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余韻

「ふぅ」


 イエルチェの口からその余韻を楽しむかのように、熱い吐息が漏れた。明かり窓から入ってくる月明かりに照らされたその肢体には、汗がうっすらと浮かんでいる。


 イエルチェは侍従部屋のさして大きくはない寝台の上で体をよじると、下腹部に伸ばしていた手を月明かりに翳して、謎の微笑みを浮かべて見せた。


「これがあるから、人の身に取り憑くのはやめられないわね」


「その気持ちは分からなくもないが、楽しみ過ぎではないのかな?」


 どこからともなく聞こえてきた声に、イエルチェは寝台から飛び起きると辺りを見回した。足元の先の壁際に男の影がある。


「覗き見とはあまりいい趣味とは思えませんが? それによくここに入れましたね。流石と言うべきでしょうか?」


「トカス君に内側から手伝ってもらったのだよ。それでもかなりの手間だ。私単独では無理だな。危険すぎる」


「それに始める前に声をかけてくれれば、一緒に楽しめたのに残念です」


 ブリエッタはそう言うと、男に向かってわざとらしく、汗で肌に張り付いていた髪をかき上げて見せた。


「ブリエッタ、私の話を聞いていなかったのかね? 私は楽しみ過ぎだと言ったのだよ。何もするなとは言わないが、程度というものがあるのではないのかな?」


「楽しみ過ぎ? 私はこの子の欲求を満たしてあげただけです。それが何か?」


 そう告げると、イエルチェは男に向かって肩をすくめてみせた。


「その件ではない。召喚の件だよ。『渇望の亡者』を呼び出すとは悪戯にしては度が過ぎていないかい?」


「悪戯? 様子見ですよ。あの坊やがちゃんと仕事をするのか、この中にどんな者達がいるかを確かめる必要はありませんか?」


「様子見にあれが必要かい?」


「ええ、『渇望の亡者』はその為の最も最適な手段だと思いますけど? 直接穴の向こうに送り返すことも、その呼び出し元を追うこともできない。こちらが一方的に相手の出方を見ることができます。その様な時の為に、この子を私の器として選んだのではないのですか?」


「勘違いしては困る。この子を選んだのは、保険の為であって、君の悪戯の為ではない」


「あら、では何の為に?」


 ブリエッタが男に向かって首を傾げて見せる。


「君の力を直接晒すことを避けて、いざという時にあの子を守る為の手段だ。言わば奥の手だよ。決して積極的に使うことなど意図してはいない。君は相手を侮る、いや自分の力を過信して、油断するという前回と同じ過ちをもう一度繰り返すつもりなのか?」


「過信、油断、この私が?」


 男の言葉にブリエッタの顔が険しくなった。


「前回は短命の者達が総力を上げて私を排除しようとした結果よ。私が盾にならなかったら、貴方も私達の主も無事では済まなかった。今回は同じ過ちを犯さないためにも、相手の力量を十分に測る必要があるのではなくて?」


「それで、その成果はあったのかね?」


「もちろんよ。あの坊やの召喚術はそれなりのものね。普段は小物しか呼ばないのはどういうことかしら? それよりも召喚ではなく、直接に力を使う者達がいるわ。とても醜く幼稚ではあっても、私達と同じ種類の力よ」


 ブリエッタは男に向かって、叩きつける様に言葉を投げかけた。だが男の反応は極めて冷淡だ。何の感銘も憂慮も、その態度からは感じることが出来ない。


「ブリエッタ、ここは王立学園だよ。ロストガルの庭先だ。それにロストガル家の王子様に王女様だって居るんだ。あんな悪戯など仕掛けなくても十分に判る話ではないかな?」


 そう告げると、男はブリエッタに向かって首を横に振って見せた。


「そもそも前回も、君が相手にこちらの力をひけらかす必要は全く無かったのだ。君が坊やと呼ぶ彼は、君と違ってその事を十分に理解しているだけだよ」


 男の台詞にブリエッタの顔に焦りの表情が浮かぶ。


「君の尊大な自尊心がそれを要求しただけの事だ。ある意味で君の本質とも言えるがね。それ故にそれを制御することは私の大事な役目の一つでもある。だが私の手に余るのであれば、排除するしかない」


 そう言うと、男は右手をブリエッタの前に差し出した。その手は黒い皮の手袋で覆われている。男は左手で右手の中指を掴むと、おもむろに右手から手袋を外そうとした。


「待って!」


 ブリエッタの口から悲鳴が上がった。その姿はイエルチェの姿ではなく、黒い髪に真っ白の肌のブリエッタが好む人型の姿へと戻っている。


「私を排除したら、あの子の命もないわよ!」


「そうだろうか? トカス君に聞いた話では、もう自分の足で歩き始めたそうじゃないか。あの子はもう君の助けなしでも生きていけると私は思うけどね。それに体を維持するだけなら、サンドラにだって出来る仕事だ」


 男の右手からは既に手袋が半分ほど外れ掛かっている。ブリエッタはそれを恐怖の眼差しで見つめた。


「ごめんなさい。あなたに逆らうつもりなんてないわ!」


 ブリエッタはそう叫ぶと、寝台から飛び降りて男の足に縋りついた。


「そうだろうか? 私にはそう思えないのだけどね」


 男の冷静な言葉が響く。


「私だって、我が主人の帰還を心待ちにしているのはあなたと同じよ。私も彼の方の手に触れて、抱きしめてもらいたい。それはあなたと同じなのよ」


 ブリエッタの懇願に、頭上から男の小さなため息が聞こえた。


「ブリエッタ、もう時間がないのだよ。遊んでいる暇などないのだ。自分が何をなさねばならないかはよく分かっている筈だろう」


「はい」


 ブリエッタの返事には、先程までの虚勢の色は何処にもない。


「二度目の警告はない。次にこの様な事があったら、サンドラと入れ替える。いいね」


「ですが、サンドラなんかでは無理です!」


 ブリエッタはそう告げると頭を上げた。だが先ほどまで男がいた壁際には何の気配もない。ブリエッタはゆっくりと立ち上がると、小さな明かり窓の側へと身を寄せた。そこからは宿舎の周りを囲む木立と、その上に欠け始めた二つの月が見える。そして木立の中を去っていく黒い人の影があった。


「やはり本体は外に居たのね」


 ブリエッタの口から小さなつぶやきが漏れる。ブリエッタはおもむろに右手を上げると、赤い月をその掌の上へと乗せた。


「こうして見ると、本当に近くにあるように見えるのに、なんて遠いの……」


 ブリエッタは手の上で赤い月を握りつぶして見せると、窓の外へと目をやった。そこにはもう男の姿はない。


「私の主人が自分の主人と同じだと、どうして思い込めるのかしら? 私はあなたと違って、奴隷ではないのよ」


 そう呟く女の姿は、既にイエルチェと呼ばれる人の姿へと戻っていた。


* * *


「用事は済んだのか?」


 トカスは木立の中から現れた男に向かって声を掛けた。トカスの手には杖があり、落ち葉を払った地面には何やら複雑な紋様が描かれている。


「ああ、終わったよ。言うことを聞かない子供へのお説教だ」


「お説教? 一体あれは何者なんだ」


「おや、あの家庭教師だけでなく、もっと若い子にも興味があるのかい?」


「口が滑った。忘れてくれ」


「そうだな。世の中には知らない方が幸せなこともたくさんあるそうだ。特に男女の間においてはそうだと聞く」


「あんたは俺の爺さんか何かか?」


「確かに君よりは少し長生きしているが、爺さんとは失礼だな」


 男がトカスに向かって意地の悪い笑みを浮かべて見せた。


「それよりも、この仕掛けは一体なんなんだ。こんな術式など聞いたこともない。これを維持している仕組みもだ。継続的に穴を開け続けでもしない限りは無理だ。そんなことをすれば夜中にドラを鳴らしながら行進するようなものだが、穴の気配すら感じられない」


「大昔の物だ。今では誰も仕掛けられるものなどいないだろう。まあ、こんな術が使えたからこそ、大魔法を発動させて滅んでしまったと言うのが正解だろうな。行き過ぎた術と言うのは常に人の手に余る物だよ」


 そう言うと、男はトカスに向かって肩をすくめてみせた。


「だが、何でそんな物がこんなガキどもの巣を守るに使われているんだ?」


「そうだな。世の中には……」


「分かった。忘れてくれ。それより、さっさと外へ行ってくれないか? 使い魔を呼び出す為の穴とは勝手が違う。それに普段使わない術を使ったばかりで、これでもかなり消耗しているんだ」


「それは悪かったね。今度いい酒でも奢ることにしよう」


「酒なんかより、一体いつになったらこの面倒な仕事……。いっちまったか」


 トカスは杖を畳むと、男が消えた後の地面からガラスの瓶を拾い上げた。目の前まで持ち上げると、琥珀色の液体が、黄色い月をその中に揺らめかせている。


「確かに酒は極上の様だな」


 トカスは地面の紋様を靴で素早く消すと、林の中へと姿を消した。

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