百合にならない百合
唯には半年ほど、会っていなかった。
昨日、大学の玄関で友人と待ち合わせをしているとき、たまたま、唯が通りかかった。
「あれ、彩奈?やっぱ、彩奈だ!久しぶりー、入学式以来だねー!」声をかけて来た唯は、毛先を赤く染めていて、丈の短い花柄のワンピースを着ていた。ピンクのアイシャドウをつけ、真っ赤なリップを塗っており、最後に会ったときより、数倍可愛いらしくなっていた。
「あ、唯。久しぶり、めっちゃ変わってんじゃん。」
「まあねー、サークルとか飲み会とかで毎日遊んでる。そっちは最近どうー?」
「バイト行ってレポート書いたら、まじで時間無い。サークルも結局入んなかったし、大学と家とバイト先ぐるぐるしてるだけ。」大変だねー、と唯は笑っていた。
唯は、大学内でおそらく唯一の同じ高校出身の友人だ。高校では生物部に入っていて、クサガメの世話を一緒にしていた。明るくさばさばとしていて、可愛く、常に周りには友達がいた。内気で、話すことがあまり得意でない私とは対照的であったが、不思議と同じゲームやアニメが好きで、話が合った。
「そういえば、高校のときの彼氏とは、どうなった?」
「あー、あいつね、受験前に別れた。推薦で大学受かって、遊びまくっててー、一緒にいたら、モチベ下がるんだもん。」
「そっか。」今は好きな人いないんだよねー、と唯が淡々と言っていたので、安心した。
「あー、そうだ!あと、生物部のカメが5月の中頃に卵産んだ話、聞いたー?」
「まじ?知らない。」
「お世話引き継いでくれた子から連絡あってー、殻を取ってあるらしい。暇な時、一緒に見に行かないー?」
「うんうん、見たい。今度、予定空いてる日、連絡するね。」
「おっけー、じゃあ、次の講義あるからー。」
「あ、うん、じゃあね。」
昨日の会話を思い出しながら、残り物のスープを温め、トーストにバターを塗って朝食を済ませた。大学まで徒歩8分、築40年の学生アパートは、冬が近づくと、電気ヒーターをつけていても手足が冷える。中学の頃から使っている、くすんだベージュのコートを着て、意を決して外に出た。
バイト先に着くと、パートのおばさんと近くの大学の先輩が先に働いていた。休憩を挟んで、昼過ぎまで働いた後、帰り支度をしていると、この間のトラブルの件で話がある、と先輩に声をかけられた。トラブルなど身に覚えがなく、何事かと身構えた。ここでは話しにくいから、向かいのカフェに行こう、と言われ、働いている店を出た。
喫茶店など行ったことがなく、財布の中にいくら入っていたか心配になった。前を通ったことしかない、チェーンのコーヒーショップでは、流行りの曲が流れていた。学生と思しき若い女性が3人、スマホをいじりながら会話しているほかに、客はいなかった。カウンターでは、明るい茶色の髪の女性が注文をとっていた。
「ホットコーヒーください、彩奈ちゃんは?」
「あ、えっと...カフェラテをお願いします。」
「かしこまりました。」
「ここは俺が出すね。」
「あ、すみません。」
先輩は右の尻ポケットから茶色の皮財布を取り出した。長年使っているのか、縁が黒ずんでいる。会計を済ませ、トレイに乗った飲み物を受け取ると、先輩はきょろきょろしながら店の一番奥の席へ歩いていった。
先輩は手前の椅子に座り、私はソファ席をついた。
「トラブルの件、私は聞いていないんですが」
「あ、その、それは大した問題じゃなくて...」
「何かあったんですか?」
先輩は、えっと、あの、としばらくもごもごしたのち、
「実は、その...前から彩奈ちゃんのことかわいいなーと思ってて...」と言った。
自分が異性から好かれるなど、意外であった。特にかわいいわけでもなく、大した特技もない、ただの地味な人間だと思っていた。告白すればOKされやすい人だと思われたのだろうか。
「よかったら、付き合ってくれないかな。」と先輩が続けた。
今まで、恋愛とは無縁の生活を送ってきて、これからも、恋人などいないだろうと思っていた。先輩のことは嫌いではないが、恋愛感情はもっていない。なんだか、もやもやとした気持ちがして、先輩と付き合うことを前向きに考えることができなかった。
「考えといてくれればいいから、いつか返事聞かせて。」
先輩はそれだけ言うと、コーヒーを飲み干して去っていった。
2週間後、世話をしていたカメと卵を見るため、唯と高校行くことになった。駅で待ち合わせ、バスを待つ間にバイト先の先輩の話をした。
「えー、いいじゃん、付き合いなよー」
「いいなー、あたしも彼氏ほしいなー」
「まあ、彩奈はかわいいから、当然だよねー」
唯はうれしそうにして、先輩と付き合うことに賛成していた。唯の様子に驚いて、うん、しか返事ができなかった。唯の方が可愛いのに。
「先輩はどんな人ー?」
「うーんと、背が高くて...あとは、普通?」
「えー、なにそれー。かっこいいの?」
「顔は...特にかっこいいわけじゃないけど、困った時に頼りになる...かな?」
「いいじゃん!頼り甲斐のある年上。いいなー」
「そうかな」
頼りになる、というのはバイト先での話だ。実生活で頼りになるとは限らない。
話をしているうちに、高校の方へ行くバスが来た。バスに乗り込むと、唯は先輩のことを根掘り葉掘り訊いてきた。先輩をじっくり観察したことがないため、ほとんどの質問に、わかんない、としか答えられなかったが、唯は楽しそうにしていた。
卒業したばかりの高校は、記憶していたよりも小さく見えた。インターホンを鳴らすと、中年の男性の声がした。用を伝えると、しばらくして生物部の顧問の先生が校舎のドアから出てきた。
来客用のスリッパに履き替えて、部室である理科実験室へ向かった。
「大学はどうかな。」
「実験とか専門的な勉強ができて、楽しいですよー」
「そうか。カメの卵なんだがね、保存のために中身を取り出したんだ。今は殻が残っている。」
「そうなんですねー」
実験室には、窓際に水槽が並べられ、熱帯魚の隣にカメがいた。一匹で飼われているため、卵は無精卵だったのだろう。カメの水槽の横にシャーレがあり、綿に包まれた卵の殻が入っていた。カメの卵はうずらの卵に似ており、中身を出した時の小さな穴が空いていた。
「きれいですねー」
唯はカメの卵を手のひらに乗せて眺めていた。唯の横顔の方がきれいだと思った。
「ああ、だけど無精卵だから孵らないのに、ずっと抱えていてね。取り上げる時も可哀想だった。」
「そうだったんですね。」
私は生返事をしながら、高校時代の唯を思い出していた。
クラスに馴染めなかった時、声をかけてくれた。昼食を一緒に食べてくれた。部活にも誘ってくれた。家に呼んでくれて、一緒に遊んだこともあった。どんな時でも唯は優しくて、可愛かった。唯一の存在のように思っていた。だが、唯はいつも誰かと一緒にいた。私は仲の良い人のうちの1人だったのだろう。
ぼーっとしていると、私の手に唯の手が触れた。柔らかい指とネイルをした爪の感触が伝わる。卵を渡してくれたようだが、びっくりして落としてしまった。
「ごめん、ひび入っちゃったねー」と言って、唯は卵を戻した。
「どしたの?」
「なんでもない、大丈夫。」
唯が顔を覗き込むと、緊張して目を合わせられなかった。
実験室を出た後、職員室で担任の先生と話をしたが、何も覚えていない。
高校からの帰りは、ほとんど会話がなかった。私は自分の感情を整理するのに手一杯だった。
結局、私は先輩と付き合ってみることにした。告白されたときと、同じカフェの同じ席に座って、返事をした。先輩は、本当にいいの?と5回も訊いて、連絡先を交換した。
唯に先輩と付き合ったと連絡すると、とても喜んでいた。会ってみたいとしきりに言っていた。
街路樹の葉が落ちきった頃、唯と先輩を部屋に招いて、鍋をすることになった。
唯は、先輩に会うなり、嬉しそうにして、質問攻めにしていた。
「彩奈は高校の時からめちゃくちゃ可愛かったんですよー」と唯が言って、制服姿の唯と私のツーショットを見せた。制服を着た唯は、私よりずっと可愛かった。
「うわー、いいなー。その頃に会いたかったー。」と言うと、先輩はテーブルの下でそっと手に触れて、ゆっくりと手を握る。払いのけることも、握り返すこともせず、そのままにしていた。
「彩奈が幸せそうで、よかったー」と唯が言った。
微笑んだ顔を見て、唯のことを好きだったのだな、と分かった。胸が痛くなったが、なんとか笑い返すことができた。
「鍋、煮えたよ。」
と言って、鍋の蓋を取ると、唯の姿が湯気で霞んでいった。
私は、先輩の手を握り返した。