第百話 自称妻、怒る
「何故このようなことに……」
顔を覆い、ネフレンは嗚咽する。
そこには、俺には到底理解できない、純粋たる狂気があった。
「あんた、カグヤを魔族にして、結局何がしたかったんだよ」
「……この世界は間違っている」
背筋がゾッとする。
それは間違いなくネフレンの声だった。頭ではそう認識しているのに、まるでここにはいない別の誰かの言葉であるような、形容しがたい違和感があった。
「神の力ですべてを破壊し、この世界をリセットするはずだった。それを、あなたが……!」
怒りの形相になったネフレンから、魔力が溢れ出す。
おかしい。ただの研究者であるはずのネフレンに、これほどの魔力があるはずない。
俺は警戒心を強め、二人を庇うように立ち、剣を構えた。
「魔族を用いた実験は、私の存在を高めてくれました……お見せしましょう、私が得たすべてを」
ネフレンが、白衣を脱ぎ捨てる。
上裸になった彼の体には、夥しい数の縫い目の痕があった。縫い目ごとに肌の色がまったく異なることから、魔族のパーツも混ざっているのだろう。
「どうです! 美しいでしょう⁉ 神が人と魔族の混血であるならば、私も人の身でありながら、この体に魔族を宿すことにしたのです! これで私は、もっと神に近づける……!」
体を撫でまわしながら、ネフレンはうっとりとした顔で赤き月を見上げる。
魔族の体を人体に移植すれば、甚大な拒絶反応が出るはずだ。同族であっても、拒絶反応が起きるのに、異種族なんてもってのほか。
研究者らしく、科学的に拒絶反応を抑えているのか、それとも、やつが特別な力を持っているのか。
なんにせよ、今の体になるためには、相当危険な橋を渡ってきたはずだ。一体、何が彼をそうさせるのだろう。
「――――あなたにとって、神というのは私のことよね?」
カグヤが、俺の隣に立つ。
その足取りは、さっきよりもしっかりしていた。
「魔族を体に取り込んだ程度で、私に近づけると思われるのは心外だわ。とても不快よ」
「あなたの声など、聞く価値もありません。神がただの人間に敗れるなんてことは、決してない。あなたは神ではなかった。だから負けたのです」
「ふふっ、そんな風に思っているうちは、いくら研究したって無駄ね」
「……なんだと?」
ネフレンの額に、青筋が浮かぶ。
どうやら、研究者としての彼のプライドが、刺激されたようだ。
「神だろうが、悪魔だろうが、関係ないのよ。ダーリンの前ではね」
そう言って、カグヤは俺に向かってウインクをした。
――――参ったな、こりゃ。
カグヤより強いことを証明した今、俺が半端なことを抜かすと、カグヤまで恥をかく。
推しに対し、そんな真似はできない。
「面白い。神すら下すというのなら、証明していただきましょう」
ネフレンがそう言うと、カグヤもどきの体が浮かび上がる。
この魔力の感じ、やはりカグヤそっくりだ。
「彼女は、私が神を真似て作り上げた、最強の傀儡です。体が壊れては交換を繰り返し、月の魔力を十年以上吸わせました。今や、オリジナルよりも強大な力を持つかもしれません」
ネフレンの言っていることは、あながち間違いでもない。
魔力量から察するに、少なくとも、普段のカグヤに並ぶ力を持っている。
「ほら、私の可愛い傀儡よ。彼らにご挨拶を」
「……」
傀儡の口が、ぎこちなく開く。
その挙動は、本当に人形のようだった。
「カ、グヤ……イッショ、ニ、アソ、ボ……」
「っ⁉」
聞き覚えのない、幼い子供の声。
それを聞いた途端、カグヤが目を見開く。
「あなた、まさか……ヨミ、なの?」
「カグヤ、アソ、ボ」
傀儡が笑う。それはまるで、糸で釣られたような、歪な笑みだった。
「ああ、そういえば……あの実験体とあなたは、とても仲がよろしかったようですね。感動の再会、というやつでしょうか?」
「ヨミは、死んだはずよ……あなた、一体何をしたの」
「私は最初、神をこの手で生み出すことに尽力しました。そこで目をつけたのが、〝月の研究所〟の実験体たちです。彼らは、神と同じ魔族との混血。死体であっても、絶好の素材でしたよ」
「まさか……他の子たちまで」
「ええ、もちろんこの体に組み込まれていますよ。ほら、美しいでしょう? 命を散らしてなお、こうして新たな存在として輝いているのですから」
ネフレンが、傀儡の髪を撫でる。
その挙動に対する嫌悪感で、俺は思わず目を逸らしそうになった。
「死者を弄んで……何が美しいってんだよ」
「ふふふ、教えて差し上げましょうか? その体に、直接ね」
傀儡が、俺に向かって一直線に跳びかかってくる。
身構えた瞬間、横から伸びてきたカグヤの手が、傀儡の腕を掴んで止めた。
「反吐が出るわ。あなたのような男は」
「ほう。私の傀儡を止めるとは」
カグヤはネフレンを睨んだあと、俺を一瞥した。
「このお人形さんとは、私がやるわ。いいわよね、ダーリン」
「でも、その体じゃ……」
「あら、私を誰だと思ってるの? ……終わらせてあげたいの。私の手で」
カグヤの背中を見つめ、俺はため息をついた。
こうなったときのカグヤには、何を言っても無駄だ。
「分かった。その代わり、ちゃんと帰ってこい」
「ふふっ、心配性な旦那様だわ」
カグヤは、傀儡を掴んだまま、宙に浮かび上がる。
瓜二つの彼女たちは、はたから見ていると、ただの仲睦まじい姉妹のように見えた。
「場所を変えましょう」
離れていくカグヤを、俺はただ見送る。
「シャルたそ、一応カグヤを見ててやってくれないか」
「もちろん、そのつもり。気をつけてね、シルヴァ」
「ああ。シャルたそもね」
シャルたそはカグヤの後を追って、駆け出した。
俺には、俺の役割がある。カグヤが戻ってきたときに、まだ終わっていないのかとがっかりさせたくない。
「俺の相手は、お前だな」
「どうしようもない愚者ですね、あなた方は。……いいでしょう。天啓を受けし私自ら、あなたを神のもとへ送って差し上げます」
ネフレンの右手に、〝口〟が現れる。鋭く尖った歯は、間違いなく魔族のものだ。
そして、〝口〟が大きく開くと、燃え盛る業火が溢れ出した。
「悪いけど、神には興味ねぇよ」
向かってくる炎を斬り裂き、剣先をネフレンに向ける。
「俺が大事にしてんのは、推しの笑顔だけだ」
それを奪おうとするやつは――――必ずこの手でぶちのめす。