第百二話 自称妻、天に立つ
地面が爆ぜ、土埃が舞う。カグヤはそこから離脱すると、シャルルの隣に降り立った。
「手応えありね」
視界が晴れたとき、傀儡は、巨大なクレーターの中央に倒れ伏していた。体のほとんどが弾け飛び、周囲を赤く染め上げている。しかし、それでもまだ、傀儡の体は再生を遂げようとしていた。
「今のでも、決定打にならないなんて」
顔をしかめたシャルルが、その場に崩れ落ちる。
それと同時に〝月に吼えるもの〟が、光の粒子となって霧散した。
「……時間切れね」
「くっ……」
シャルルが想像していたよりも、〝月に吼えるもの〟による魔力消費は激しかった。あっという間に魔力を使い切ったシャルルは、四つん這いでいることすらできず、うつ伏せで倒れ込む。
「あと、少しなのに」
すっかり回復してしまった傀儡が、再び宙に浮かぶ。
絶好のチャンスなど、もうどこにもない。
「このままじゃ……」
「あら、私に発破をかけておいて、自分はおねんねなの?」
シャルルを庇うように立ち、カグヤは胸を張る。
「っ、まだ――――」
立ち上がろうとするシャルルだったが、やはり上手く力が入らず、再び地面に伏せてしまう。
足を引っ張らないと誓った以上、ここで寝ているわけにはいかない。そう自分を奮い立たせているのに、肝心の体がついてこなかった。
「でも……あなたにしては、よくやったわ。誇っていいわよ」
「え?」
「動けないなら、そこで休んでいなさい。終幕は、私ひとりで独占させてもらうわ」
カグヤが、傀儡と同じ高さまで浮かび上がる。
そして月を見上げ、慈しむように微笑んだ。
「私は私。もう、揺らいだりしないわ」
カグヤの外見が少しずつ変化していく。溢れ出した魔力の影響で、髪は白く、肌は褐色に。着ていた衣服すらも、真っ白に染まっていく。
そして、周囲の空間すらも魔力の影響を受け、景色が歪み、まるで透き通った羽衣のように、カグヤの周りを包み込んでいた。
その姿は、〝月に吼えるもの〟によく似ていた。
しかし、その魔力量も、その存在感も、すべてにおいて勝っている。
シャルルは今、自分が見ているものが信じられなかった。カグヤの姿は、まさに神話を生きる神そのもの。
「〝月光変化〟――――〝ツクヨミ〟」
小さな神が、慈愛に満ちた表情で、この地を見下ろしていた。
カグヤはこれまで、魔族の人格と肉体を共有して生きてきた。
要するに、常に重りを体に入れていたようなものだ。それが取り除かれた今、月の寵愛を受けしカグヤという存在は、世界の理ですら縛れない高みに達していた。
「……綺麗」
シャルルは、カグヤのあまりの変貌に、小さくため息をついた。
神々しくも、儚く。それでいて気高く、美しい。
人の理を外れた者にしかたどり着けない、幻想の向こう側にある美が、そこにはあった。
「――――いつまで、そうして赤くなっているのかしら」
カグヤが振り返ると、いまだに赤く輝く月が浮かんでいた。
その姿を鼻で笑ったカグヤは、そっと夜空に手をかざす。そして、その手を振ると、月は一瞬にしてもとの色に戻っていた。
「そう、それでいいのよ」
青白い光を浴びて、カグヤは微笑む。
月の寵愛を受けるどころではない。今のカグヤは、偉大なる月さえも、支配下に置いていた。
「ああ、いい気分だわ。今ならどこまでも飛んでいけそう」
カグヤが優雅に空を舞う。
それに対し、傀儡が飛び蹴りを放つ。それを一瞥したカグヤは、指を軽く振った。
刹那、傀儡の体は、地面に深々とめり込んでいた。
はたから見ていたシャルルですら、何が起きたのか分からず、瞬きを繰り返す。
「カグヤ……アソ、ボ」
「悪いわね、遊びは終わりよ」
カグヤが再び指を動かすと、傀儡の体が浮かび上がる。
必死に〝重力魔術〟で抵抗を試みるものの、傀儡の前には、もはや絶対に越えられない壁があった。
「ヨミ……今、解放してあげるわ」
カグヤが、天に手をかざす。
すると、青白く輝く光球が、彼女の頭上に現れた。膨大な魔力が凝縮されることで生まれたそれは、月光よりも明るく、煌々と辺りを照らしだす。
「〝月光神器〟――――〝八尺瓊勾玉〟」
膨れ上がった光球が、傀儡に向かって放たれる。
光球に飲み込まれた傀儡の肉体が、ボロボロと崩れていく。
「カグヤ……アリ、ガト」
意思など残っているはずがないのに、かつて太陽のように明るかった少女は、あのときと同じように笑い、姿を消した。
「私が私である限り、誰にも負けたりしない――――あなたがくれた言葉、もう忘れないわ」
目を細め、カグヤは夜空を見上げた。
「……ゆっくり眠りなさい。この月の下で」
◇◆◇
「〝炎蜥蜴ノ息吹〟!」
ネフレンの右手の〝口〟から、業火が放たれる。
〝魔力領域〟を展開しているのに、業火は消えることなく向かってくる。仕方なく、俺は剣で炎を斬り払った。
「どうなってんだ? それ」
戦闘中だというのに、ネフレンは嬉々として語り出す。
「これは、サラマンダーの魔族から移植したものです。私自身、魔術は使えませんが、魔族の体を移植したことで、その力を使うことができるようになったのです!」
自慢するかのように、ネフレンはその炎で足元を焼き払う。
火を噴くといった、魔族や魔物が持つ能力は、あくまでその種の体質であり、魔術とは関係ない。
魔術を封じる〝魔力領域〟は、意味を成さないということだ。
「……面倒臭いな」
「さあ、こんなこともできますよ?」
ネフレンが、右足で地面を踏みつける。
すると、地面が凍りつき、俺の足元まで冷気が伸びてきた。
後ろに跳んで回避した俺は、凍りついた地面を見て、顔をしかめた。
射程は二十メートルもない。しかし、速度はなかなかのものだ。捕まれば、一瞬にして凍りついてしまうだろう。
「神に近づいた私は、今やあらゆる能力を使いこなす、唯一無二のオールマイティとなった……。実に素晴らしいとは思いませんか?」
ネフレンは、凍った地面を高速移動しながら、うっとりとそう言った。
「だったら、その左手も替えちまえばよかったじゃねえか。その火傷のままじゃ、遅かれ早かれ正体がバレてただろ」
ネフレンが放った右拳を、瞬時に受け流す。
その右手に反して、左手は人の形を保ったままなのが、やけに奇妙だった。
「この左手は、いわば手術道具ですよ。替えるだなんて、とんでもない。これがあったから、私は神に近づくことができたのです」
「嬉しそうに語ってるとこ悪いけど、気味の悪いピエロにしか見えねぇよ」
強く踏み込んだ俺は、一気に距離を詰め、剣を振る。
ただの研究員では、とてもかわせないはずのひと振り。
しかし、双眸がギョロリと動いたかと思えば、ネフレンは華麗な動きで刃をかわし、俺の間合いの外に出た。
「私を道化呼ばわりとは……くくっ、滑稽ですね」
「何が言いたい」
「道化なのは、あなたのほうかもしれませんよ?」
「死人を弄ぶクソ野郎の言葉なんて、ひとつも響かねぇよ」
ネフレンが、再び炎を放つ。それを潜り抜けた俺は、肉薄すると同時に、刃を下から振り抜いた。
しかし、またしてもやつの目が俺を素早く捉える。殺意を込めて振ったはずの刃は、皮膚をわずかに斬り裂くのみとなった。
「ふふっ、さすがはあのエルダ騎士団長に一目置かれている男……特級勇者や、オーロランド家のご令嬢と関係が深いのも納得です」
俺は、とっさに追撃の手を止めた。
「……俺について調べたのか?」
「ええ、必要なことでしたから。私が授かった天啓には、あなたを消すようにというご意思があったのです」
じんわりと、背中に冷や汗が滲む。
この場でネフレンの首を刎ねてしまえば、それで済む。
分かっているのに、何故か俺は、やつの言葉が続くのを待っていた。
「知っていますよ、私は。あなた……この世界の人間ではないのでしょう?」