると、やつの体がボコボコと蠢き始め、肥大化していく。
そこには、美しさの欠片もない、ただの歪な化物の姿があった。
「お前だけは! 私のこの手で――――」
不相応に巨大化した右拳で、ネフレンは俺を押し潰そうとする。
それをかわすと同時に、俺は剣を振った。
「ぎゃあぁあ⁉」
肘の先から、ネフレンの右腕が飛ぶ。地に落ちた腕は、ぐずぐずと崩れていき、粘着質な肉片になってしまった。それを皮切りに、ネフレンの肥大した筋肉が、同じように崩れていく。
やはり、無茶な移植だったのだ。
「まだだ……まだ私は……誰にも認められていない!」
地面を踏みしめた足が、衝撃に耐えられず、弾けて周囲に飛び散る。
「どうして! どうして私を拒むのですか! 私はこんなに頑張ったのに! どうして報われない! どうして認めてくれないんだ!」
それでもネフレンは、ただがむしゃらに攻撃を放つ。
俺はそれをすべて払いのけ、ネフレンの眼前に刃を突きつけた。
「それが、お前の本音か」
「私を認めないこの世界が悪いのです……そんな世界は、リセットしなければ……」
「哀れだよ、お前」
「うるさい……うるさいんだよ! 私を見下すなァァアアアア!」
我を失ったネフレンが、唯一残っている左腕を振り上げ、跳びかかってくる。
俺はやつを、一刀のもとに斬り伏せた。